第7話 さらば忌々しき戦場よ
目が覚めると、どこだか分からない灰色の天井と、そこからぶら下がっているいくつかの魔鉱石製ランプが見えた。
数秒して、おれは少し硬いベッドに寝かされていることに気づいた。ゴワゴワとした布団が身体の上にかけられている。
「気づいたようだね」
声のした方に顔を向けると、そこのは白衣を着たおっさんがいた。このおっさんが首から下げている聴診器を見るとどうやら医者のようで、ここは医療ギルドの病室なのらしい。
ゆっくりと身体を起こしてみると、徹夜明けのような気だるさと関節の痛みが走ったが、動けないほどではなかった。
「なんともないかね?」
「ええ……いったい何があったんですか」
「薬品問屋管理ギルドから黒いモヤの方なものが発生して、建物の中で集団昏倒が起きてな。レスキューギルドを動員してどうにか全員あちこちの医療ギルドに収容出来たところだ」
辺りを見回すと、部屋の中には俺が寝かされていたものと同じベッドが並んでおり、どれも誰かしらが横たわっていた。
「みんなここに運ばれてきた患者、ですか」
「そういうことだ」
改めてあの出来事を振り返ると、寒気がする。
パニックを引き起こしたあの黒いモヤ、脳内を揺るがすような悪意のある声、倒れる人々。
悪夢のような事件から始まり、犯人が見つかったと思えば更なる悪夢に襲われる。本当にどんな災厄だ。
「急に顔色が悪くなったようだが、大丈夫かね?」
「あ、ああ、大丈夫です、多分」
そう答えると、相手は「そうか」と安堵の表情を浮かべる。
「じゃあ、さっさと退院手続きしようか」
「…………は?」
言われた意味を理解する前に、白衣のおっさんにベッドから引きずり降ろされる。
「って、いきなり何するんだ!」
「うむ、それだけ叫べるなら元気だろ。まあ、病院では大声は慎んでくれるとありがたいが」
そういう問題か! さらに叫びたくなるのをこらえながら渋々立ち上がる。
「というよりこっちとしては、急患の数が多すぎて通常の患者がろくに診られなくて困ってるんだよ。元気そうな人間はとっとと帰ってもらいたいのが本音だ」
こいつもあのチャラ探偵と同様、仕事に対しては超現実的というか現金なタイプか。
「あ、検査の数値は異状ないからその点は安心してくれていい。万一何かあったらまたここへ来ればいいから」
「あんなヤバそうな黒いモヤを浴びたのにか?」
おれは特に意味もなく脈や心臓の動きをチェックしたり、深呼吸してみたが、正直自分でも無事かどうか判断できない。
「まだ他のギルドと強力しながら調査している最中だが、どうやらあの黒いモヤが原因で体調不良を引き起こしているのは確かなようだが、症状には個人差が出ている。全く出ていない者もいれば、衰弱が激しすぎて意識が戻らない者もいる」
「衰弱……もしかしてその人は」
「事件があったギルドの副マスターだよ。心労も関わっているかもしれないが」
あのアザラシが頭に浮かぶ。
そういやあのギルドは本当にどうなるんだろうか? トップどころかナンバー2も動ける人間がいなくなると本当に仕事にすらならないのだが。
ただもうおれ自身としては、もうあのギルドで働くという意志はとっくに消え失せてしまっていた。今となってはなんであそこで必死になって働いてたんだろう、という気持ちの方が大きい。
そもそもあんなところで働かなければこんなことに巻き込まれなかったどころか、殺人犯にされかけることもなかった。
……マジで最悪だったな。思い返しても。
「先生、大変です! 303号室の患者さんの容体が!」
「何だって!? ……例の副マスターだ。すまないが、自分はもう行く。君はそのまま退院したまえ」
バタバタと慌ただしく立ち去る医療ギルドのスタッフたち。
この流れ、もしかして副マスターがヤバいことになってるのか?
とはいえ、おれができることは何もないぞ?
しかし、心配すらしないのは人としてどうなんだ?
などと思考が頭の中をぐるぐると駆け巡ったが、結局心配してもしなくてもおれができることは何もない。
……うん、帰ろう。
時計を見ると七時過ぎ。ギルドで倒れたのが夕方くらいとすると、意外とそんなに時間は経っていない。
だが、妙に外が明るい。日没の時間などとっくに過ぎているのに。
不思議に思って外に出ると、太陽が東側の位置にある。
そこでようやく気付いた。今は午後七時ではなく、午前七時。つまりおれは十二時間以上も寝ていたことになる。ギルドで働き詰めになってた頃には考えられない睡眠時間だ。
そういや腹も減った。せっかくだから何か精のつくものでも食べて帰ろうかと思い、ポケットに手をやるが、財布がない。
いや、そもそもポケットに財布入れてたっけ? あ、入れた記憶はない。財布はカバンの中に入れたままのはずだった。そしてそのカバンはこの場には、無い。
それどころか事件のあったあの時からずっと見てないし触ってもない。
ということは、だ。
導き出された結論に深いため息をつく。おれのカバン、誰も触っていなければあのギルドにずっと置きっぱなしになってる……
何が悲しくてもう行く気もない仕事場にまた行かなきゃならないんだ。だがあのカバンには財布だけでなく身分証明書や家の鍵も入っているので取りに行かないわけにもいかない。
ここから薬品問屋管理ギルドまで一区画。
なんとも重くなる足取りを少しでも軽くなるよう、アップテンポで元気になれる歌を思い浮かべる。
今度はうっかり歌わぬよう、口だけはしっかり閉じて。
「何なんだよ、これ!」
目的のギルドのある区画に入った途端、辺りは薄っすらとした黒いモヤが漂っている異様な景色と化していた。
あまりの不気味さに、人通りはほとんどない。
医療ギルドのあの超ドライな医者の話だと、あのモヤが原因で体調不良者を発生させているという事だが、このモヤがあの割れた水晶玉から噴き出したモヤと同じものだとしたらものすごい広範囲に広がっていないか?
かといって財布があっちにある以上引き返すという選択肢はない。
パッと行ってパッと帰れば大丈夫だろうか、と謎のポジティブ思考を無理矢理脳内から引っ張りだし、念のためにとポケットに入ってるハンカチで簡易マスクを作る。
あの時、黒いモヤを吸ったとたんに頭の中に悪意の塗れた声が一気に押し寄せてきて気分が悪くなって倒れたのは覚えている。
なら、それが聞こえてこなければ大丈夫なのではないか? だから体調不良の直接の原因は黒いモヤそのものではなく、黒いモヤを吸ったとたんに聞こえてくる悪意の声。
意を決して数歩前に突き進む。声は聞こえない。
よし、これならいけるんじゃないか? ちょっとでもおかしな声が聞こえたら全力で逃げることにしよう、うん。
言い訳しておくが、こう見えておれは正直めちゃくちゃに緊張している。ついでに言うとこんなことに巻き込まれた自分の不運にはほとほと失望していたりもする。
幸い、ギルドに着くまでにあの声は全く聞こえなかったし、体調も悪くなることはなかった。
あの占い師は「呪いを凝縮させたもの」と言っていたが、それが本当ならばギルマスにかけられたものと同じ、人の恨みを買うたびに死へと近づく呪いのはずだ。
それを考えると、おれが倒れる前に聞こえたあの悪意に満ちた声は、全て正真正銘俺に対する恨みという事になるのではないか。そして不本意ながらも、あの声の主は全部あの場にいた人間の誰か、もしくは複数人か。
ただ、どう思い返してもあの声は恨みは恨みであっても完全に八つ当たりにして逆恨みだったぞ。というか、あの声の中にチャラ探偵の奴がいたような気がする。いや、絶対にいた。あいつマジふざけんな。……いや、そもそもこんなことで苛立っても結局それこそ八つ当たりと大差ない。
ギルドの入口には、申し分程度に関係者以外立ち入り禁止と書かれた札のついたロープが張ってあるだけで、誰もいなかった。
扉も開きっぱなしになっており、これでは泥棒に入られてもおかしくない。この得体のしれない黒いモヤの漂う区画を徘徊する度胸があればの話だが。
恐る恐る中に入ってみると、一段と濃くなった黒いモヤが建物の中を漂っているが、視界がきかなくなるほどでもない。おれはさらに足を踏み入れるが、今のところ身体に異変はない。
目当てのカバンは事件の現場にもなっている仕事場の自分の席の側に置いてあった。
机の上にはまだ整理の終わっていない書類が散乱したままだ。
これが、このギルドでの最後の仕事だったんだよな。
初めの頃は仕事を覚えるのに必死で、その後は激務とモラハラの板挟みで必死になって。
その必死の先に何があったのだろうか? やりがい? 自己満足?
事件現場にやって来て捜査に尽力した様々なギルドの人たちを思い出す。
温厚だが、面倒くさい規則を頑なに守る警察ギルドの髭のおっさん。
クソうっとうしいお調子者だが、そのペースを崩さない探偵ギルドのチャラ男。
生真面目なんだろうが、今一つ頼りない鑑識ギルド魔術系専門のちんちくりん捜査官。
気さくで裏表のなさそうな弁当屋ギルドの口の軽い兄ちゃん。
みんな、少なくともおれより遥かに自分の仕事に価値を見出している。
そりゃ面倒とか仕事が多いとかの不満はあるだろうけど、みんなおれみたいにブラック環境漬けで己を見失うことはなさそうだった。
正直、うらやましかった。
そもそもこのギルドどころか今までの社会人人生の中で、おれが何かを成し遂げたことってなんかあったっけ? 無理難題な激務をやらされて、それを充実感と勘違いしただけじゃないのか。
振り返っても振り返っても虚しさだけがこみあげてくる。
こんなことやっても全く意味はないけど、せめてもの義理とけじめだ。自分の机の上だけは片づけておいてやろう。まるで最初からいなかったかのように、きれいさっぱりと。
必要そうな書類と、要らないメモや使い道のなさそうな紙束をざっくりと分別する。ついでに新入り時代に使っていた仕事のマニュアルをメモしたノートも要らない方へ置いた。
それから要るものはそのままに、要らないのは紐で縛って古紙置き場へもっていく。紙類はインクを消す薬につけてから製紙し直せば再び使えるようになる。まあそれをやるのはリサイクルギルドの仕事だけど。
古紙置き場は誰も掃除する者がいなかったため、一年位前からずっとチラシの束などが乱雑に置きっぱなしになっている。
まあ、さすがにこれも整頓しようという気にはなれない。おれは縛った紙束をチラシの上に置こうとして、そこで手を止めた。それから、紙束をチラシの横に置くと、チラシを一枚手に取る。
胸の中に苦い感情がじわじわと広がっていくのを感じながら、おれは、それを見た。
それは、半年以上も前にうちのギルドが一方的に取引を中止した小さな薬品工場の新製品のチラシ。
そして、おれは思い出してしまった。
おれは確かに、ギルマスに殺意を抱いたことを。
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