清掃員田中の非凡な日常

サルノコシカケ

清掃員田中の非凡な日常

 黒く長い髪を後ろで纏めた男が、朝日を反射しているリノリウムをモップで磨きながら隣りに居た男に聞いた。


 「田中くん、今日仕事が終わったら飲みに行かないかい?」


 田中と呼ばれた茶色に染めた髪を短く整えた特徴のない顔をした男が振り向いた。


 「今日ですか?」


 「そうそう、こないだ24歳になったって言ってたよな?そのお祝いで奢ってあげるよ。」


 「ほんとですか!山本さん、ありがとうございます!」


 オフィスビルの一室で田中が嬉しそうな表情でお礼を言った。

 午前9時前、まだ寒さの残るオフィスビルのワンフロアを田中と山本は掃除している。


 オフィスの社員達が次々に掃除している部屋に入って来る。休み前の金曜日である今日は荷物を多く持った者が多く、仕事終わりに街に繰り出すのだろうと感じさせる。


 「お〜い、田中くん。ちょっとこっちを手伝ってくれないかい?」


 山本が呼んだ田中はフロアの端でモップを持って一心不乱に汚れとの闘いに臨んでいた。


 「えっ?何か呼びました?」


 声が聞こえたのだろう、リノリウムの床より目を離して声が聴こえた方へ振り返る。


 「呼んだ呼んだ。床を掃除したいから、ちょっとこれを持ってて欲しくて。」


 これと言って指差されていた所には白く光る新しいオフィス用の大型のコピー機が存在した。


 「分かりました〜。すぐ行きます。」


 田中はリノリウムの汚れをひと睨みしてから歩き出す。

 フロア内に居る社員の人達を躱しながら、山本に近付きコピー機を見る。そしてまるで発泡スチロールを持ち上げたかの様に軽く持ち上げる。


 「えっ?」


 田中がコピー機を持ち上げた時に偶々女性社員が通り掛かり、目を丸くする。

 元々大きい目が更に大きく開き、まん丸になる。背が低く整った顔立ちを驚愕の色に染めながら動きを止めた。


 「あれ?コピー機って一人で持ち上げれたかな?あれ?」


 女性社員は首を傾げながら目の前の光景を見ている。


 「オッケー、終わったから下ろしていいよー。」


 「は〜い。」


 間延びした返事をしながらゆっくりとコピー機を下ろした田中はモップの場所に戻り、リノリウムを睨みながら再びしつこい汚れと格闘し始める。


 「佐々木さんどうしたの?」


 佐々木と呼ばれた女性社員の後ろから少し茶色い髪をポニーテールにした長身の女性が声を掛ける。


 「春日さん!さっきの見ました!?」


 佐々木は少しウェーブの掛かった長い髪を揺らしながら振り向き、春日に問い掛ける。


 「何を?佐々木さんが固まってるのなら見たわ。」


 「それじゃなくて、さっき清掃員の人が一人でコピー機を持ち上げてたんです!」


 「コピー機ってあのコピー機の事?」


 春日の目線の先にはどう見ても一人では持ち上げられないサイズのコピー機が新品の綺麗さを主張していた。


 「気の所為じゃない?一人で持ち上げられるサイズじゃないわ。」


 「でも、見たんです!」


 「佐々木さんまだ寝ぼけてるんじゃないの?さっ、仕事を始めるわよ。」


 春日が笑いながら佐々木を仕事へ促す。


 「気の所為じゃないのに……。分かりました。」


 胸にデフォルメされたキャラクターの付いた淡い緑色のツナギを着た田中と山本は、12時前までフロアの掃除をして昼ご飯を買いにコンビニに向かった。


 「今日は何にするかな〜?」


 「唐揚げ弁当とかどうです?ってか山本さん弁当じゃないんですか?」


 「今日は妻が寝坊しちゃってねぇ。」


 山本は溜息を吐きながら田中にお勧めされた唐揚げ弁当を手に取る。


 「今日は天気が良いし、飯は公園で食うか?」


 「そうです。そうしましょう。」


 冬が過ぎて少しずつ暖かくなってきた4月の今日は、陽射しは気持ち良いが少し風が強い。


 「これで風が無ければ最高なんだけどなぁ〜。」


 「3月に比べれば陽射しが強いからあったかい方ですよ。」


 冬の冷たく痛い風に比べて春の風は暖かく、気持ちの良さを感じさせる。


 「でも本当に風が強いですね〜。」


 「だろ?少し強過ぎ気もするよな〜。あっ!」


 風の強さについて田中と話してた山本は、自分の膝の上に置いてあったナイロン袋が飛んで行くのを止められなかった。


 空に舞い上がったナイロン袋はヒラヒラと地上に向けて落下していき、田中と山本の目の前にあった池に落ちた。


 「あちゃ、池に落ちちゃったか。」


 「あっ、僕が取って来ますよ。」


 田中はスタスタと歩いて池の前まで来た。そして緑色に濁った池に一歩踏み出し、まるでそこに道があるかの様に池の水面を歩きナイロン袋を拾った。


 「えっ?えっ?あれ?」


 そこを少し遅れて昼休憩を取ってコンビニに向かっていた佐々木が見ていた。


 「み、水の上に立ってる……!?」


 佐々木の目の前で田中は池の水面を軽い足取りで歩き山本の元へ戻って行った。


 「清掃業者がポイ捨てしちゃダメですもんね〜。」


 「わざとじゃないけどな〜。」


 田中と山本が笑いながら片付けをしてオフィスビルへ向かって戻って行った。

 

 「ごめん、佐々木さんお待たせ!」


 「春日さん!さっき!さっき!」


 佐々木が慌てた様子で春日に訴えかける。


 「さっきどうしたの?」


 「オフィスに居た清掃員さんが池の上を歩いてたんです!」


 「えーと、佐々木さん?」


 「本当なんです!」


 必死に訴えかける佐々木を困った風に春日が見ている。


 「そうね、入社したばっかだから慣れない仕事で疲れてるのね。よし、今日は飲みに連れてってあげるから仕事終わったら行きましょ!」


 「え?あ、ありがとうございます。本当なのに……。」


 信じてもらえない事が悲しいのか、佐々木は気落ちした様子で春日の誘いにお礼を言う。


※※※


 「今日も一日お疲れ様!」


 「お疲れ様で〜す!あれ?僕の誕生日のお祝いじゃなかったですっけ?」


 「良いの良いの。飲めれば理由は何だって良いんだよ。」


 カジュアルな服装に着替えた山本は飲む事が一番大事とばかりに一気にジョッキに入ったビールを飲み干す。


 「お姉さん!おかわり頂戴!」


 近くに居た店員におかわりを頼んだ山本はふと思い出した様に言う。


 「そういえば、こないだうちに来た時にやってくれたあれあるじゃん。娘があれを気に入っちゃってさあ、また来た時やってくれない?」


 「あれ?って目からビーム出す奴ですか?」


 「そうそうそれ!」


 少し嫌そうな顔をして答える田中に嬉しそうに山本が答える。


 「あれ目が乾くから何回もやりたくないんですよね〜。娘さんに見せたらもう一回が止まらないじゃないですか〜。」


 「それだけ気に入ったって事だよ!」


 笑いながら言ってる山本の背後の席で呟き声が響く。


 「目からビーム……。」


 偶々同じ店に来ていた佐々木は目からビームの言葉に振り向き、田中を見る。


 「やっぱりあの清掃員さんだ……。」


 佐々木はチラッと正面に居る春日の方に振り返り様子を確認する。

 春日はメニューと睨めっこをしていて佐々木の方は見ていなかった。


 「あとさぁ、うちの家族とキャンプ行った時に手から火を出して炭を熾してくれじゃん、あれをもう一回やって欲しいって妻が言っててさぁ。」


 「あぁ、あれなら簡単なんで良いですよ〜。」


 目からビームの話の時とは打って変わって、ほっとした表情で山本のお願いに快諾する。


 「手から火を出すのが簡単……。」


 眉間に皺を寄せていた佐々木は手から火を出すのが簡単という言葉を聞き更に眉間に皺が寄る。


 「佐々木さん、そんなに眉間に皺を寄せてどうしたの?」


 「い、いえいえ!な、何でもないです!」


 メニューから顔上げて佐々木の様子に気付いた春日の言葉に、佐々木は慌てた様子で誤魔化す。


 「じゃあ、早いけど今日はもう帰ろうぜ!」


 「えぇ〜、もうですか?さっき来たばっかりじゃないですか〜。」


 酷く残念そうな様子の田中が山本を引き留める様に言うが山本は折れなかった。


 「妻と子が待ってるんだ!仕方ない。」


 「はぁ、それは仕方ないですね。」


 諦めた様子の田中は会計を山本に任せ帰り支度をする。


 「ごちそうさまでした〜。」


 「おう、また行こうな!」


 お礼を言った田中に少し酔った様子の山本が元気良く答える。


 山本と別れ一人歩道橋を渡っている田中の視界に横断歩道を渡ろうとしている女性が見えた。


 ぼんやりしているのか、赤信号に気付かず渡ろうとしていた。交通量はそれなりにあり、そのまま進んでしまえば車に引かれるであろう。


 「危ないですよ〜!」


 田中の大声に気付いたのか女性は顔を上げて田中を見る。しかし、声を掛けるのが遅かったのか、女性は横断歩道を途中まで渡ってしまっていた。


 「あれは?清掃員さん?」


 女性は佐々木だった。佐々木は田中に気付くと動きを止めた。そこへ車のクラクションの音が響く。

 佐々木がクラクションのなる方を見ると車が猛スピードで目の前に迫っており、どう見ても躱せそうにもなかった。


 「きゃっ!」


 佐々木が硬く瞑った目を開けると田中に抱きかかえられていた。


 「えっ?さっき歩道橋の上に?えっ?」


 「ぼんやりしてると危ないですよ〜。」


 一瞬にして歩道橋から横断歩道まで移動して来た田中に驚いたのか、佐々木は狼狽えた様子で田中を見る。


 「気を付けて下さいね。じゃあ僕は帰りますので〜。」


 田中はそう言って道の先へ去って行った。


 「えっ?えっ?瞬間移動?」


 佐々木は未だ狼狽えた様子でその場に居た。


 「あの清掃員さん何者なの?凄く気になるわ!」


 狼狽えた様子から強い目に変わった佐々木は決心したかの様な言葉を漏らす。


 「絶対突き止めてみせるわ!」


※※※


 佐々木が近くの駅へ向かって歩いている。ふと顔を上げ、周囲を見渡した佐々木が田中を見付ける。


 「えっ?清掃員さんうちの家の近くに住んでるの?あっ、そうだ。昨日のお礼言わなきゃ!」 


 佐々木は田中に近寄り声を掛けた。


 「昨日は危ない所をありがとうございました。」


 「えーっと、何の事でしょう?」


 少し寝癖の付いた田中は怪訝な様子で聞き返した。


 「昨日の夜、車に引かれそうになったのを助けてもらった事です。」


 「昨日は酒を飲んでてあんまり記憶がないんです。すいません。あっ、弁当忘れてる!って事でじゃあ。」


 その言葉と共に田中は消えた。


 「え?え?き、消えた!?」


 佐々木が周囲を見回しても田中の姿は無かった。


 「やっぱり気になるわ!家も近くみたいだし、色々調べて突き止めてやるわ!」


 こうして田中のストーカー予備軍が出来上がった。

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