18話



「――ァッ!?」



 それは両隣の二人も同様だった。異なる色の肌を一様に青褪めさせ、喉を引き攣らせながら喘ぐ。

 しかし、大きな鉛を詰め込まれたかのように、空気は僅かにも喉を通らない。


 目尻に涙を浮かべ、口を戦慄かせ、喉に穴を穿たんばかりに爪を立てた。


 しかし、三人の体はその意思をたやすく切り捨てる。まるで一瞬のうちに体の操作権を他人に握られてしまったような感覚。


 脳裏を掠めた恐ろしい想像に、三人は体の内で恐怖が爆発的に膨れ上がっていくのを感じた。その暴力的な感情に飲まれまいと抗う三人の足元に――影が落ちた。


 同時に顔を跳ね上げた三人が見たのは、いつの間に距離を詰めたのか、息遣いを感じるほど近くまで迫った昧弥の顔だった。



「―――」



 瞬間、感情が腐れ堕ちるのを感じた。


 結紀は不運にも、その奈落の穴のように底知れない黒の瞳を真正面から覗き込んでしまっていた。

 常ならば、喉が裂け、血を吐いても、なお止まらない金切り声を上げていただろう。しかし、噴火寸前の火山のように衝き上がってきた恐怖が、声になって噴きだすことはなかった。


 恐怖それは体から一滴も零れることなく、冷え固まったタールのようにへばりついてくる。まるで、この責め苦を永遠とするため、自身の内に根を下ろそうとしているかのように……。


 刻一刻と死んでいく結紀の心など気にも留めず、昧弥は脂汗が伝い落ちる顔を眺めながら目を細め、独りちる。



「凡庸だな。やはり、貴様ごときが私のカルマの圧に抗うだけの力を持つとは考えづらい。だが、直接向けたものではないとはいえ、僅かでも抗って見せたのも事実。ならば……」



 昧弥は結紀から視線を切ると、顔は向けずに視線だけを右左に流し、少年と同じように自身の圧に飲まれて震えている少女たちを睥睨した。



「やはり、共存関係にある他者が鍵と見るのが妥当か……。ある種の相互結合回路リンクを繋げ、互いの精神強度を底上げしたのか? ……ふむ、なかなかに興味深い」



 ユクもココも、視線が向けられたことを明確に察知しながらも、けして目を合わせないように漠然と正面を見つめ続ける。にもかかわらず、二人の顔色は青を通り越し、死人のような土気色に染まっている。


 状態が悪化しているのは明らかだった。


 その様子に、少女たちの精神状態が少年と同調するように動いているのを確信し、一人納得したように首肯して一歩後ろに引いた。


 昧弥は三人を一瞥の内に収め、顎に手を添えて思案を巡らせる。


 間を置かず、逡巡によって研磨されるように鋭く細められた瞳の奥で、好奇心を種火に仄暗い眼光が灯った。



「だが、そうであると仮定するなら……」



 その光に三人は見覚えがあった。どこであったか、その記憶の詳細は各々違う。しかし、その本質は間違いなく同質のもの。


 自分たちは確かに、あの瞳に宿る暗い光を知っている。


 ――あれは……を見る目だ。


 自分たちを人ではなく、物として映している。そうだ、あれはヒトデナシの――。



「――支柱となるものを折れば、他も連鎖的に崩壊する……ということになるな」



 裂けるように口角が吊り上がっていく、それが嫌にゆっくりと映った。

 おもむろに持ち上げられた左手が、緩慢な動きで結紀ゆうきの目の前に広げられた。


 その掌には大小様々な傷が重なり、見るだけでも痛ましさに身が竦む。

 しかし、その傷の下には女性らしいしなやかさも見て取れる。


 指先に乗っている小さな桜色の爪からは、どこか非現実的な可憐さすら感じられた。


 自身と比べても明らかに小さい、女性の手だ。


 ――それなのに……ッ!


 結紀には、その華奢とすら形容できそうな小ぶりな手が、人のものではない、何か、悍ましい異形のモノのように見えて仕方なかった。


 伸ばされた指は、鋭い鎌の刃のようでもあり、無数の返しがついた鉤爪のようでもある。まるで、魂を鷲掴みにしようとする悪魔の手だ。


 それがジリジリと焦らすような速度で、自分の額へと向かってくる。



「……ぁ……ぁ」



 額に銃口を突きつけられているような緊張と、一寸に一刻をかけるようにゆっくりと押し寄せてくる死相に、結紀は嚙み合わない歯を打ち鳴らして震えた。



「ぅ、ァギッ!」



 その手が結紀の頭に到達したとき、きっとそれは彼の終わりを意味する。

 ユクもココも、それを想像するまでもなく、逃れようのない現実を肌で感じた。


 だが、血が滴るほど唇を噛み締め、爪が掌を突き破るほど力を込めようと、一度恐怖に飲まれてしまった体はピクリとも動いてくれなかった。


 ――待って、待って待って待って!


 ――ダメ、ダメ! 結紀だけはダメ!


 焦り、狼狽うろたえ、心だけが勇んでいく。しかし、どれだけ意志を燃やそうとも、体は死んでしまったように冷え切って動かない。


 あまりの情けなさに、涙で視界が滲むのを二人は止められなかった。


 自分たちには常人よりもはるかに頑強な体も、現実すら塗りつぶす力も確かにあるというのに……。


 “怖い”ただそれだけのことで、大切な人の危機に身を挺することすらできない。


 これほど惨めなことが、他にあるだろうか?


 ほぞを噛むばかりの自分の無力さに、ただ打ちひしがれるほかなかった。


 ――力が欲しい。


 それは少年と出会ってからついぞ忘れていた、理不尽への反逆を示す渇望だった。


 ブチブチと体の内で音が響く。それは、無理に動かそうとした筋肉が断裂している音のようにも、精神が肉体を凌駕し、剥離していく音のようにも聞こえた。


 ただ、確信と決意があった。


 この先に、自分たちはこの恐怖を打ち破ることができる!



「控えろ」



 ――そのすべてを、この悪逆は容易く踏みにじった。



「――ぁ」



 たった一言。威圧でも、脅迫でもない。ただ口をついた独り言のようなそれだけで、二人の思考は再び底なしの闇に飲まれた。



「貴様らの相手はこいつの後でしてやる」



 あまりに無慈悲な宣告。しかし、すでに嘆く者すらいない。


 伸ばされる昧弥の手は一切に阻まれることなく、結紀の頭を鷲掴みにしようと迫り、



「ん?」



 ――バチィ!



 雷に打たれたような衝撃と共に弾かれた。



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