15話


 まるでそこにあったのは幻だったかのように、音もなく消失した昧弥まいやは、その時にはすでに六メートル先を駆け抜け……いや、


 床を踏み抜き、クレーターを作るような壮絶さはない。

 ただ静かに、水の上を滑っていくような滑らかな挙動。


 通常の一歩ではあり得ない距離を進みながら、それが目にも止まらぬ速さと塵一つ舞い上がらない穏やかさで行われている。


 人体構造も物理法則も無視したような動きは明らかに尋常ではなく、それでいて舞踊の足運びを思わせる優雅さがあった。


 昧弥は右手に煙管を持ち、灰を落とさない器用さまで見せながら不可視の砲撃を潜り抜けていく。

 音もなく迫りくるその身のこなしは、人の域を超えたカルマを行使する覚者かくしゃからしても、理解の範疇を軽く超えるものだった。



「――近づけるなァアァアアアッ!!!」



 それは激ではなく、悲鳴だった。


 昧弥が進む先、廊下の突き当たりに生徒たちが一塊に陣取っている。クラスの半数近くがその場につどっていた。

 誰が中心となり組織したわけでもない。ただ『死にたくない』という一心を同じくしたことが、彼らを烏合の衆から一所ひとどころに向かって邁進する群へと昇華させていた。


 ――しかし、蟻が群れたところで巨獣の相手になるはずもない。


 不可視の砲撃だけではない。昧弥が有効射程距離位に入った瞬間、火球が、ガラクタを寄せ集めた鉄球が、統一性の欠片もない砲弾が雪崩のように襲いかかる。


 しかしそれらの内一つでも、昧弥の羽織にすら掠ったものはなかった。


 昧弥はその不可思議な動きだけで、死の雨の中を傘もささずに突き進む。



「近づかれたらお終いだッ! それまでになんとか……ッ!?」



 すでに懇願にしかなってない、その悲鳴は――叶えられるはずもなかった。



「――随分と気の利いたじゃないか。下作ども」



 僅か五歩。

 彼らの元に辿り着くのに要したのは、たったそれだけだった。


 約七メートルの距離を空け、昧弥はゆったりと紫煙を燻らせて睥睨する。

 その目は、見世物小屋の贋物モドキを前にしたときのように細く歪められていた。



「安心しろ。畜生以下の貴様らがこの短い間に礼儀を身につけ、挨拶ができるようになるとは思ってない。

 そんなことを期待するほど、私も酔狂ではないさ」



 嘲り、大げさに肩を竦めてみせた昧弥は、羽織を緩やかになびかせて歩みを再開させる。先程までの常識外の足運びではなく、ただ悠々ゆうゆうと。


 歩幅を一歩ずつ確かめるような足取りは、その緩慢さ故に、臓物に直接手を突き入れられるような生々しい死の感触を、恐ろしいほど鮮明に感じさせた。



「むしろ驚いたくらいだ。私が焚きつけたとはいえ、自ら地獄へ飛び込んでくるとはな……。あのイタリア人の夢想家ロマンチストが、地獄の門になんと書いたか知っているか? 『一切の望みを捨てよ』だ。

 ――つまり、神も仏も在りはしない。祈る必要はないぞ」



 両者の距離はいよいよ五メートルを切った。


 独り言すら聞き逃しようのない間合いに、もはや悲鳴を上げる必要はなく。彼らの恐怖は、ヤク切れを起こした中毒者ジャンキーより分かりやすく、昧弥へと伝わっていた。


 しかし、先程の砲撃を繰りだせば、距離の離れていた数分前までよりは確実に一撃を叩き込める可能性があるだろう。


 不可視の砲弾、火球、ガラクタの寄せ集め。


 それらがどのようなカルマで動いているにせよ、至近距離であの威力をくらえば人間の体など挽肉ミンチになるのは間違いない――致命的だ。


 だが、彼らは動かない。


 恐怖に縛り上げられた体は、容易に動くことを拒絶して、ただゆっくりと迫ってくる絶望に震えるしかなかった。


 ……いや。正確に言えば、そうとしか見えていなかった。



「なに、殺しはしない。道祖やつとの約定もあるしな。ただ死ぬ方がマシなだけの――」



 故に、避けようなどとは端から思考に浮かびすらしていなかった。



「――ッ!?」



 前触れなく昧弥を襲ったのは、地鳴りと暗闇だった。


 ――罠か。


 瞬時に誘い込まれたことを悟り、視線を走らせるも、周囲に広がるのは一筋の光さえ通さない純粋な闇。しかも、手足を伸ばせばすぐに行き詰まる窮屈さ。


 ――これは石壁せきへきによる囲い……閉じ込められたか。


 素早く自身の状況を判断し、即座に行動を起こそうとし――、



「やれぇッ!!!」



 それよりも早く、頭上の天井が崩壊し、凄まじい量の瓦礫が豪雨のごとき勢いで降り注いだ。


 視界の利かない昧弥は為す術なく、人を圧し潰すのに十分な重圧によって瞬く間に生き埋めになる……はずだった。



「――で? 次の策はなんだ?」



 生半なまなかな銃弾では歯牙にもかけないほど堅固なはずの石壁は、幼子が砂山を一踏みで崩すような容易さで呆気なく蹴破られていた。



「そ、そんな……」



 絶望に掠れた呟きが、誰の口ともつかず漏れでていた。

 だが、それも仕方ないことだろう。


 穏やかさすら感じさせる仕草で肩についた埃を払い、身なりを整える昧弥には、掠り傷一つなかったのだから……。



「……なんで……どうして……」



 崩れ落ち這い蹲り、あるいは腰を抜かして座り込み、目の前で起こった現実を拒絶するように弱弱しくかぶりを振る。


 血が滲むほど大きく見開いた瞳の内で、力なく広がった瞳孔が小刻みに震え、定まらない焦点が宙を彷徨う。


 そこに浮かんでいるのは純然たる絶望。


 眼前にたたずむ現実を受け入れるには、彼らはあまり弱すぎた。


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