幻心痛

 からんころんと音がする。

「いらっしゃい」私はカップから目線を上げる。

「久しぶりやの」黒い帽子から白髪を覗かせた男が、小さく口角を上げた。「十年ぶりか?」私はそれに小さく会釈をする。彼はカウンターの隅に座った。

「注文、何にします」「分かるやろ?」「そりゃあ、もちろん」

 小さな頃から彼の元で珈琲を淹れていたのだから、分量すらもこの手が覚えている。ブラックに少しの砂糖を入れて差し出す。彼はどれだけ寒くてもアイスしか飲まない。「猫舌やねん。それぐらいの弱みがあった方が人間らしくてええやろ」と、昔笑いながらそう言っていた記憶がある。

「ほんまにお久しぶりです、おやっさん」

 そう呼んだら、少し笑った顔で「やめろや、もうカタギやろ俺ら」と言われた。親父さんは去年息子に上を譲ったと聞く。たまに顔馴染みの奴らがこの店に来るので、未だに裏の話は私の耳にも飛び込んでくるのである。

「そうは言ったって、俺の親父はおやっさんだけですから」と言ったら、今度は少し嬉しそうな顔をした。親父さんは黙っていれば泣く子も黙る強面だが、一度笑えばこちらに安心を与える何かを持っている。

「で、なんや」話を遮ってもうて悪いな、とこちらに続きを促す。

「お身体、大丈夫なんですか」

 これも昔の知り合いが店に来たときに聞いた。なんでも引退の遠因となったのが古傷の蓄積だとか。昔から親父さんは多くの死線を潜ってきており、かつての敵対組織からは「敵だと見なした奴らのことは虫けら程度にしか思ってはいねえ」という冷血ぶりを恐れられてきた。しかし親父さんとて普通の人間、無敵ではないので沢山の場所に傷を作ってきた。靴の下なので見ても分からないが、実は親父さんの右足首より下は義足である。

「なんや、そんなことならピンピンしとる、心配せんでも後二十年は生きるわ」彼はそう言って笑った。しかしすぐ表情が曇る。「けどまあ、な」私も少し曇った顔をした。

 彼は何かを言い淀んで、けれどすぐに再び口を開いた。

「右足が痛いんや。それも、とっくに落ちて無いところが」

「幻肢痛ですか」昔、常連の医者がそんな話をしていた気がする。とっくに無いはずの四肢が痛む、とか。もっとも私は指のひとつも欠損せずに生きてきたので想像もつかぬものではあるが。

 親父さんは頭をぽりぽりと掻いて、力無く笑う。「なんや、医者にも同じこと言われたわ。こればっかりは脳が勘違いしとるんで、なかなか治らんのですー言うてな」そして珈琲を飲んだカップを置いて「亮は相変わらず物知りや」と小さく呟いた。その、なんだかほんの少し嬉しそうな表情に嬉しくなった。

「おやっさんが俺を立派に育ててくれたからですよ。おやっさんが居らんかったら俺は学校にも行ってへんし、ましてやこんな落ち着いた店なんて構えられへんかった。感謝するのはいつだってこっちの方です」

 その言葉を聞き遂げた親父さんは本当に嬉しそうに笑った。そしてカップを差し出す。彼の二杯目はいつも濃いめのカフェラテであると、私はよく知っている。



 その後もしばらく話していたのだが、ふと姐さん、つまり彼の妻の話になった。これもまた常連となった旧友から聞いた話だが、姐さんは一昨年に亡くなったらしい。両親を失って成人まで彼ら夫婦にお世話になっていた私だが、勘当という形で(それはもちろんこちらの世間体を考えてくれた上でのことなのだが)家を追い出されていたため亡くなったことすらも知らず、その話を聞いた後ずっともやっとした気持ちでいたのである。

「出来れば墓に手合わせたいんですけど、まずいですかね」

 私がそう言うと、彼は首を振る。

「いや、そんなことはあらへん。場所は教えるから今度行ったれ、アイツもきっと喜ぶわ」その言葉から察するに、夫婦仲は勘当された十年前から変わっていなかったようだ。

「……そういえば俺が辞めた理由やけど」彼がおもむろに口を開く。「アイツが死んだんも、関係してんねんな」まるで繋がらないような思いがけぬ話の展開に、一瞬戸惑った。親父さんは普段から脈絡もない会話はしないが、今回はそういうふうに聞こえたのである。とにかく「そうなんですか」とだけ絞り出した。先程点いた街灯の光が扉の向こうで滲む中、この静かな店内には私と親父さんしかいなかった。親父さんは話し始めた。小さな声で、ゆっくりと。


 姐さんは病気で亡くなったらしいのだが、親父さんは臨終の頃に立ち会ったという。白いベッドの横に座って、彼は彼女の最期の言葉を聞いた。


「ありがとう言うて、それですっと行きおった」淡々とそう語る彼の顔に悲愴や哀愁は無かった。親父さんは長らく明日に死ぬかもしれない環境に生きてきたから、ここで悲しみを出すような男では無いと私は思っていた。

「それ言われた時に思ったんやわ」……意外なことに、その瞬間だけ、少し沈痛な顔をしたのだった。「ああ、自分のせいで、穏やかな最期に立ち会えへんかった奴等もおったんやろか、って」私は何も言えなかった。彼は続ける。

「変な話やで、ホンマ。人を悼む心なんてとうに死んどるのに、ここにあるのは心臓だけやのに」

 そう言って左胸に手を当てて、少し笑った。

「もうあれへん場所が痛むんや。足も、心も」

 私は気の利いたことも思いつかなくて、ただ、「おやっさんはいつでも優しい人ですよ」とだけ呟いた。日暮れの後、ある小さな喫茶店での話である。

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