恐ろしきは底知れぬアイ
「────なんで」困惑の色を隠せない。
目の前にて佇む友の顔は笑っていた。憐憫でも嘲笑でもなく、
「……なんで、そんな顔が、出来るんだ」
言葉がすんなりと出てこない。先程の、流暢に嘲り笑っていた自分が嘘のようだ。困惑が濁流となって意識を掻き乱す。やがて雪崩て堰となり、言葉を詰まらせる。
「何故ってそりゃあ」
友は尚も笑んでいる。それがさも当然であるかのように。
「……何故ってそりゃ、君が救われたからさ」
視覚と聴覚とこの手に残る触覚の残像と、全ての理解を脳が拒む。言葉の理解を脳が拒む。意味探しの手を脳が止める。視界の色を脳が奪う。思考など此処に存在しなかった。し得なかった。視界が一瞬暗転した後、正気を取り戻す。口が無意識のうちに状況を語り始める。脊髄が、なんとかして言葉を絞り出そうとしている。
「僕は、お前の友達、だった」
明瞭な視界を取り戻す。
「そうだね」
その音を、確かな言葉として理解する。
「僕は、お前と、親友と呼べる付き合いをしていた」
灰色の細胞が、再び動き始める。
「ああ、僕らは親友だった」
彼は尚も微笑んでいる。
「それで、俺は、お前を」
瞬間、思考が完全に正常化される。言葉の後を継ぐことなく、新たな発話を装填する。掌の感覚が帰ってくる。やがて言葉を絞り出す。先程理解の許容量を超えた問いが、今度は確実に大気を揺らした。
「……血塗れになったというのに、どうして笑っている」
掌には返り血と、足元には真紅に染まって輝きを失った刃物。かつて友だった者の、その腹部から流れる血は、今尚地面に紅い線を引いている。それでも未だ不敵に笑う友を見て、畏れずにいられる訳がなかった。少なくとも想像していたのは、痛みに顔を歪めるであるだとか、裏切りに目を見開くだとか、そういった類のものであった。それを、あろうことか、この生物は。───私の目には、どうしてもソレを同族としては見られなかった。なにか、異質な、モノだった。
「気付いていた」私は恐るべき可能性を口にする。
「気付いていたね」彼は淡々と肯定する。
「いつから?」私は恐怖を紛らわせるように質問を投げる。
「最初から」飄々と答える彼の姿が、輪郭が溶け落ちて人の形を失っていくような、そんな感覚に陥る。温厚な彼の
「どうして」何もかもが理解の範疇を逸脱している。言葉を紡ぐ余裕などはなかった。考えても考えても分からず、やがて私の脳は思考することをやめた。
「アイがそうさせた」彼はそうとだけ言った。その刹那のうちに、私の灰色の脳細胞は擦り切れるほど回り始めた。
あい。アイ。愛?哀?I?分からない、解せない。
理解できずに、気付いた頃には、彼の体を再び刃が貫いていた。鮮血が無機質な床を鮮やかに染める。私の視界は、そんな状況を確かに捉えた筈であるのに、やがて色を失っていった。
彼は全てを知っている、と言った。仮にその言葉が真実だったとしたら、彼の指すアイとはなんだったのだろう。完膚無きまでに嘘吐きに徹したのはどうしてなのだろう。負け惜しみで言い放った嘘である可能性もあるにはあるが、彼の性格から考えてそうは考えられない。……彼の温厚さが真実であるかすらも今の私には分からないこと、確かめようのないことであるのだが。
けれど私はあの時理解した。理由も知れぬ献身は、底の知れぬ行動は、如何に優しきものであったとしても、ただただ恐ろしく得体の知れないものとしてしか映らない。そこすらも計算ずくで、自らの死すらも私に傷を付ける為に捧げんとしていたのならば恐るべきものだが、真意やらは全て既に灰燼に帰し、煙となって天へと還ってしまっている。
……まあ、哀情故に生かしたのだとしても、愉悦の為に復讐を為させたのだとしても、いずれにせよ私は初めから万に一つも彼に勝ち目を持ち得なかったのだ。そう独りごち、力無く嗤った。無彩色の独房には、男が独り横たわるのみである。
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