第9話


 朝のホームルームを終えて職員室に戻った隆三は、一時限目が空いていたので松山の家に電話を入れた。母親が出た。二日ぶりに通じた電話は〈おお通じた〉という感懐をもたらした。〈どうなってるのか! 〉と怒鳴りたい気持ちを抑えて、

「松山君はどんな様子ですか」

 と尋ねた。

「余り反省している様子はありませんね」

 と岡島由佳は確認するような口調で言った。やっぱりな、と隆三は軽い失望を感じながら、昨日、一昨日と電話を何度か入れたが、誰も出なかったことを告げた。由佳は昨日まで三日間、松山が夜間外出を続けたと言った。三日間と言えば隆三が山に行く前に家庭訪問をした日も含まれているのだ。隆三もさすがに腹が立った。

「謹慎が出来ないようじゃ退学ですね」

 と彼は言った。

「そうですね」

 と由佳は相槌を打った。驚きも緊張もその口調には感じられなかった。退学は由佳にとっては選択肢の一つであり、普通の母親のように打撃ではないことを隆三は思い起こした。電話に誰も出なかったのはなぜかと尋ねると、昨日はどうしても済まさなければならない用事があって外出したと由佳は答えた。家に居ても電話のコール音が小さいので聞こえないこともあるという。それならそうと言ってもらえれば携帯電話の番号をメモしたのにと隆三は思った。つまらないことで苦労させられたな、と彼は二日間の憂鬱を自嘲的に思った。由佳は明日電話機を取り替えましょうと言った。

 松山が謹慎を破ったことが判明した以上、何らかの対応をしなければならなかった。とすれば、やはりそれは退学勧告のほかはなかった。隆三は放課後、退学願の用紙を持って家庭訪問をする意向を伝えた。由佳は了承して、主人も同席すると言った。

 電話を終えると、さすがに隆三は溜息が出た。やはりあいつは退学していく生徒なんだと思った。仕方がない、学校に合わないんだと思った。親もむしろ退学を求めるような感じなのだから、これはスムーズにいくだろう。ああいう生徒はやめた方がこちらも手がかからず楽になる、とも思った。しかし、松山という一人の生徒の人生を思うと、隆三は何か痛みのようなものを覚えるのだった。学年主任への報告ということが隆三の頭にふと浮かんだ。退学勧告は学年主任に報告すべき事柄ではないのかと思ったのだ。しかし自分の失敗を告げるようで隆三は気が進まなかった。まだ学年主任に知らせる段階ではないという気もした。今日のところは担任の裁量で構うまいと隆三は結論づけた。

 放課後、隆三は松山の家に向かった。玄関の土間に立つと、子犬が廊下を駆けてきて、けたたましく隆三に吼えかかった。その後から、五、六歳の男の子が廊下を歩いてきて、隆三を見上げた。前回訪問した折見かけた松山の弟で、由佳と岡島の間に生まれた子供だ。

「こんにちわ。お兄ちゃんいるかな」

 と隆三は声をかけた。

「お兄ちゃん」

 とその子は鸚鵡返しに言って、首を傾げた。この子は松山に懐いているだろうかとふと隆三は思った。そこへ由佳が現れ、隆三を請じ入れた。

 この前と同じ座敷に通され、同じ場所に座った。隆三の正面に床の間を背にして松山が座り、その横に少し離れて継父の岡島が座った。由佳は隆三の隣に居た。

「また夜間外出をしたそうだな。しかも三日続けて」

そう言うと、隆三は腹が立ってきて、

「一体何を考えているんだ。迷惑をかけるのもいい加減にしろっ」

 と怒声を浴びせた。

「どれだけ周囲に嫌な思いをさせているか考えろ。お父さんにも、お母さんにも、そして俺にもだ」

 松山は正座して、膝の上に手を置き、両腕を突っ張って頭を下げている。

「謹慎処分を受けていて、謹慎が出来ないのであれば、退学するしかないんだぞ」

「退学ですか」

「そうだ。退学するか」

「それしかないなら仕方ないけど」

 松山は頭を小刻みに振り、目を瞬きながら言った。

「そうか。仕方ないな。学校の規則が守れないんだからな」

 隆三はそう言って鞄から退学願の用紙を出し、卓上に置いた。

「これに記入すれば退学の手続きは完了だ」

 と言って松山を見た。松山は用紙を見詰めた。岡島と由佳はその松山を見詰めている。沈黙の間があった。

「お前、夜間外出して何をしていたんだ」

 隆三が尋ねた。

「友達の家に相談に行っていた」

「何の相談だ」

「学校を続けるかどうか」

 隆三は苦笑した。一方でこいつも前途について考えているんだとも思った。

「それは自分が決めることだろう」

 隆三はそう言って母親の方を向き、

「友達とはあの女の子ですか」

 と尋ねた。

「そうです」

 由佳は不快そうな表情で頷いた。隆三は松山と女の子との関係を思った。意外と真面目なものかも知れないという気がした。しかしここでその事に立ち入る気はなかった。

「友達は何と言った」

「続けたほうがいいと」

「そうか。しかしお前は続けられないわけだ」

「あんたみたいな態度で学校を続けても意味がないわよ」

 由佳が決めつけるように言った。

「お前は将来どう生きていくつもりなんだ」

「どう生きていくって?」

「就職だよ。食べていかなければならないだろう。どんな職に就くつもりなんだ」

「さあ、考えてない」

「お前は親から独立したいみたいなことを言うが、その割には考えてないんだな」

「アルバイトをすれば食べていけますよ」

 隆三から痛いところを突かれた松山は虚勢を張って言った。隆三はその言葉を聞いて、松山も裕福な家庭の坊ちゃんなんだと思った。

「一生か。アルバイトは時間給だ。何年経っても昇給はない。定職について月給もらってる者とは大きな差がつくんだぞ」

 そう言いながら、教師という定職にしがみついている自分を隆三は思った。定職に就くということが、それほどいいことなのかという問いが心を過った。

「高卒でも就職が難しい時代だ。お前は高校中退で生きていくんだから、自分の進路についてはよほどよく考えておかなければならんぞ」

 隆三はそう言って、松山の顔を睨んだ。

「うちが持っている船にしばらく乗せてもいいと思っているんですよ」

 と由佳が言った。

「ああ、そうですか」

隆三は頷いた。この家は海運業を営んでいるんだと思った。すると、

「もう一回やり直させてください」

 と松山が言った。

「何を」

「謹慎をもう一回やり直そうと思います」

こいつ、船に乗るのが嫌なんだな、と思いながら、

「え、本当か」

 と問い直した。しめた、と隆三は内心思っていたが、冷ややかに言った。

「やめとけ、やめとけ。もういいよ、だまされるのは。こんな嫌な思いは何度もしたくないからな」

「いや、今度はきちんとやりますよ」

「と言って、また騙すつもりだろう」

「そんなことありませんて」

 松山は苦笑いを見せて、頷くように頭を振った。

「そうか。しかしできるかな」

 隆三は松山の顔を注視した。松山は隆三の目を見返した。

「ま、学校を続けたければそうするしかないわけだがな」

 隆三はそう行って、

「よし、誓約書を書いてもらおうか」

 と言った。

「もし今後、謹慎を破った場合は自主的に退学します、と書くんだ」

 隆三は文面と書式を説明した。松山は二階の部屋に上がって誓約書を書いてきた。[謹慎期間中は一歩も外に出ないことを誓い、外部との連絡はしないと誓います。もし上記のことに違反した場合は自主的に退学します。]と書いてあった。隆三は松山の署名の下に岡島と由佳の連署と捺印を求めた。二人はすぐに応じた。

「俺が今後家に電話を入れて、お前がいなかったら即退学決定だからな」

隆三が念を押すと、松山は頷いた。

「これからは家族と一緒に食事をすることも条件よ」 

 と由佳が付け加えた。

「そうだ、それもあった」

 と隆三は頷いて、

「この前も言ったように、生活スタイルを改めるんだ。ちゃんと決まった時間に食事を摂らないから生活が乱れるんだ。夜中に腹が空いて外出したりすることにもなるんだ。それがまた朝起きれないことにつながる」

 隆三がそう言うと、松山は嫌な顔をした。

「いいか、食事の方もチェックするからな」

 松山は黙ったまま下を向いている。

「外に出られないんだから家族と一緒に食べるほかないよな」

 隆三は俯いている松山にそう声をかけた。

 松山の横に居た岡島は今回も殆ど発言しなかった。

 駅へ向かう隆三を由佳が途中まで見送った。

「先生にはご迷惑をおかけします」

 と由佳は頭を下げた。その表情には満足感が窺われた。ようやく彼女が望んでいるような展開になってきたのかも知れなかった。由佳は当分の間仕事を休んで、松山の謹慎に付き合うつもりだと言った。今まではそうじゃなかったのか、という思いが胸を掠めたが、

「それは是非お願いします」

 と隆三は応じた。彼にも昂揚感があった。松山が漸く真面目に謹慎する気持ちになったという手応えから生まれる昂揚感だった。道々の由佳の話の中には、松山が部屋で煙草を吸っている節があるという気になるものもあったが、家庭訪問が成果を上げたと思えて、電車の座席に座った隆三には疲れとともに充足感があった。

 確かにその家庭訪問から松山にとって真の謹慎が始まったようだった。その後、電話連絡にも松山はちゃんと電話口に出たし、母親の話でも学習課題を真面目にやり、問題はないようだった。食事も夕食を短時間だが家族と一緒に摂ったと報告された。家庭訪問から四日ほどがそうして平穏に過ぎた。


   

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