想いの標

 蝉鳴く夏の山の奥、林を抜けた木陰の先。陽当たりの良いこの場所に、私は一人で生きている。

 電気は通っているし麓に店もあるが、少し登ったこのあたりでは人の姿は滅多に見ない。けれどもまあ降りれば優しくしてくれるおばちゃんもいるし、毎日退屈している訳ではない。そもそもこれから、たくさんの人に出会えるのだ。

 一昨日は砂利の隙間の草を抜いた。昨日はそこら一帯の草を刈った。今日は何をしようか。カレンダーは葉月、上一列に赤いバツが付いている。

 今は小さな小さな敷地の中の、エアコンの効いた部屋で涼んでいる。時計は八時、日は既にそれなりに高い。食パンを引っ張り出して焼いて胃に押し込む。さて、今日も仕事だ。


 人は元来忘れっぽい。誰かが何処かで死んだことなんて、特別な事でもなければ気にも留めない。仮によく知る誰かが死んだとしても、ずっと泣いている人間なんていない。しかしそれを恥じる必要はない。人はいつか死ぬ、それは当たり前の事だから。そして人はいつか全て忘れる、それも当たり前の事だ。

 けれど人は忘れたくないのだ。愛した誰かの声を、背中を押してくれた誰かの名前を、笑顔にしてくれた誰かの笑みを。それはよぼよぼの手だったかもしれないしまだまだ生きていけるほど健康だったかもしれない。けれど人には生きてきた年数分の物語があって、そこには等しく価値がある。歴史には残らなくても、誰かの記憶の片隅ではきっと静かに笑んでいる。

 だから私は今日もこの小さな箱庭の手入れをしている。建っているのは小さな小屋と、敷地に置かれた墓標が二十。いつかこの世を離れた人を、繋ぎゆくのは生者の記憶。忘れゆくほど脆い記憶を、繋ぎ止めるのが習慣だ。墓標は、此岸と彼岸を繋ぐ道に建つ小さな道標なのだろう。


 深緑を揺らして、一陣の風が吹き抜ける。

 今年もまた、夏が来た。

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