第2話 ことの経緯とか姉への文句とか
「しんちゃん、メイドさんを雇います」
うちの姉はとうとうおかしくなったのかもしれない。確かに最近妙に忙しそうにしていたので、いつものように限界を迎えたのだろう。
「みつみ姉さん、急にどうしたのさ?」
金曜日の仕事を終えてリビングで映画を見ていたところで、姉が部屋から飛び出してきた。振り返って見てみると、タブレット端末を見ながらものすごくニヤニヤしている。普段は真面目で温厚な姉なのだが、たまにぶっ飛ぶことがある。ニヤニヤした表情に加えて、僕のことを「進乃介」ではなく「しんちゃん」と呼ぶ場合には間違いなくその状態だ。
「これ、申し込んでみようよ!」
そういいながらタブレットをこちらに渡してくる。見てみると、「家政婦派遣どっとこむ」というサイトをPDF化したものらしい。なんでPDF、と思わなくもないが、姉はブラウジング中に気に入った情報があればPDF化する習慣があるので、これもその一環だろう。そしてそれだけにさっきの言葉が結構本気なことが察せられてしまう。
正直サイト名だけを見てみると、なかなか怪しい雰囲気だったのでまずは会社情報を確認する。
「あれ、メガバンの資本が入っているのか」
驚きなことに、意外とまともな会社なのかもしれない。会社の代表取締役の経歴やら何やらを見ても不審どころが超エリートとも言える。HPの雰囲気にしてもサイト名除けばものすごくきっちり作られていて、しっかりと金額をかけたどこに出しても恥ずかしくないものだと思う。それが逆に怪しいといえなくもないが、それは穿ちすぎだろう。
「これがどうしたのさ?」
みつみ姉さんが何をしたいのかは明白だが、確認しないわけにもいかない。
「しんちゃんのところもうちもすっかりテレワークじゃん。結果、家での時間も増えたし一緒に料理したりするようになったじゃん。面倒くさいじゃん。メイドさんほしいじゃん」
僕と姉はそれぞれ違う会社に勤めているが、家賃や生活費の節約のために同居している。しかし、IT化やらなんやらのお題目とともに、すっかり両社ともにほとんどテレワークで仕事が完結するようになり、今では四半期に一度出社とかよくわからない状況になってしまった。ちなみに本社ビルもすでに売却され、むこう十年単位でもこんな感じの仕事になるだろう。
「そういうわけでメイドさんです」
言いたいことはよく分かる。僕も姉も家事が嫌いではないが、働きながら毎日やるのはなかなかしんどい。家政婦さんがいたら正直めちゃくちゃ助かる。
「言いたいことはわかったけど、この会社大丈夫なの?」
「多分大丈夫だよ。実は会社の同期の日野ちゃんの紹介なの。もう半年くらい使っているみたいだけど特に問題は起きてないみたい」
なるほど、知り合いからの紹介ということなら安心できる。件の日野さんは、酔いつぶれた姉をわざわざ家に送り届けてくれた際に一度だけお会いしたことがあり、しっかりした真面目そうな女性だったはずだ。
「費用とかは大丈夫なの?」
「そこそこお金はかかるけど、余裕だよ。むしろ出前とかうちの前のレストランで食事していた部分も考えると家計の負担がそこまで増えるわけじゃないと思う」
なるほど、確かに家政婦さんに食事を作って貰えば自分たち以外の人の料理を食べられるということで外食とかの頻度も減るだろう。
というか費用については心配していない。そのあたり姉はかなりしっかりしていて、家計簿もばっちりなので、僕に提案してきた段階で精査完了しているのは間違いない。
「うーん、まあいいよ。駄目だったらやめればいいしね」
とりあえずお試しで、と僕が言うか言わないかの時点で「よっしよっし!じゃあさっそく連絡するから!」とやたら嬉しそうに姉は部屋に戻ってしまう。
そんなに家政婦さんを雇いたかったのかと少しびっくりしてしまう。もしかしたら家事が結構な負担になっていたのかもしれない。いずれにせよ、姉さんがあれだけ嬉しそうにしているのなら申込みを承諾してよかったと思う。家族の幸せは僕の幸せ、そういうことにしておこう。
「メイドさん、超美少女とかだったらしんちゃんどうする?」
部屋から顔だけ出してそんなことを言ってきやがったので、GOサインを出したことを即座に後悔したのは言うまでもない。本当に大丈夫か、これ。
◇◇◇
普段のおっとりした感じはどこに忘れてきたのか、姉は即断即決で話を進めてしまった。あまりにもスムーズに進行している気がするものの、家政婦業界のマーケットスタンダードがよくわからないし、きっとそういうものなのだろう。
とにもかくにも月曜日の夕方17時半から家政婦さんに来て頂く運びになった。
「メイドさんが来る前に、しっかり掃除しないとね!」
という姉さんの提案により、日曜夕方に結構力をいれて掃除することになった。家政婦さんが来る前に掃除するって変な気もするが、家族以外の他人を家に招くのに汚いままというのも気持ち悪い、という感覚もわかるので素直に従うことにした。
「ところで、みつみ姉さんや」
「なあに?」
「流石にメイドさん呼びはまずいと思うよ」
「そうかな?」
「そうだよ……」
急に月曜日が来るのが不安になってきた。まあ、おそらくすでに子供が独り立ちされているくらいの年齢の方がいらっしゃるだろうから、若者の戯言くらい笑って許してくれるだろう。
◇◇◇
そして月曜日。僕の仕事は仕事開始を早くする代わりに17時を定時に設定している。ありがたいことに今の時期は残業が殆どないため定時終了がほとんどだ。その例に漏れず業務の終了報告をして、17時過ぎには今日の業務完了である。
従来であれば、ここから夕食を作るか出前でもとるかと一悩みすることになっていたが、今日は家政婦さんにお願いできる手はずになっているようだ。なるほど、ちょっとしたことかもしれないがこれは非常に楽だ。
自室を出てリビングに行くと、姉はすでに仕事を終えてソファーでテレビを見ていた
。
「姉さん、なんでそんなにしっかりした格好をしているのさ」
黒のロングヘアーにはしっかりコテが当てられ、ゆるくウェーブがかかっている。服装も楽なホームウェアではなく、エクリュカラーのハイゲージニットにワイドパンツというそのまま出社できるような格好だ。
「まあ、一応人様が来るわけだしね。初回くらいはきれいな格好しといたほうがいいんじゃない?」
「うーん。まあ、そうだね」
僕らはそもそもあまりゆるい服装が好きじゃない。例えばスエットとかジャージとか。ホームウェアにしているのも生地が柔らかいイージーパンツとかオーバーサイズのシャツとか、わりときちんとしているが楽に過ごせるというタイプのものばかりだ。
なので姉に合わせて僕も仕事に行けるくらいの服装に着替える。購入したもののまだあタグすらとっていない紺色のカーディガンがあったので、これに合わせて青のギンガムチェックのシャツにアンクル丈のチノを合わせる。きれいなテーパードシルエットで、履きやすいこともありかなり気に入っている。
と、そうこうしている間に部屋の呼び鈴がなる。時間は17時30分ジャスト。早く来ても迷惑になるし遅く来たら心証が悪い、ということなのかもしれない。
「はい、はい、508号室ですのでそのままエレベータでいらっしゃって下さい。一番奥の角部屋ですのでー」
姉さんが応対してくれたが、なぜかこっちをニヤニヤと見ている。何か……嫌な感じだ。
「来たねえ」
「そりゃあ、お願いしたんだから来るでしょうよ」
心に生じた疑いの芽はあるが、ここに至った以上あとは流れに身を任せるほかはない。と、再度呼び鈴がなったので姉さんとともに玄関に向かい鍵を開ける。
さて、鬼が出るか蛇が出るか――
出てきたのはメイドさんでした。まごうことなき。
襟と袖だけは純白の真っ黒なシャツに足首まである黒いロングスカート。しかし、銀色のカフスボタンに純白のエプロンが見事に映えている。足元はヒールではなく、ピカピカ鏡面仕上げのメリー・ジェーンで歩きやすさを求めつつも、隙を感じさせない。
「お初にお目にかかります。私、
灰色の大きな大きな瞳を僕らに向けて、彼女はそう言った。夕日に照らされた髪は金色なのか白髪なのか僕には分からなかった。思考も疑問もその瞳に吸い込まれ、しかし、頭に載せているカチューシャがスカートを横に大きく広げながら丁寧にお辞儀するのに合わせて揺れているのがなんだか可笑しくて変に笑ってしまった。
やばい。家政婦さんじゃなくてメイドさんと呼んだほうがいいのか?
すっかり停止した僕の頭では、そんなくだらないことがぐるぐると回っていた。
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