23話


 まるで今日は天気がいいですね、とでも言うような何気なさで発せられた言葉は、簡単に言えば死刑宣告と同義だった。



「勘違いされるのも無理はありませんが――」


「逃げろぉ!!」



 ――決断は早かった。


 結紀ゆうきの絶叫が響くのと同時に三人は、一斉に別々の方向に走りだしていた。互いに脇目も降らず、無我夢中で足を動かす。


 少しでもダニアから距離を取れるよう、一秒でも早くここから逃げられるよう。

 ことここに至っては作戦など無意味だった。


 だが――、



「それは悪手にございます」



「ぐぅッ!?」

「――かはっ」

「あぐ!?」



 ものの五秒後には、一纏めになるよう同じ場所に蹴り飛ばされていた。



わたくしがSクラスだとお知りになり、恐慌されるのは無理もありませんが……お逃げになるなら一手目から全力で逃走しなければ意味がありません。

 視界の通るここでは、どのようにお逃げになったところで私から逃れることは不可能でございます」



 地面に這いつくばる三人を見下ろすダニアは息一つ乱していない。それに対して呼吸が安定しない三人、しかしその呼吸の乱れは疲労によるものではなかった。


『Sクラス』


 それは他のクラスとは異なり、同レベルの者たちを一つの教室に纏められるための振り分けではない。


 そこに選抜される要件はただ一つ。それは――、



「――厄災」



 昧弥まいやに感じる、奈落の底の暗黒を覗き込むような、原因不明の、分からないからこその恐怖とは違う。明確な命の――人類の危機。


 その厄災を人の形に押し込めたメイドは、ただ嫋やかに微笑んでいた。



「はい、然様にございます。我が身は災厄……一度ひとたび、私の人工精霊タルパが顕現すれば人類が滅びかねません。それこそがSクラスに振り分けられる、唯一にして絶対の条件でございます」



 結紀はユクとココを背に庇いながら、一ミリでもダニアから遠ざかるべく、少しずつ、少しずつ後退る。



「しかし、どれだけ大仰に飾り立てたところで人工精霊タルパ人工精霊タルパでございます。

 その人工精霊タルパを抱える覚者が、人類を滅ぼそうと考え、人類が滅びるその瞬間まで顕現させ続けるようなことがなければ、人類が滅びることはありません。

 ですが……」


「ぐっ!?」


「ユーキッ!?」


「くっ。この……」



 しかし、どれだけ注意を払おうと、ダニアの目から逃れられるはずもない。


 目の前にいながら腹に突き立てられるまで気づけなかったダニアの蹴りに、結紀は呻きながら後退を止めた。



「核弾頭を隣に置きながら安心しろと言われて、素直に頷ける人間などそういるはずもございませんもの……その反応は正常でございます。ご自身を卑下する必要はございません。むしろ未だに諦めた御様子ないだけで感嘆すべきものです」


「く、はは……お褒めに預かり光栄です、とでも言えばいいのか?」



 腹に食い込む足を退けようと藻掻くも、まるで根が生えたように動かない。できることは精々が皮肉るぐらい。


 しかしダニアが賞賛したように、結紀の瞳は恐怖に染まりながらも、諦観に暗く陰ることはしていなかった。


 その意思の光に、ダニアは眩しそうに目を細めながら笑みを深める。



「ご謙遜を。その意思こそ、何よりもたっとぶぶべきものです。誇りこそすれ、それをご自身で蔑んでしまっては、貴方様が守ろうとされているものまで軽んじることになってしまいます。それは本望ではないはずです」



 結紀は卑屈に歪んでいた顔をハッとさせ、すぐに深くしわが刻まれるほど歯噛みした。自身を足蹴にしている者から痛いところを突かれるなど、自分の不甲斐なさに叫びたいほどだった。



「しかし、真に賞賛されるべきは私との実力差に折れないことではございません」



 そこ言葉を切り、ダニアは突き刺さっている足を徐に持ち上げた。


 ごほごほと咳き込む結紀と、その背を支えるように手を当てる二人の少女を眺めな、ダニアは喜悦に頬を紅潮させながら抑えきれない感情を吐きだした。



「真に賞賛されるべきは――ご主人様の業をその身に受けながら、再びあの方の御前に立つことができたことです!」



 天啓を得た信者の如き高揚。腹の底から溢れてくる至福に、ダニアはゾクゾクと背筋を震わせながら高々と声を上げる。



「ご主人様の恐怖は私のような即物的なものではございません! 抗いがたく、人間の根源を侵し、生きとし生けるものを余すことなく、すべて蹂躙する。

 極上の――地獄です」



 自らの肩を抱きながら、はぁはぁと熱く呼気を乱し、絶頂オーガズムに蕩けるダニアの姿は、神の御姿を拝謁した狂信者のそれだった。



「――だからこそ、」



 その高ぶりがピタリと止まる。


 熱に浮かされたように広がっていた灰色の瞳孔が、針のように引き絞られ、冷え冷えとした狂気が滲んでくる。


 その冷気に、結紀たちは恐怖とは違う、言いようのない焦燥を感じた。


 ――ここにいちゃいけない、と。



「貴方方は可能性なのです。あの方が、ご主人様が、さらなる深みへと至るための可能性であり。ご主人様を脅かす、障害となり得る可能性なのです――故に、確かめねばなりません」



 しかし、逃げられるはずがない。


 すでに定めは裁可され、歯車は動きだしている。

 それは結紀たちが抗うことすら、すべて織り込み済みの決定だった。



「あの方が、貴方方をお相手するよう下命されたのも、そのために違いないのですから――」


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