第2話


 隆三は、松山本人よりもその母親に特異なものを感じていた。無断欠席の折など家に電話を入れると、母親は「え、今日は休みじゃなかったんですか」とか「昨日の晩から家にいません」と応じることが何回かあった。それから息子の日頃の言動を不信感をあからさまに表しながら、長々と語り始めるのだ。

「本人は現在の出席状況や成績でも進級はできると言うんですが、そんないい加減なことで進級できるはずがないですよね」

「そりゃそうですよ」

「しかし、本人はそんな気でいるんですよ」

「それはおかしいな。この前も現在の状態を続ければ原級留置きの可能性が高いと注意したら、神妙に頷いていましたよ」

「学校も続かなければ止めてもいいなんてことを言うんですけど」

「この前、私が本人に今後についてどう思っているかと訊いたら、卒業して専門学校に行くと言ったんですがね」

「そうですか。全く将来のことなど考えていないようなんですが」

 隆三は受話器を耳に当てながら次第に苛立ってくる。どうしてこんなに親と自分とで生徒の言うことが違うのか。隆三には自分に言ったことのほうに松山の本心はあるように思われる。この母親には息子の気持ちをじっくり聞いてやる余裕がなく、批判が先行するために、松山は反発して投げやりな応答をしているように思われるのだ。息子の行状についての母親の告発は終らない。〈私が作った料理は吐くと言って食べない。家族と一緒に食事をしない〉〈夜間に家を抜け出して朝まで帰らない〉〈部屋に勝手に友達を連れ込んで深夜まで帰らせない〉〈部屋で煙草を吸っている〉等々。隆三は聞きながら、この母親はこうして息子の不良点を逐一俺に告げてどうしようというのかと思う。そんなことを聞かされても、親が解決できないものを教師が解決できるかと心の中で反発する。この母親にはもっと息子を理解してやろうとする懐の深さが必要ではないか。息子についての不信感に満ちた、突き放した物言いの感じから、隆三はそんな感触を抱いていた。既に電話で話し始めてから十分以上になり、この電話は欠席の理由を知るためにかけたのだからと言って、隆三は電話を切りたくなる。といって素っ気なく切ることもできない。松山の母親と電話で話せばこんな状況になるのが大方だった。だから電話はあまりかけたくないのだが、無断欠席を放っておくこともできないのだ。

 この母親と隆三が初めて会ったのは一学期末の保護者会の折だった。保護者会とは生徒、保護者、担任の三者面談だ。松山の保護者会は教頭から進級について注意を受けた直後、クラスの一番手として行われた。母親は小柄な女性で高校生の親にしては若く見えた。半袖の法被のような形の白いレース地のブラウス、その下はタンクトップ、下半身はパンツという格好で現れた。浅黒い顔に大きな目。青いアイシャドーとピンク系の光沢のある口紅が若さを強調していた。タンクトップの胸元から小柄な体躯に比してボリュームのある膨らみが覗き、隆三は目のやり場に少し困った。リスのような大きな目をクリクリ動かしながら、母親はよくしゃべった。息子への不満がほとんどだった。時折、息子との間に事実をめぐって食い違いが起き、二人は言い争った。母子の間の意思疎通がうまくいってないというのが隆三が受けた印象だった。その原因を隆三は推測できた。学校に提出された松山の個人票には保護者の欄に母親の姓名が記されていたが、その姓は松山ではなかった。岡島になっていた。岡島由佳、三十五歳。家族欄の父親の姓も岡島だった。母親が松山の実の父親と離婚し、松山を連れて岡島という現在の夫と再婚したようだ。その離婚・再婚が母子の間に溝を作ったと隆三は推測した。もちろん、そんなプライベートな問題に立ち入ることはできない。対立する母子を見て隆三は、口数が少ないので一方的に悪く言われている感じの松山の肩を、どちらかといえば持ちたい気持ちになった。この母親は少々ヒステリックであり、自分の息子を感情的に否定しようとしているのではないかという思いが隆三には湧いた。それは電話での会話を通じても受けていた印象だったが、実際に会ってみてその思いは強まった。どちらかといえば目立つ化粧や服装もその印象を強める作用をした。母親の話を聞いているうちに割り当てていた十五分が過ぎ、隆三は残った予定項目を早口に言わなければならなかった。この時の印象では、隆三には岡島由佳は思慮の浅い、自己中心的な女性に思われ、この母親では母子の間はうまくいくまいという感想を抱いた。

 その後、二学期になって、隆三は岡島由佳と二度目の面談をした。松山の状態は相変らずで、自宅に電話連絡をする度に隆三は由佳の長話を聞かなければならなかったのだが、その長電話を切り上げるために、一度学校に話をしに来られたらどうですか、と隆三の方から言ったのだ。松山が今の状態を続けるのなら退学させようと思うと言いだした由佳を放っておくわけにもいかなかった。

 岡島由佳は午前中の約束した時間に現れた。隆三は空き時間を潰される不快を感じつつ由佳の前に座った。長袖のブラウスの上にニットのベストを着て、下はジーンズという、今回もラフな服装だった。ブラウスを押し上げている胸の膨らみがまた隆三の目を引いた。

「朝はなかなか起きずに、起きてからもグズグズして。そんなに遅刻して大丈夫なの、と言うと、大丈夫だと言うんですよ」

「大丈夫じゃないですね」

「家で勉強している様子は全くありません。あんなことでついていけるんでしょうか。欠点を取らなければいいんだと言うんですが」

「欠点はもう取ってますね」

「友達を無断で部屋に上げて、この前も遅くまで帰らせないで。部屋中、煙草の煙でモウモウとして」

「どんな友達なんです」

「女の子なんですが」

「女の子」

 隆三は少し驚いた。不純異性交友という言葉が、厄介だな、という負担感とともに浮かんだ。

「高校生ですか」

「と思うんですが」

「名前とか住所とか分かってますか」

「家は分かってます。私が調べて」

 女の子と部屋で二人っきりというのはまずいな、と隆三は思ったが、どう処置してよいか分からなかった。〈松山、女を紹介しろ〉〈お前の鼻が女にはアピールするのか〉などとクラスでからかわれていたことを隆三は思い出した。

「こんな状態で高校を続けても意味がないと私は思うんです。本人にもこんな高校生活を送ってもらうための学費は払わないって言ってるんです。二年生になる時も学校をやめさせようかと思ったんです。本人が真面目にやると言うから進級させたんですが」

「ほう」

 隆三は呟いた。二年進級時にそんなやり取りがあったというのは初耳だった。授業料については確かにここ数か月分が未納になっていた。

「高校をやめさせれば私を恨むと思います。でも、こんな状態で高校を続けることは本人にもっと悪い結果を招き寄せるように思えるんです。世間をなめてしまって」

「うーん」

 隆三は唸った。そうかも知れない。しかし、そんなに厳しく迫っても、人が変わっていくのには時間がかかるのではないか、と思った。

「学校は退学を命じることはできないんですか」

「えっ」

 隆三は由佳の顔を見た。こんなことを言う母親は初めてだった。

「それはできないですね。処罰を受ける問題行動を何度もするということでもないとね。喫煙などを繰り返すと退学処分になりますがね」

 自分が息子に恨まれたくないから、学校に、つまり俺の口から退学を命じさせようというのか、と隆三は由佳の気持ちを忖度した。そして、そんな役回りはごめんだと反発した。第一、担任にそんな権限はない、とも思った。由佳は俯いて考える風をした。

「退学自体はかんたんですよ。退学願いを出せばいいんだから」

 隆三は言葉を添えた。退学を何でもないことのように口にした由佳に対抗する気持ちも動いた。

「これはやはり本人と保護者がよく話し合って決めることですね」

 〈担任が命じるようなことではありませんよ〉という言葉を隆三は呑み込んだ。

「もっと厳しく指導できないんでしょうか」

 と由佳は言った。隆三はその意図を察して身構える気持ちになった、由佳は隆三の指導の仕方を批判しているのだ。

「私は言葉で言います。言葉で分からせます。言葉で言って分からない者は何をしても分かりません。生徒が自分の頭で事柄を理解し、自主的に行動する時、その生徒は変わるのだと思います」

 隆三は自分の信念とするところを述べた。これは譲れないと思った。

「実は主人がこの学校の卒業生でして」

「えっ、そうですか」

 隆三は少し驚いた。

「主人たちの頃は指導が厳しくて、少しでも遅刻すると、立たされたり、叩かれたりしたと言ってました。今は先生も優しくなったんだなって言うんですよ」

 隆三は苦笑した。確かに六年前まで学校では体罰が横行していた。教師たちは殆どが竹刀をばらした竹の鞭を持ち、それで生徒の頭や尻を叩いていた。中には竹刀そのものを持って教室に入る教師もいた。六年前に事件が起きた。竹刀を持った教師が生徒を後ろ向きに立たせ、尻を叩こうとした。竹刀が尻に当たる瞬間、庇うつもりだったのか、生徒が尻に手をやった。竹刀が手に当たり、人差し指を骨折した。この事件がマスコミに知れ、新聞社が学校に取材に来た。女性記者は教師たちが手にする竹の鞭に注目し、教室に行くのになぜそれが必要なのかを教頭に質問した。教頭は教育現場の実情を訴えながら説明したが、女性記者は納得がいかないようだった。事件自体は当該教師が生徒と保護者に謝罪し、その了解を得て解決しているとして、記事にすることは何とか抑えることができた。しかしこの事件を機に体罰は禁止され、竹の鞭を持つことも禁じられた。隆三はもともと体罰には批判的な考えを抱いていたが、周囲の雰囲気に影響され、三十センチほど―他の教師たちに比べれば半分以下の長さ―の竹を持って教室に行っていた。そして遅刻や忘れ物を繰り返す生徒の頭や尻を叩いていた。しかし、この事件で体罰禁止が決められたのを機に、それまでの自分を反省し、一切の体罰をやめることにした。それ以後、指導は全て口で行うことを自分に課してきたのだ。隆三は由佳の言葉を聞いて、この年頃の母親でも体罰を求めるのだなと思った。隆三は体罰が禁止されている事情を説明し、自分の考えを改めて述べた。体罰禁止の後も生徒を叩く教師はいるし、むしろ大部分の教師がそうであるという現実は認識しつつ。由佳は仕方がないという顔をした後、

「実はあの子の親権は実の父親が持っているんです」

 と言った。隆三はまた何を言い出すのだろうと思った。

「私はあの子を預かっているので、あの子がまともな人間に育たないと、父親から文句を言われることになるのです。」

 隆三は松山の実の父親のことを想像した。息子を由佳が預かったというのは男に経済力がなかったのだろう。また、それが離婚の原因だったのかも知れない。文句を言ってくることを由佳が恐れているのは暴力的な傾向のある男なのか。経済力がなくて、暴力を振るうという遊び人タイプの男を隆三はイメージした。由佳の危惧は分かったが、なぜこんな話を自分に聞かせるのだろうと隆三は思った。

「そうですか」

 と隆三は頷いてみせた。すると由佳の目が急に潤んだ。そして松山との関係を語り始めた。由佳は離婚の後、松山を引き取り、助産婦として働きながら松山を育てた。三交代勤務のため、松山はアパートの部屋で一人ぽっちの夜を過ごすことも多かった。再婚して助産婦をやめるまでそんな生活が続いた。松山の小学生時代だ。松山はその頃の自分はほったらかされていたと思っていて、今でも恨んでいるという。

「松山君はまだ幼い部分が残っているから、お母さんの苦労が分からないんでしょう」

 隆三はそう応じるのが精一杯だった。

 退学はいつでもできるので、進路について本人とよく話し合ってほしい、という隆三の言葉が結論のようになって、その日由佳は帰って行った。


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