004話

「この辺……のはずだけど?」


 私は表札を見ながら、ラテの飼い主である林田さん宅を探していた。

 ここ辺りは高級住宅街で、一軒一軒が大きい。

 傾斜する道に加えて、一面が高い塀だらけなので入り口を探すのも一苦労だ。

 街灯で微かだが玄関先で立っている人影を発見する。

 あそこが林田宅で間違いないと、私は確信して歩く速度を少しだけ上げた。

 向こうもキャリーバッグを持った私の姿を確認すると、私が先程の電話の人物だと分かったのだろう。

 御主人と奥様が私に頭を下げた。

 私も頭を下げて、林田さん宅へと足を進めた。


「林田さんですか?」

「はい、西田さんですね。この度はありがとうございます」


 御主人との会話中も奥様は、ラテの無事を確認したいのかソワソワしていた。

 バイト先の喫茶店に来られた女性と同じだったので、間違いないことを私は確信する。


「一応、確認いただけますか?」


 私はラテが怖がらないようにと、キャリーバッグに掛けてあった布を外して、御主人に手渡す。

 すぐに覗き込む御主人と奥様は、一目でラテだと分かったようだ。


「あぁ、ラテ。大丈夫だった?」

「本当に、この仔は心配させて……」


 二人とも安心したのか、笑顔で薄っすら目に涙を浮かべていた。

 ラテは家族に愛されていたのだと、その光景を見ていた。


「お父さん、お母さん」


 玄関の扉が開くと、小学生くらいの姉妹が姿を現した。

 御夫婦同様に、この姉妹もラテのことを心配していたのだろう。


「あぁ、ごめんなさい。ラテちゃん、帰ってきたわよ」

「本当‼」


 姉妹は嬉しそうに走ってきた。

 夜も遅いので本当であれば就寝している時間だ。

 多分、寝ようとしていたのだろうが、私からの電話でラテが帰って来ることを知って、必死で起きていたのだろう。

 次女は母親と一緒にバイト先の喫茶店に来た子だと、すぐに分かった。

 向こうは私のことなど、覚えていないだろうけど……。


「あの……早くラテちゃんを家の中に入れて安心させてあげてください。お子様たちも寒いでしょうし」


 夜も十時近いので、あまり騒いだら御近所にも迷惑が掛かると思い、御夫婦に提案する。


「そうですね」


 御主人は奥様の顔を見る。


「これ少ないですが、ほんの気持ちですので受け取ってください」

「いえいえ、受け取れません。そんな気をなさらずに」


 私は全力で受け取りを拒否する。

 金銭目的でラテの捜索をしたわけではない。


「ラテが無事に帰って来たことや、綺麗にして頂けたことは本当に感謝しております。どうか、私たちの顔を立てると思って……お願いします」


 戸惑う私に奥様は必死で封筒を渡そうとする。

 妥協案として、「交通費だけで結構です」と言おうとしたが、その交通費にどれくらい掛ったのか、すぐに浮かばなかった。

 戸惑う私に奥様は念を押すように話す。


「どうか、お受け取りください」


 御主人も私に頭を下げる。


「分かりました。有難く頂戴いたします」


 林田さんたちの気持ちは痛いほど理解出来るので、私が我を通しても仕方がないと思った。 

 私は封筒を受け取ると御夫婦は再度、頭を下げた。

 奥様と子供たちは、先に家に入りラテを家の中に開放したようだ。

 家の中から嬉しそうな声が聞こえるので、すぐに分かった。


「本当にありがとうございます」


 御主人は頭を下げて礼を言う。

 そんなに何度も頭を下げられると、気が引けてしまう。


 御主人はラテが居なくなってから、家庭は暗い雰囲気だったことを私に話す。

 そのラテが脱走した原因を作った奥様と、次女の落ち込みようは酷かったそうだ。

 登校する時、いつも通り奥様に抱かれながら、「いってきます」と頭を撫でながら挨拶をしていた。

 普段なら脱走防止の柵をしてから玄関を開けるだが、その日はいつもより遅かったせいか、焦っていた次女が玄関を開けてしまい、運悪く玄関近くの傘置きを倒してしまう。

 その音に驚いたラテは奥様の腕から飛び跳ねて、そのまま玄関から外に出てしまったようだ。

 慌てて玄関を出て、ラテの姿を探す。

 名前を呼んだりしたが、ラテを見つけることは出来なかったそうだ。

 既に出勤していた御主人に電話で伝えて、帰宅してからチラシなどを作成したそうだ。

 チラシに使用する写真を選ぶ時でさえ、ラテのことを思い出して悲しんでしまう。

 そのチラシを御主人と長女、奥様と次女に分かれて配っていたそうだ。

 思い出しながら話をする御主人の表情は、とても辛そうに見えた。


「あの……」


 私は御主人に一応、明日にでもラテを動物病院に連れて行って貰うように御願いする。

 大きな怪我はなかったが、小さな傷が多くあったし、猫エイズ(正式には”猫免疫不全ウイルス感染症”または”猫後天性免疫不全症候群”と呼ばれている)に感染している可能性もある。

 一度、獣医による診断を受けてもらった方が良いかと思う。 


「そうですね。いろいろとラテのこと心配してくれて、ありがとうございます」

「いいえ。大事な家族だと思いますし」


 家族……自分で言った言葉だが、辛い言葉だった。


「キャリーバッグをお返ししなくてはいけませんね。ラテに、もう一度会っていかれますか?」

「そうですね……お言葉に甘えさせていただきます」


 キャリーバッグの引き取りを、どう切り出そうと考えていたので、御主人の提案は丁度よかった。

 どうせ、バイト先の喫茶店に来た奥様と女の子も、私のことなど覚えていないだろう。

 御主人に案内されるが、入り口から玄関の扉までか階段を上る。

 明らかに成功者の家だ。


「少しお待ちください」


 御主人が玄関先から携帯で電話をしていた。

 恐らく奥様だろう。

 玄関の扉を開けるので、細心の注意を払っていた。

 二度とラテを失いたくない気持ちからの行動なのだろう。


「どうぞ」


 私は御主人の誘導されて家の中に入る。

 といっても、玄関までだ。

 その玄関も広いし、玄関から見える廊下も立派だった。

 脱走防止用の柵が設置されており、その向こうに奥様と姉妹が立っていた。

 次女の腕の中には幸せそうなラテの姿があった。

 御主人が玄関の扉を閉めると、柵の扉を奥様が開ける。


「これ、ありがとうございました」


 奥様がラテを運んできたキャリーバッグを丁寧に手渡してくれた。


「いえいえ」


 私は謙遜しながらキャリーバッグを受け取る。

 そして、ラテに向かって話し掛ける。


『よかったね』

『うん、ありがとうね』

『これからは、どんなに驚いても、この家から出たら駄目だよ』

『うん、気を付けるよ。あっ、ボスにもありがとうって伝えてくれる?』

『ボスに……なんで?』

『家の中と外との違いや、いかに僕が幸せなのかを教えてくれたの』

『そう……分かった。ボスには、ちゃんと伝えるね』

『うん、お願い』


「凄い、お姉ちゃんは本当に猫ちゃんと会話が出来るんだ‼」


 ラテと話をしている状況を見て、次女からの尊敬の眼差しで私を見ていた。

 その瞬間、私は「しまった」と心の中で叫ぶ。

 猫に向かって話しかけて、猫も鳴くので会話は成り立っているようにも見える……が、御主人や奥様からすれば、変人にしか見えていなかったに違いない。


「西田さんって、商店街にある喫茶店の方ですか?」

「はい、そうです」


 猫と話せる奇妙なバイトを奥様は覚えていたようだ。

 まぁ、それなりにインパクトがあるから印象に残っていたのだろう。

 次女も私のことを覚えていたのも、同じ理由だろう。

 私を揶揄っていた常連客の飯尾さんと、藍木さんの顔が浮かぶ。


「今度、お店のほうにも伺わさせていただきます」

「はい、ありがとうございます」


 私は苦手な営業スマイルで答えた。


「では、私は失礼させていただきます」


 暖かな家庭が自分には眩しかったのか一刻も早く、この場から去りたい気持ちになっていた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「はぁ、はぁ――おい、見つかったか?」

「いや、見失った。お前は……って、同じようだな」

「あぁ、人が多すぎるし、目立つ行動も出来ないからな。それよりも、どうする?」


 路地裏で必死に呼吸を整えようとする男たちがいた。


「どうするって、なにも……お前、顔見たか?」

「いいや、暗くて分からなかった、お前は?」

「俺も同じだ。まぁ、逃げる後ろ姿からして、ここら辺をうろついている中学生か高校生だろう」

「たしかに。しかし……逃げる時に、なにか叫んでいなかったか? それに、背中に猫がいたような気もするし……」

「見間違いだろう。猫のようなリュックだっただけだろう。声もそう聞こえただけかもしれない」

「そうか、俺の勘違いか……まぁ、商品を壊したことはリーダーに秘密だな」

「あぁ、もちろんだ。知れたら、俺たちの命に関わるからな」


 リーダーという名を出した瞬間に男たちの顔色が変わった。

 命を奪われるほどの重要な商品を壊してしまったと、いうことなのだろう。


「やっぱり、こんな夕方から取引するんじゃないな」

「そうだな。いくらクライアントの頼みとはいえ、リスクが高すぎるってことだ」

「まぁ、向こうは常連の有名人だからな。時間の都合をつけるのが難しいんだろうよ」

「おい、お前の口ぶりだと、今回の取引相手が誰か知っているのか?」

「詳しくは知らないが、大体の予想がつく」

「……誰なんだ?」

「それは言えない。秘密を漏らしたりしたら、どうなるかはお前も知っているだろう」

「そうだったな」


 男たちの顔色が曇る。

 それだけの恐怖に縛られているのだろう。


「まぁ、下っ端の俺たちの苦労などは、上の連中は知らないだろうけどな」

「間違いないな」

「それに取引現場を見られたとも限らないしな……まぁ、正確には取引前だったのが幸いだったな」

「残っているあいつが、上手いことやっているだろう」

「そう願いたいぜ」

「そうだな」


 大きな溜息をつきながら、男たちは再び闇の中へと消えていった――。

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