第10話


 月曜日の職員朝礼中に由佳から電話が入った。隆三が受話器を耳に当てると、由佳は松山が昨晩、部屋の窓から外に出たと告げた。それを聞いた途端、ああ、退学だ、と隆三は思った。誓約書を出しているんだからどうしようもない。普通の母親ならこんな事は隠して置くだろうが、とも彼は思った。今、朝礼中だから、後でかけ直すと告げて、隆三は電話を切った。席に戻ると溜息が出た。謹慎に入って既に二週間を越えていた。何事もなければ、明日か明後日に解除を申請するつもりだった。やっぱりあいつはだめだったかと隆三は思った。

 隆三が浮かぬ顔をして席に座るのを、真正面の席に居る時田は見ないような振りをして見ていた。隆三はそれを感じた。自分のクラスの生徒の解除をとっくに終えている時田は、松山の件で何かまずい事が起きたことを察して、腹の裡で冷笑しているだろうと隆三は思った。

 担任クラスの朝のホームを終えて、隆三が職員室に戻ると、時田の臨席の窪川が生徒を呼びつけて叱っていた。隆三は眉間をしかめた。

「何か言うことがあるだろうって言ってるんだよ」

不機嫌がもろに出ている窪川の突き刺さるような声に生徒は黙っている。

「ええ、期限はいつですか、期限は」

 窪川は苛立たしさに耐えられないというような声を上げる。

「………」

「二日前だろ、二日前」

 生徒の沈黙は続く。

「その時まで出せなかったら、本来ならそれでアウトなんだよ。それを今日まで待ってやった。それに対して君はどう応えるべきなんだ?」

 生徒は考えるような表情をするが言葉は出ない。

「ノートを出して、そのまま戻ろうとする。それでいいのか」

「………」

「遅れてすみません、よろしくお願いします、と言うのが当たり前だろうが! 」

 窪川の怒声が響くと、隆三はうんざりした。松山の家に電話をする前に、話す内容を少し考えておきたかったのだが、これではうるさくて考えられそうもなかった。窪川は四十歳になったばかりの社会科の教員で、よく生徒を職員室に呼びつけて叱った。それが長く続くので、うるさくて仕事の邪魔になるという文句が陰で囁かれていた。

「遅れてすみません」

 生徒は復唱するように言った。

「何だ、その言い方は。仕方なく言っているのか! 」

 窪川の怒鳴り声に生徒の顔は強張っている。

「どうなんか」

「違います」

「そうか。どう違うんだ」

窪川は目を三角にして生徒をにらみつけていた。生徒は言葉に詰まった。

「うん、どう違うんだ」

「仕方なく言ってるんじゃありません」

「じゃ、どういう気持ちで言ってるんだ」

「遅れて悪かったという気持ちです」

「君の言い方にはそんな気持ちは感じられません。そんな気持ちがあるのなら、それがきちんと伝わるように言い直しなさい」

 叱る勘所を摑んで余裕を持った窪川の言葉は殊更に丁寧になる。

「どうも遅れてすみませんでした」

 生徒は声を高めて言い、頭を下げた。早くこの場を切り上げたいという生徒の気持ちが伝わる。窪川は不満気に舌打ちしながら、

「いつまで経っても君はだめだね。もうすぐ三年だよ。もっとしっかりしなくちゃ」

 と言い、溜息を大きく一つ吐いた。そして生徒が出したノートを取り上げ、捲りながら、あれこれと間違いを指摘し、それを生徒の日頃の授業態度と結びつけて、ネチネチと叱り始めた。「何度言ったら分かるんかね」「日本語が分かってるの」「高校生にもなって、そんなことも知らないのか」などという言葉を頻発しながら。

 窪川のクラスからは退学者が三人出ていた。三人目は松山と同様、校門指導で煙草所持が発覚した生徒だった。松山より数日後の発覚だった。その生徒は家庭の事情で学校謹慎をすることになったのだが、初日から登校してこなかった。窪川が連絡を取ると、退学の意思を表明し、ノートの切れ端に書いた退学届を友達に託して窪川に出してきた。退学願は所定の用紙があるので、それに記入しなければ受理できない旨、窪川は家庭に連絡した。生徒の母親は事務室に用紙を取りに行くから事務員に渡しておいてくれと窪川に言った。窪川は一度面会をして事情を聞き、今後の事も話し合いたいと言ったが、母子ともども面会を拒絶された。退学願を取りに来た母親は、「担任の先生に会われませんか」という事務員の言葉に再び拒絶の意思を示した。三人の退学者を出した窪川は校長に呼ばれ、注意を受けた。それが窪川には納得できず、不満を周囲の教師に漏らした。彼としては生徒に対して妥協せず厳しく指導してきただけで、責められるところは何もないという思いだった。彼が生徒に対して発する言葉に、生徒を傷つけるものがあることには気がつかないようだった。

 隆三から見れば、窪川も、時田や園田と同様、他者に対して攻撃的な人物であり、親しみは覚えなかった。エレベーターの中で二人きりになり、気まずい沈黙が訪れた時、窪川は不意に隆三に、「先生のクラス、掃除をもう少しきれいにさせていただけませんか」と言った。溜息混じりに、さも迷惑しているという口調で。隆三のクラスは掃除がきちんとできていないと言うのだ。毎日生徒の掃除を教室に居て監督し、他クラスと比較して、よくできているとは言えないにしても、並みの状態だろうと思っている隆三には意外な言葉であり、ムッとしたが、「そうですか」とだけ答えた。窪川は隆三のクラスに教えに来るので、その折々の感想かも知れないが、管理職でもないのに、しかも年下でよく言うな、という思いが隆三にはあった。隆三にも言えば言うことはあった。彼も窪川のクラスを教えていた。窪川のクラスは私立理系の優秀クラスで、特進クラスの一つだったが、授業中は無気力感が漂い、居眠りする者が多かった。〈先生のクラスは眠る生徒が多いですね〉という言葉を隆三はその時呑みこんだのだ。

 隆三は窪川の声が耳につくのを我慢して、しばらく松山に話すべきことを考えたが、窪川がノートを捲りながらネチネチと生徒を叱りだした時点で諦め、考えがまとまらないまま席を立って、松山の家に電話を入れた。

 由佳の話では十時過ぎから午前二時近くまで松山は部屋に居なかった。しかし、本人は他の場所に行ったのではなく、屋根の上に居たと言い張っているらしい。隆三は本人と代るように言い、松山が電話口に出た。

「夜中に外に出たらしいな」

「出てませんよ。屋根の上に座ってただけですよ」

「誰がそんなこと信用するか。二、三十分ならともかく、何時間も屋根の上に居たなんて」

「本当なんです」

「あのな、そんな話は世間に通用する話じゃないんだぞ。しかもこんな時候に。寒かろうが、屋根の上は。何時間も居られるか」

「………」

「それで、お前は屋根の上で何をしていたんだ」

「考えていました」

「何を」

「これからどうしようかと」

「ほう。部屋の中で考えればいいじゃないか。何で屋根の上で考えなければならないんだ」

「外の空気に触れたくなって。外のほうがゆっくり考えられるような気がしたから。」

「まあ、とにかく、夜中に三時間以上も屋根の上に居るなんていうのは常識外だよ。通用する話じゃない」

「………」

「お前は退学だな」

「信じてくださいよ」

「今晩家に行くから、その時に話をしよう」

 隆三はそう言って母親に代らせ、家庭訪問の了承を取った。

 生徒があくまでも事実を否定した場合、否定された事実を理由とする処分はできない。しかし、今度の場合、松山のウソは明白だ。問題は本人をどう納得させるかだ。退学者を出すことは担任としては望むところではなかったが。そんなことを考えながら隆三は松山の家に向かった。

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