19話


 掌から細く煙が立ち上がる。


 閃光が瞬いたと察知した瞬間、彼女の手は横合いから打ち据えられたように結紀の頭から逸らされていた。


 昧弥まいやは拍動のように衝撃が残る掌にしばし視線を落とし、感触を確かめるように二度、三度と握っては開いてを繰り返す。


 そして、その痺れを握りつぶすように拳を固めると、驚きに軽く開かれていた瞳を興味深げに細め、再度笑みを浮かべた。



「なるほど……」



 昧弥は、そのまま視線を結紀たちに戻す……ことはしなかった。


 愉悦の光を怪しく灯した瞳は結紀たちを通過し――彼らの背後に忽然と現れた、長い黒髪を揺らめかせる女へと向けられた。



「これならば、私のカルマの圧に僅かでも抵抗してみせたのも頷ける」



 昧弥はクツクツと喉を鳴らし、不機嫌そうに顔を歪める女と、それに繋がるものを嘗めるように見回した。


 身に纏っている白の患者衣は、長い月日を重ねたように黄ばみ、乾いた血のような赤黒い汚れが染みついている。

 その上からは、千切れた革ベルト――革製の拘束具の残滓のようなものが巻きつき、その存在が以前は縛られていたことを知らせていた。


 そして何より目を引くのが、結紀の心臓、その真上から突出する黒光りする厳めしい鎖と、その先端に繋がっている首輪だろう。


 だが、それは相手が普通の人間であればの話。拘束具も鎖も首輪も、その女が泳ぐように宙を漂っていることに比べれば些細なことだ。


 女は、まるで重力とは無縁であるかのように、なんの支えもなく宙へ浮かび続けている。


 通常の物理法則がそこに介在する余地はない。


 明らかに現実という括りから外れたその存在は、超常神秘の塊――。



「まさか他者に物理干渉できるほどの人工精霊タルパとはな」



 それは、醜悪な邪心の狂気と血肉で形成された――哀れな魂の成れの果てだった。


 隠そうともせず愉悦を垂れ流す昧弥に、人工精霊タルパは露骨に顔をしかめる。

 そこに、破れ、すでに用をなさなくなった革製の拘束具アイマスクの残滓がへばりつき、怒りに染まった表情をさらに荒々しいものに飾っている。


 僅かに残る革紐の隙間から怒りに爛々と燃え上がる眼光が覗き、鼻にしわが寄るほど鋭く尖らせた瞳に抑えきれない敵意を滾らせていた。


 しかし昧弥はその殺気をそよ風程度にも感じていないように鼻で笑う。



「これは思わぬ収穫だ。当然いることは分かっていたが……こうも早々に捕捉できるとは思っていなかったぞ。ふふっ。さて、私は貴様をどうするべきだ? どうすれば有意義に使える?

 クッ、クク、クハハッ! ――疼くじゃないか」



 挑発するように笑みを深める昧弥に、人工精霊タルパは歯を剥きだしにして威嚇する。その口蓋に並ぶのは、鋭く尖り乱雑に食い違う、大量の人ならざるモノの牙。


 それは如実に人工精霊タルパという存在のさがを物語る、獣性に満ちた顔だった。



「いいぞ、それでこそだ。人工精霊タルパとはそうでなくてはな」



 しかし、凶暴の獣が牙を剥いて襲いかかろうとするのを眼前にしながら、昧弥は愉快でたまらないと声を弾ませる。それは言外の宣言でもあった。


 ――脅威足りえない、と。


 その意は人工精霊タルパにも余すことなく届く。


 まるで主人を守る忠犬のように、あるいは胸の中で赤子を守る母のように。結紀の首に絡みつくように腕を回し、昧弥との間で隔たりとなって人工精霊タルパは構えた。


 そして牙とは対照的な、美しい桜色の唇を震わせながらゆっくりと口を開き――、



『こいつは私の。横取りは許さないわ』



 美麗と醜悪を混ぜ合わせた外見と違わない、少女の鈴を転がすような声と、バケモノのしゃがれた唸り声を混ぜ合わせたような、奇妙な音を響かせた。


 その不協和音に、昧弥は今度こそ、驚愕と歓喜によって目を限界まで見開いた。



「――ハッハッハッハッ! これは愉快だ、言葉まで解するか! いいぞ、実にいい! これほど笑ったのはいつぶりか分からん。道化としては合格だ!」



 肩を揺らして狂ったように笑う昧弥を、人工精霊タルパは静かに見下ろす。


 視線を自分から外し、喉を反らして笑う姿は、隙だらけのように見える。その気になれば、すぐにでもその喉笛を嚙み千切れる、そう思えてしまう。


 しかし、人工精霊タルパの瞳はそれを隙とは捉えず、眼前の敵の一挙一動を見逃さまいと油断なく見開かれていた。



「クックックッ……ふぅ。これだけでも、この絶海の孤島まで足を運んできた甲斐があったというもの……褒美を取らせてもいいほどだ。だが――」



 しかし、そのような警戒など、昧弥にとっては蟻が像に備えるようなものだった。


 言葉を切り、無造作に伸ばされた手は、人工精霊タルパの警戒をたやすく掻い潜り、気づいた時には二人を繋ぐ鎖を手中に収めていた。



「――少々、躾が足りていないな」



 人工精霊タルパは瞬時に反応し、再度昧弥の手を払いのけようと腕を振る。


 腕の先が消えたようにすら感じる速度で放たれた手刀は、しかし昧弥からすれば欠伸が出るほど遅かった。



『ガァッ!?』



 何をされたのかも分からず、人工精霊タルパは雷に打たれたように体を仰け反らせた。


 ガクガクと痙攣しながら空中で体をよじる。


 まるで体の内を何かが這いずって、脳に向かって肉を掻き分けてくるような感覚。それは人工精霊タルパにとって、初めてのという感覚だった。


 思念体のような存在の人工精霊タルパにとって、対象とはこちらが一方的に干渉するモノでしかない。故に触れることはあっても逆はあり得ない。


 何が起こっているのか理解できないまま、混乱の極みに叩き落された人工精霊タルパを、昧弥は鎖を引き寄せて無理やり自身の眼下へ持ってくる。


 壮絶な笑みで醜悪なかんばせを歪めながら、眼球同士を密着させるような距離で突き合わせる。

 その黒一色で染め抜かれた瞳には、人工精霊タルパである自身にすら見渡せない、深淵が広がっていた。


 ――知らない。こんなものは、断じて知らない! こんな、こんな……ッ!



未通おぼこ小娘ガキが私を見下ろすとは……教育が必要だな」



 恐怖とは何か――人工精霊タルパは今、その意味を知った。


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