033話
マスターが柄にもなく緊張していた。
私とマスターは、オレオとノアールの去勢手術をするため”田中ペットクリニック”に来ている。
マスターは一美さんの出産予定日が近いということもあり、いろいろと大変な時期だ。
もしかしたら、この瞬間にも電話が掛かってくるかも知れない。
キャリーケースのオレオとノアールは、異様な雰囲気に感づいているのかキャリーケースの中で丸まっている。
「では、御願いします」
「はい、なにかあれば私の方に電話いただけますか?」
「申し訳御座いませんが、岡部さんとの御関係は?」
「雇用主と従業員です」
私が質問に答える前に、マスターが即答する。
「私の都合で、電話に出られないことがあるため、彼女……西田さんに一任したいと思っています」
変な関係だと誤解されないように、マスターはきちんと説明していた。
「承知致しました。何かあれば、西田さんに御連絡させて頂きます」
マスターが病院に入ると、電源を切る可能性が高い。
だから事前にマスターと相談をして、緊急連絡先を私にしていた。
「……手術終わるまで病院にいないの?」
「はい、明日の夕方に退院になります」
「そうなんだ」
「もし、なにかあれば連絡が入ると思います。すぐにマスターに連絡しますが、出られないようであれば留守電をメッセージを残しておきます」
「うん、分かった」
「それと多分ですが、追加でエリザベスカラーか、服を購入することになると思います」
「あぁ、傷口を舐めないようにするためね」
「はい。お互いに傷口を舐めないようにするのですが、マスターはどっちが良いですか?
「うーん……」
マスターは考え込んでいた。
「獣医さんのお勧めするほうで御願いできるかな」
「はい、分かりました。それと家に戻っても隔離する必要がありますので、オレオとノアールは、それぞれのケージに入れておきますね」
「うん。ありがとう……それで祐希ちゃんに御願いがあるんだけど?」
「はい、なんでしょうか?」
「もしかしたら、僕は病院に泊まり込みになるかも知れないから、祐希ちゃんにオレオとノアールの面倒を見てもらいたいんだ」
日中は私が居るが、手術後は誰も居ないかもしれないとマスターが懸念していた。
母屋にいる御両親に頼んだところで、猫に詳しくない二人では対応が出来ないと思ったのだろう。
マスターは一美さんの側にいるべきだと思った私は、今夜はマスターの家に泊まり込むことにした。
以前に家族で行ったキャンプの際に購入した、寝袋がある。
ソファーの上に、そのまま寝てもいいと思うので特には問題無い。
「はい、責任を以ってオレオとノワールの世話をします」
「本当にありがとうね。祐希ちゃん居てくれて助かったよ」
マスターは何度も私にお礼を言ってくれた。
その時、マスターのスマホから着信音が鳴る。
慌てるようにズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
一瞬見えたスマホ画面に表示されている名前は”一美さん”だった。
明らかに慌てているマスターの表情や口調から、一美さんに陣痛が来たのだろう。
急いで帰るマスターの後姿を見ながら、前にマスターが話してくれたことを思い出す。
昔なら出産に立ち会うことが出来るのだが、今はいろいろな事情があり立ち会い出産が出来ないと残念そうに話していた。
待合室で一美さんの御両親と、生まれてくる子供の泣き声を待ち続けるのだろうと、私は勝手な想像をしていた。
それと同時に、お姉ちゃんが生きていて結婚していたら、私も家族として同じような状況になっていたのだろうと、勝手な妄想をしていたのだった――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「わざわざ、申し訳御座いません」
「いいえ、そんなことは……」
私が入ったことのない高級な料亭の個室。
目の前にはテレビに映っていた杉本さんがいる。
弱小というのも
本当であれば美緒ちゃんも同席予定だったが、杉本さんの強い意向で私のみの参加となった。
場所や食費などは全て、杉本さんの支払いとなり、私を拘束する二時間分の打ち合わせも支払うそうだ。
「単刀直入に聞くけど、猫の言っていることが分かるって本当?」
思いがけない質問に私は戸惑う。
「はい」
私は変人だと思われてもいいと思いながら、回答をする。
「そう。それは生まれてから? それとも最近から?」
杉本さんの反応に私は驚く。
真剣に私の話を聞いていてくれるからだ。
「最近です。その……事故にあって目覚めてからです」
「なるほどね……一種の後遺症のようなものね」
杉本さんは頷きながら話を聞いてくれていた。
「実は私も十代の頃に、一年程だけど猫の言っていることが分かる時期があったの」
「えっ‼」
私は思わず声をあげる。
自分以外にも、同じような人に会うとは思ってもみなかったからだ。
「以前に伺わせて頂いたお店で西田さんを見た時、猫と会話をしているってことが嘘じゃないって分かったのよ」
杉本さんは真剣な表情で話す。
その姿は嘘をついているようには思えなかった。
「私の場合は階段から落ちて、頭を強く打った後だったのよ」
自分の話を始める杉本さんだった。
元々、猫や犬などが好きだった杉本さんは、猫と会話が出来ることに最初こそ戸惑ったが、その特殊な力を得たことを喜ぶまでに時間は掛からなかった。
私同様に周囲には気付かれないようにしていたそうだ。
これを機に猫を飼うことを決める。
家族を説得して、友人宅で生まれた猫を一匹貰う。
その猫に”ベルモット”と名付けていたそうだ。
思春期に杉本さんは反抗期のためか、親との衝突も多くなりベルモットとの会話だけが、心を許せる貴重な時間だった。
しかし、その時間が突然終わりを告げた。
いつも通りにベルモットに話し掛ける杉本さんだったが、ベルモットからの返事が無い。
ベルモットも不思議そうな表情で杉本さんを見ている。
杉本さんは猫との会話が出来なくなっていたのだ。
目の前が真っ暗になる絶望感に襲われる。
永遠に続くと思われていた猫との会話が出来なくなった事実……。
ただ、言葉が分からなくてもベルモットは今まで通りに、杉本さんに甘える仕草をみせる。
もしかしたら……と、能力が戻ることを期待していたが結局、能力が戻ることはなかったそうだ。
その後、杉本さんは保護猫活動を通して、殺戮処分を訴えるなどテレビやラジオに出演している。
「西田さんも、その能力がいつ無くなるか分からないから覚悟はしておいた方がいいわ」
「そうですね」
私自身、この能力が無くなることを考えていなかった。
家族を失い、ボスとの生活も言葉が通じているから……いや、ボスが私の話し相手になっていてくれるから寂しくないんだ。
もし、言葉が通じなくなったら……。
言葉が通じなくても、ボスはボスだ。
もちろん、それが変わることは無い。
「もしかして、今日の打ち合わせって、この事でしたか?」
「えぇ、人に聞かれたら変な人たちだと思われるし、同じ能力を共有した仲間として、西田さんと話をしたかったのよ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
それからは杉本さんとの談笑が続いた。
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