13話


 口を半開きに呆けている道祖みちのやから昧弥まいやは視線を外し、ここではない、どこか遠くを眺めるように、憐れみに目を細めてゆっくりと煙管キセルを吸った。


 チリチリと葉の焦げる微かな音が鳴る。


 天井に向かってたなびく煙を眺めながら、昧弥は誰に語るようでもなく、独白めいたその言葉を煙の中に遊ばせた。



「夢を語るのは、いつの時も現世うつしよにある者だ。彼らは夢を、生きる活力や未来への希望などと口にして憚らないが――夢とは、過去に描いたまだ見ぬ幻想であり、現在いまが見せるすでになき郷愁の憧憬だ」



 そこに嘲りや憤りはない。それどころか深い慈しみさえ滲んでいるように感じる。


 あまりに場違い。何より、今この瞬間にも地獄を作り続けている当人の口から出ていい言葉ではない。

 だが、虚飾は見えず、むしろここにきて初めて昧弥と向き合うことができている、そんな気さえ道祖はしていた。



「それは無垢で、美しく、誰もが手を伸ばさずにはいられない……そんな眺めだろう。――だが、過去に囚われた妄執には違いない。

 欲望の起点が現在にないということは、それだけで唾棄すべき怠慢だ。真に望むべき未来さきとは、過去などという蒙昧に預けるべきではない。

 確固たるしるべを立て、明瞭な意志によって引き寄せ、今この瞬間の己の手によって掴み取るべきものだ。断じて余人が立ち入って良いものではない。

 ――たとえ、それが過去の自分自身であっても……」



 夢などと言ってくれるな。そんな儚いものではない。

 これは、自らの足でわだちを刻み、全霊を賭けて挑むべき、大志さだめのだから――。


 闇に塗り潰された昧弥の瞳の奥で火花が散ったように見えた。いや、もしかしたら闇だと思っていたそれは、太陽すら飲み込む闇よりなお暗い炎なのかもしれない。


 そんな世迷いごとが脳裏を掠めるほど、昧弥から溢れる熱量は道祖を焦がしていた。



「だが――」



 昧弥は眩しさに目を細めるように、ゆっくりと目蓋を閉じた。瞬間、その熱も幻想であったかのように、微かな陽炎ゆらぎも残さず、跡形もなく消え失せていた。



「過去の重ねこそが今だと言うならば……過去を見捨て、うつつから外れた私たちが紡ぐ未来さきが、いったいどこに繋がるというのか……。なんとも滑稽だとは思わないか?

 夢を不要と断ずる私より、夢に囚われる者たちの方が地に足をつけて生きている。これが嗤わずにいられるか? なぁ――道祖夕里みちのやゆり



 ハッと、唐突に目が覚めたかのように、道祖は現実に引き戻されていた。

 目の前に広がる地獄は何一つ変わっていなかった。いや、むしろさらに色濃く、悍ましさを増して部屋を蹂躙している。


 一瞬とはいえ、完全に気を抜いていたのだ。なんの用意も気構えもなく正対できるほど、この地獄は生温くはない。慌てる間もなく、道祖はその惨たらしい空気に飲まれていた。


 はらの中身がすべて溶け落ち、口から溢れ出ようとしているかのような吐気。肺、胃、食道。隙間なく植えつけられた毒虫の卵が一斉に孵り、体の内側で蠢き、貪られているような怖気。


 一瞬たりとも耐えられるはずがない。この惨たらしい恐怖から逃れるためならば命など……!


 ――カンッ


 腹を裂き割ろうとした、その瞬間、硬い物を打ち鳴らした音が響き、道祖は正気を取り戻した。



「――だが、やはり不要なものだ。人は藁にも縋ると言うが、いずれ溺れると分かっていながら手放さないのは、愚者ぐしゃのあり方だ」



 ダニアが差しだした灰皿に煙管キセルを打ちつけて灰を落とし、昧弥は口を歪めて笑った。



「ならば、溺れるにしても欲の方がまだ幾分かマシというものだ」



 そう言い残し、昧弥は断りもなく立ち上がって道祖に背を向ける。



「用は済んだろう? 私は帰らせてもらう」



 返事を持つことなく、昧弥は踵を返し、ダニアが先んじて開ける扉へ歩を進めた。



「――ああ、最後に一つ。忠告だ」



 はたと、今思いついたように足を止めた昧弥が肩越しに道祖へ視線を向ける。

 瞬間、先程までとは比べ物にならない怖気が部屋を埋め尽くした。



「私もこんなナリだが女でな。覗かれるのは趣味じゃない」



 ――次はない。



 言外にそう言い放ち、昧弥は部屋を後にした。


 扉が閉じ切った瞬間、道祖は机に体を投げだすように崩れ落ちる。


 全身から噴きだす冷や汗に身を震わせながら、監視カメラの私的流用は控えようと心に決めて、静かに涙を零した。


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