たねき猫

 左京区の比叡麓には、弘法大師が修行したと伝わる不動院がある。

 叡山電車の駅から長い坂を登った先の、山の上にその不動院はある。

 不動院は、狸の名前がついていて京都では、車のお祓いで割と有名な寺院で、京都の車には、必ずと言って、ステッカーが貼ってあるのだ。


 ある日のこと、不動院の山に狸はいないが、猫がいると聞いてきたのは、妻だった。

 私は、これまで何度も何度も、不動院の山に登ってきたが、猫など見たことがなかった。

 私は妻が熱心に話のを、ふん、ふん、と聞いていた。

 妻が言うには、猫は、猫とは思えないほど、とても大きくて、黒いんだそうである。

 人が猫に遭遇することは稀で、人を見ると、逃げてしまうんだそうである。

 私は、ここまで聞いて、それって、もしかすると、クマではないか?と考えた。

 しかし、妻は猫、猫と言うし、クマだと言うと、妻はきっと怖がるに違いない。妻は田舎育ちの割に、野生動物に臆病なのだ。


 それから、数日して、私一人が休みだったので、不動院の山に行って見ることにした。

 朝10時、叡山電車の駅から続く長い坂道を登り始め、車の祈祷所を過ぎ、参道の数百段の階段を登った。

 階段を登りきり、本殿に着いたころには体中から、汗が吹き出していた。

 私は、ハンカチがわりに持っているてぬぐいで額の汗を拭った。

 境内の参拝ルートをふらりと巡ってみたが、猫などいる気配はない。

 もし、クマのような大きな猫が境内にいたなら、地元の新聞社が放っておかないだろう。

 私は境内から登山道に通じる巡回路を周って見ることにした。

 巡回路は、四国の88カ所巡りになぞらえた、88カ所の巡回路で、不動の童子などの石像が、巡回路に設置されている。

 私は巡回路を巡っていれば、お目当ての猫は兎も角、リスなんかいるんじゃないかと考えていた。

 私は巡回路をふらふら巡り、童子の石像を眺めたり、木にリスがいないかと、眺めたりした。

 巡回路を半ば過ぎ、猫なんかいないじゃないか、やっぱり妻のデマ話だった。家に帰ったら妻に猫なんていないと話してやろうと考えていた時、巡回路の3メートル先に、黒い何かがいることに気づいた。

 黒い何かは、私と反対に向いていて、私に気づいておらず、顔も見えない。

 体の大きさは、1メートルはあるだろうか。四つん這いであるし、動物には違いない。

 私はクマであれば逃げれば、襲われるし、内心、ドキドキが止まらないが、動かずにいた。

 すると、黒い何かは顔だけをゆっくりと私の方へ振り向いた。

 私は、その顔をマジマジと見た。

 黒い何かも私の顔をマジマジと見た。

 その刹那、黒い何かは、森の中に走って逃げてしまった。


 私は、黒い何かの顔を今でも思いだす。クマでは、なかった。

 顔には、黒い毛や茶色い毛が生えていた。

 タヌキのような猫だった。

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