14話


 交わっていなかった世界の境界が、無遠慮に掻き乱さられる。


 その瞬間、き止められていたかのように、濃密すぎる死の気配が怒涛の勢いで教室に溢れ返った。


 ――っははぁ! マジでやべぇなこりゃあ……。


 盛大に噴きだしてこようとする冷や汗を心の内だけに押し込め、殻木からきは一層軽薄に笑みを深めることで、引き攣りそうになる頬を無理やり抑える。


 もはや、抵抗する素振りすらできなくなった小貫おぬきは、腕の中で縮み上がりながら地面の一点を凝視し続けている。

 この有様で橋渡しとして役に立つわけがないが、初めからそんな期待などかけているわけもない。精々が肉壁として一撃を肩代わりさせることができれば十分。


 それすら完遂できるとも思えないが……。


 ただ、逃げる際の手駒はないよりはある方がいい。

 それだけのことだった。



「ねぇねぇ~、聞いてるぅ? オレ、君に興味津々なんだけどなぁ~。ちょっとだけいいからさ~ぁ、お話しなぁい?」



 死の濁流に呑まれながら、なおも芯のなさを失わないのは、もはやそれそのものが堅固な芯ということになるのだろう。


 殻木は軟派な態度を貫いて、再度昧弥まいやに声をかける。

 しかし、どれだけ声を響かせても当の本人から反響がないのでは、会話そのものが生まれない。


 ――やぁっべー。ぜんっっぜん話聞いてくんないじゃん……どうすっかなぁ。


 未だに一切の反応を示さない昧弥を前にして、殻木も次の一手をどう打つべきか判断に迷っていた。


 ここで、せっかくの一時を台無しにした、などの適当な理由で突っかかってきてくれるなら御しやすいところなのだが……。

 まるで音が遮断されているかのように無視を決め込まれてしまっては話を進めようがない。


 だが、是が非でも反応してもらわなければ困る。


 ――仕方ねぇ。もう一芝居打って、無視できねぇようにするしかねぇか……。


 腹を決めるのと同時に、殻木は自分の内側に意識の手を伸ばす。


 肉体を超えて、精神よりなお深い根源へ――。


 魂の形を確かめるような繊細な手つきで、自身の最も触れがたい部分へ、Manasマナスへと手を差し入れた。

 同時に溢れてきたを還元し、業へと形を変えて外界に放出する。


 一連の工程は刹那の内に終了する。


 空気の内へと入り込んだ業は瞬く間にその勢力図を伸ばし、昧弥の持つティーカップへと殺到し――、



「がべぁ!?」



 気づいた時には、殻木は地面へと顔をめり込ませていた。



「――控えなさい、下郎」



 頭上から降ってくる静かに怒りを滲ませる女性の声に、殻木は答えることもできず、ただ目を白黒させるしかなかった


 ――どうなってやがる!? いったい何が起こったッ!?


 おそらく、自分を平伏せさせている声の主は、堺昧弥の脇でティーポッドを抱え、優雅に佇んでいたメイドに違いない。


 ――だが、だからこそおかしかった。


 ――オレぁ一瞬だって目を逸らしちゃいねぇぞおッ!!


 相手が一人ではないことなど先刻承知。そのうえでしっかりと二人を視界に収め、僅かにも隙を生まないよう注視していたのだ。

 にもかかわらず、結果は押し倒されたその瞬間まで、メイドの動きを察知できなかった。つまり……。


 ――コイツ、オレが知覚できないスピードで動いたってぇのかよ!?


 驚愕などという言葉では生温い、黙示録のラッパを聞いたような衝撃だった。



「ご主人様は只今ティータイムを嗜んでおいでです。その安息、何人なんぴとたりとも妨げることは許されません」



 無慈悲な宣告。忠告などという生易しいお告げは、ありはしなかった。


 後頭部にブーツの固い感触を感じながら、殻木はようやく一つの事実に辿り着く。


 ――話を聞く連中じゃあねぇ!


 問答無用で行動に移すべきだった。だが、そう思い至ってもすでに手遅れ。拘束されてしまっては、できることなど高が知れている。


 身動きも取れず、後頭部という急所も押えられている以上、業を発動させようにも、マナスに意識を向けた瞬間に察知されて殺されかねない。


 ――これが万事休すってぇヤツかぁ……。


 内心を読まれまいと、抑え込んでいた汗が噴きでてくるのを気にする余裕もない。

 しかし、殻木は頭の半分を諦観で埋めながらも、どうにか脱出する術をないかと模索し続けた。



「――小貫」



 流れを変えたのは、溜息のように何気なく投げかけられた、囁くような声だった。


 小貫は名前を呼ばれた瞬間、びくっと体を震わせ、尻もちをついたまま迷子のように顔をあちこちに向けた。



「あ? ……あっ。は、はいッ!」



 ズレていた時間が合わさっていくように、ようやく現状に理解が追いついた小貫は、発条仕掛けのように跳ね起きると、足をもつれさせながら昧弥の下へ駆け寄った。



「な、なんでしょうか?」



 一メートルの距離を空けて直立不動で姿勢を正した小貫は、体の震えを止めることができず、酸素の足りない末期患者のような青い顔で昧弥の言葉を待った。



「……小貫」


「は、はい。なんでしょうか?」



「――こいつの業は何か……予測を立ててみせろ」


「ハイッ! …………は?」



 まるで今日の夕飯を訪ねるような気軽さで、昧弥の口から難題が吐きだされた。


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