さよなら風たちの日々 第11章ー6 (連載37)
狩野晃翔《かのうこうしょう》
第37話
【13】
「ヒロミ、どうしたんだ。こんな時間まで」
男はそう言いながら近づいてきた。そして男はぼくとヒロミを交互に見ながらぼくを指差し、「こいつ、誰」とヒロミに訊いた。
「高校のときの、先輩です」
ヒロミが蚊の鳴くような声で男に答える。
ぼくはこの
「マリちゃんから訊いてんだよ。最近ヒロミの所に、男が来てるって」
男はヒロミにそう言ってからぼくに視線を移し、「おまえ誰」と訊いてきた。
ぼくは相手が年上でもあるし、その男の正体が分からなかったので、低姿勢で自分の名前を名乗った。
男の目が少し赤い。かすかに酒のにおいもするので、酔っているのかもしれない。
「この人、誰なの」
今度はぼくは声に出して、ヒロミに訊いてみた。
ヒロミの目が、いつのまにかうるんでいる。そしてヒロミは下唇を突き出し、何かに耐える顔になって黙り込んでいる。
ぼくはその顔に見覚えがあった。初めて出会った体育館での身体測定。そのとき見せた顔を今、ヒロミはこの男の前で見せているのだ。
ややあってヒロミは、ようやく口を開いた。
「一緒に、暮らしている人です」
何。一緒に暮らしている人だと。
ぼくは心臓に何か突きに刺さるような感覚を覚えた。
何だと。この男は今、ヒロミと一緒に暮らしている男だって。
ぼくは喫茶店ポールで、実質上のオーナーであるヒロミの父親を見たことがある。小柄で小太りだけどガッチリした身体つきをしていて、おまけにベレー帽をかぶっているので一見、芸術家のような風貌だ。だから目の前の男は年齢からみても、ヒロミの父親であるはずがない。ならば兄か。いや、ヒロミはひとり娘だ。だからこの男が兄であるはずもない。
「ヒロミ。おまえ、もしかして、結婚してるの」
ぼくは震える声で、突如頭に浮かんだ疑問を口にした。
ヒロミはぼくを見据えたまま、涙をこらえている。
これだ。この顔だ。この顔はヒロミが初めてぼくに見せた、涙をこらえている目だ。
嘘だ。冗談だろ。冗談だって言ってくれ。ぼくは叫びたい気持ちになった。ヒロミの身体を、揺さぶりかけたい衝動に襲われた。
ヒロミは相変わらずぼくを見据え、黙り込んでいる。そしてその沈黙が、その言葉に嘘、偽りがないことを物語っている。
今度は男が言った。
「おい、おまえ。どこの馬の骨だか知らないが、おれの女にちょっかい出すんじゃねえぞ。殺すぞ」
そうして男はぼくに近づき、ぼくの胸ぐらをつかんでぼくをソファーから立たせた。
剣呑な雰囲気だ。一触即発と言ってもいい。
ぼくはみずからケンカを仕掛ける男ではない。しかし胸ぐらをつかまれて、黙っている男でもなかった。
相手に胸ぐらをつかまれたとき、それに対処するには、いくつかの方法がある。
そのひとつは相手のつま先を踏みつけ、体当たりするのだ。そのとき身体は同時に倒れるから、倒れ際に頭突きを当て、
もうひとつは、胸ぐらをつかんだ相手の腕を両腕ではさみ、外側にひねりながら押し倒す。あとは接近戦なので、頭突きか肱打ちが有効だ。
素人同士のケンカは、だいたい1分くらいで優劣が決まるか、つかみ合ったままの膠着状態となることが多い。だからもう殴り合いは避けれれないと判断したら、腹をくくって先手を打つしかない。
ぼくは先に相手を倒すするつもりで男の左手を両手ではさんだ。そしてその腕を外側にひねろうとした瞬間、信じられないことが起こった。
「やめてよ。ポール」
ヒロミがそう叫びながら、ぼくと男のあいだに割り込んできたのだ。
しかしヒロミが「ポール」と叫んだのは、ぼくにではなく、相手の男にだった。
ヒロミ、今、おまえは、相手の男を、ポールって呼んだのか。
何だそれ。その瞬間、ぼくの頭の中は理解不能に陥り、真っ白になった。
【14】
以前コンパで、ある女性を巡って男二人が殴り合いのケンカをした、という話を聞いたことがある。動物だったらよくある話だ。戦いに勝ったオスがメスを獲得し、子孫を繁栄させるというだけの話だ。しかしそれが人間だったら、どうなのだろう。女は男二人を争わせ、わたしは勝った方のものよとでも言って、うそぶくのだろうか。たぶんそれは違う。その殴り合いの結果いかんにかかわらず、女は思いを強くしている方につくはずだ。だは、勝手に男同士が殴り合ったらどうなる。女はどっちの男にもイエスと言わなかったらどうなる。考えるまでもない。バカをみるのは男だけだ。けれども男は、そのバカに気づかない。男は何の意味もない矜持のために、おのれを賭す。自分を貫き通す。自己中心な考えに溺れる。あとは虚しさしか残らない、というのにだ。
ぼくの胸ぐらをつかんでいる男は、剣呑な視線を外さないまま、やがて突き飛ばすような感じでぼくから手を離した。
ヒロミは男に哀願した。先に帰っててください。家に帰ったら説明しますから。もう先輩には、ここに来ないよう言いますから。だからお願いです。
ここに来ないよう言います、だと。先に帰っててください、だと。ヒロミはいったい、何を言ってるんだ。
それはぼくにとって、はらわたが煮えるような言葉だった。しかし男はどうやらその言葉に、落としどころを見つけたようだ。
「いいか。おまえ。今度ここに来やがったら、マジぶっ殺すからな。覚えておけ」
男はそんな捨て是ゼリフを残して、ドアを乱暴に閉めて出ていった。
店内に、重い空気だけが残る。流れていたジャズもいつしか終わり、それがまたこの空間を、冷え切ったものにしていた。
ぼくはボックス席に座り直し、落ち着こうとしてコーヒーカップを口にした。しかしコーヒーはもうない。チェイサーさえもない。それに気づいたヒロミが厨房に戻り、新しいコーヒーとチェイサーを運んできた。
そのヒロミはぼくの前の席に座り、ごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝り続ける。
知りたいことが、たくさんあった。訊きたいことが山ほどあった。まず知りたかったことは、相手の名前だ。
「ヒロミ。あいつもポールっていうのか」それを訊く、ぼくの声が震えた。
おそらくヒロミは、それが一番訊かれたくない質問だったのだろう。
しばらく沈黙したあと、ようやくヒロミが答えた。
「あの人が、勝手にそう呼べって言うから、そう呼んでるだけです」
「何がポールだ。あのニセモノ野郎」
ぼくは珍しく声を荒げた。
「おまえ、まだ十九だろ。、十九のくせに、あいつと一緒に暮らしてるのか。同棲してるか。それとも、もう結婚してるのか」
ぼくはまだ、現実を直視できずにいた。またヒロミに男がいるなんてことを、認められずにいた。
「どういうことなんだよ。わかりやすく説明しろよ」
ヒロミは涙目のままでぼくを見つめ、そして小さくつぶやくように、
「あの人は、結婚を前提に、一緒に暮らしている人です」とだけ、答える。
ぼくは言葉を失い、怒りと悲しみと、やりきれない気持ちで全身が震えた。
これはぼくの
ぼくを好きだと言ってくれた女はどんなに月日が流れても、ぼくを思い続けている。ぼくがそこに帰ってくるまで。やり直せる日が来る、その日まで。
だからぼくはヒロミが、今でも自分の女だと思っていた。だから会いに来た。あの頃の延長を続けたいと思った。
けれど現実は違っていたのだ。会わずにいた二年間で、ヒロミは変わってしまっていたのだ。いや、違う。ヒロミのまわりの環境が、変わってしまっていたのだ。それに気づかなかったぼくは、何て能天気なんだろう。
ぼくと疎遠だった二年間のあいだに、ヒロミには結婚を前提とした男ができた。そしてヒロミは今、その男と一緒に暮らしている。すべてが衝撃だった。そしてその男がポールと呼ばれていることもさらに衝撃だった。たとえそれが無理やり「そう呼べ」と言われたことを別にしてもだ。
くそっ。やつのどこがポールだ。ちっとも似てないじゃないか。
しかしヒロミの秘密は、それだけではなかった。まだ秘密があったのだ。そしてその秘密を知ったぼくは、もう二度と立ち直れないほど、打ちのめされてしまうのだった。
《この物語 続きます》
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