026話

 マスターが正式に隣の平泉書店の場所も借りることにしたらしい。

 ビルのオーナーである平泉さんと、マスターの父親とマスターの三人で話をしたそうだ。

 懸念事項として、ビルのオーナーが変更になった場合、賃貸料が変更になると賃貸料が倍になるので、マスターは平泉さんに質問をしたそうだ。

 相続するのは平泉さんの息子さんになるが、年契約でなく長期契約とする。

 ただし、ビルの老朽化やma couleurマ・クルールがビルから撤退する場合は、無理に引き止めない契約になったそうだ。

 例外として、ビルを売却した場合は賃貸料の交渉はするが、現在の賃貸料は保証できない。

 私はマスターから、いろいろと教えてもらったが、話の半分くらいしか理解出来ていなかった。

 美緒ちゃんがいたら、完全に理解をしていたのだろう。

 これは”かぎしっぽ”にも関係する話なので、もう一度マスターから話をして貰おうと思っている。


「予算が無いから、改装費が無いんだよね」


 マスターは苦笑いをしていた。

 一応、平泉さんの知り合いが書店の撤去に伴い、壁の撤去もしてくれるそうだ。

 謝礼はマスターの入れる珈琲を生きている限り無料提供することで、話がまとまったそうだ。

 義理堅いマスターなので、今でも珈琲を平泉書店に届けたりしている。

 昔ながらの持ちつ持たれつの関係なのだろうが、私も嫌いではない。


 大型ショッピングモールの出店により、商店街に危機が迫っているなか、改装するのはマスターも頭が痛いのだろう。

 テーブルや椅子もマスターなりに拘っているので、店内への拘りも大きいと思う。

 モンキーを店内に置く時さえ、いろいろと配置を変えながら決めていたと、一美さんから聞かされた。


「私でよければお手伝いしますので、遠慮なく言って下さい」

「うん、ありがとうね。一美さんとも相談しながら、店内のレイアウトを決めるよ」

「はい」


 店の扉が開き、お客さんが入って来た。

 大変そうなマスターと話をしていた数分の小休止の時間も終わりを告げて、私は仕事に戻る。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 今日も忙しすぎた仕事が終わる。

 この忙しさがいつまで続くのか……少しだけ不安になる。

 同じ時給であれば、暇に越したことは無い。

 しかし、これはバイトの立場だから言えることだ。

 マスターにしてみれば、売り上げが増えるので忙しい方が良いに決まっている。

 それにマスターはma couleurマ・クルールが終わっても、改装のことや、商店街の寄り合いなどがあるので、自宅に戻るのが遅くなる。

 私はオレオとノアールを少しでも早く慣れさせるために、マスターの帰りが遅くなる時は、マスターの自宅にお邪魔して一美さんと話をする。

 個人的にも出産が刻一刻と近付いている一美さんの体調を気にしていた。

 人見知りの私が、少しだけ積極的になれたのも一美さんやマスターのおかげなので、出来ることがあればしたいと思っている。

 あの時、ああしておけば……と、後悔をする人生は嫌だからだ。



 私は一度、自宅に戻りボスを置いてから、マスターの自宅へと移動する。

 マスターの自宅に到着すると、インターホンを押す前にモンキーのマフラー音で私だと分かるのか、一美さんがリビングの大きな窓から手を振ってくれる。

 一美さんに、扉を開けて家に上がらせてもらった。

 私が到着すると、オレオとノアールも出迎えてくれる。


『遊んで、遊んで!』

『御飯、頂戴!』


 オレオとノワールは無邪気に寄ってくる。


「一美さん。ボスに、オレオとノアールの御飯を上げようと思いますが、いいですか?」

「お願いできるかしら」

「はい」


 一美さんは晩御飯の準備をしているので、私がオレオとノワールの御飯を用意する。


「祐希ちゃんも、晩御飯食べていってね」

「あ……ありがとうございます」


 最初の数回は断っていたが、何度も断るのも申し訳ないと思い、今ではマスターと一美さんと一緒に食卓を囲んでいる。

 家族以外で、このように御飯を食べることがなかったので、最初は戸惑っていた。

 マスターと一美さんの話を聞くだけで、私から積極的に会話に参加することはなかった。

 ただ……温かい家庭というのは、こういうことなのだろうと感じてはいた。


 夕食の準備を終えた一美さんが、オレオとノアールと遊ぶ私の横に座る。


「二匹とも、だいぶん慣れましたね」

「祐希ちゃんのおかげよ」


 一美さんが笑顔を返す。


「夜中に二匹で追いかけっこをしたりして驚くことはあるけど、赤ちゃんの夜泣きや授乳のことを考えれば、たいしたことないと私は思っているのよ」


 お腹を触りながら、私の知らない二匹のことを嬉しそうに一美さんは話す。


「それに昨日は寝るときに、大吾郎さんの足元に寄って来て二匹とも寝ていたわよ。丁度、股の間だったから、股を開いて寝るのが辛かったって、朝に話していたわ」

「そうだんですか。たまにですが、ボスは私の枕の横で寝ますよ」

「人間と同じで、それぞれに特徴があるのね」


 家の中に一人でいる寂しさを知っている私は、一美さんと二人の時は出来るだけ会話をしていた。

 共通点が無い二人だが、会話が途切れることはなく、なにかしらの話題で盛り上がっていた。


「ちょっと、祐希ちゃんに御願いがあるんだけど……」

「はい、なんでしょうか?」

「私の出産予定日と、オレオとノアールの去勢時期が同じくらいなの。大吾郎さんにも話しているけど、一人では不安だし病院まで一緒に行ってくれないかしら?」

「はい、いいですよ。病院は決まっているのですか?」

「少し遠いけど”田中ペットクリニック”にしようかと思っているわ」

「あっ、ボスもそこに通っていましたよ」

「評判いいわよね」

「はい、獣医さんがとても親切に説明してくれましたし、看護師さんも娘さんだったと思います。たしか、奥様も獣医さんでアットホームな感じな場所ですよ」

「そう、祐希ちゃんから言われると安心するわね。たしか、娘さんは私たちと同じ高校よ」

「そうなんですか⁈」

「えぇ、私と祐希ちゃんの間くらいだったはずよ」

「そうなんですね」


 病院で会った時に思い出せないのだから、お互いに印象に残っていなかったのだろう。


「ところで、ボスは動物保険に加入しているの?」

「動物保険ですか! ボスは加入していませんよ。一応、なにかあった時のためにと、貯金はしていますが……」

「そうなの。オレオとノアールを保険に加入しようと思っているんだけど、保険会社が多くて決めかねているのよね」


 私も調べたことがある。

 大手保険会社だと、窓口清算出来たりとメリットもあるが、保険料が高い。

 しかも年齢を重ねるたびに、保険料が上がるので加入するメリットを考えていた。

 一定の年齢以上や、既に治療中の場合は保険に加入できないこともある。

 マスターと一美さんは、しっかりと人生設計をしているのだと思うと、私は恥ずかしくなった。

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