12頁 汝、我を信ずれば囚う心を救い給う

 渾沌そのものだった。


 まず見たのは色。煉獄の炎と亡者の血の煌めき、極寒の静止と死者の澱み、極地に存在するふたつの地獄の色。それを包み隠すように、その身の大半を覆った鎮魂の森の色。


 また口を見た。身近だった生物の名を挙げるとすれば、まるで鍬形ノ蟲の如く。顎の側面に広がる大きな黒甲牙、その奥の口からは怒りを示すような無数の白牙が生えていた。


 巨体を支える前腕。大きく発達しており、筋肉の付き方が霊長類である人間のようで、しかし岩山ような。その上から甲殻類のような甲皮に覆われている。


 手足を見る。猛禽ノ鳥のような、蟷螂ノ蟲の鎌のような、独特で大きな鉤爪。

 鰭や鰓のついた首は少し長く、尾はしなやかに動き、その先端は無数の鋭利な針が層状に毛立っている。蠍や蜂の毒針の恐ろしさを想起させた。


 翼を見る。蝙蝠かわほりの如き翼膜に薄く蝶の翅模様の羽毛を生やした禍々しい翼はブレード状にも見え、第三の腕として大樹の太い枝を掴んでいる。


 そして、地獄を具現化したような赤黒い眼球。蛇のような縦長の瞳孔。鋭く、赤の虹彩は心の内を業火で溶かさんばかりに熱く、しかし身を凍らせるほどの悍ましい瞳。狡猾で残忍、そして獰悪。だが、それはどの宝石よりも赤く、美しいものだった。


 その混沌の甲殻を持つしなやかで堅牢な肉体は、どんな力でも決して貫き通さない覇気を漂わせていた。


 その数多の昆虫や猛禽類、魚類、霊長類……獣のみにとどまらず、宝石にも分類される鉱石の一部にまで模している異形の龍は、その巨体をアマツメの大樹の太い幹から枝分かれしている部分に居座り、その蛇の目で舞い踊り続ける私をただ見つめ続けていた。


「……っ」

 周りの様子を窺う。


 ……誰も気づいてない? どういうこと!?


 お父さんも国軍も他の人たちも……どうして。

 目の前の大樹に居座っていて、あの巨体で威圧感を放っているのに、誰も目もくれないなんて。集中しすぎて周りが見えていないのもおかしい。見えていても、敢えて無視しているのもおかしい。

 あんな龍を見たら必ず攻撃対象にするはずなのに、どうして気が付かないの?


「……っ」

 でも、あの龍から襲う気配はない。


 ただ見ているだけ。どういうこと?

 そもそも……あれはなに?


 羽衣を翻し、翼の如くふわりと舞わせては身を回転させる。

 もう一度大樹の上を見てみる。

「っ!?」

 龍の姿は忽然と消えていた。まるで、幻覚でも見ていたかのように。

 この儀式に関心を示さなくなったように、もう二度とその渾沌が姿を現すことはなかった。


     *


《サクラ》


 龍の舞踊は終わった。そして礼式を終えたあと、恒例のアマツメ参りが始まった。国民がその大きな社に願いを込めて祈り、出口へと進んでいく。しかし、この時の記憶ははっきりいって覚えていない。王宮で宴が終わったあとまで、記憶がなかった。


 私はあの異形の龍のことで頭がいっぱいだった。私だけしか目撃していない異物。


 あれはいったい何なのか、気になって仕方がなかった。

 恐ろしい。本能的な何かがそう訴えかける程。

 だけど、同時に魅了された。警鐘する本能と、知的好奇心の葛藤。疑問に思わせ、知りたいという欲望が脳の中で暴れまわっている。これ以上関わってはならない。わかってるはずなのに、あの龍は人を惹きつける何かを持っている。

 それだけじゃない。あの声は。あの眼は――。

「……知りたい」


 嗚呼、知りたい。知りたい、知りたい……っ!

 知りたい!!!


「――サクラ王女っ」

 ウォークの声が私の脳内で鳴り響いた。好奇心という狂気に近い欲求はその声で消えてなくなった。


「……え?」

「どうされました? もしかして、聞こえていませんでした?」


 気がつけば、心配そうなウォークの顔が目の前にあった。

「ああ、ごめんね。ぼーっとしちゃってた」

 たはは、と笑って返す。でもウォークは心配そうなままだ。

「お疲れになっているのですか?」

「う、うん、まぁ……ね」


 目を逸らす。世話焼きな彼はさらに心配し、じっと私の目を見つめた。

「何か、あったのですか?」

「ううん、何も……」

 ちら、と目を合わせ、すぐに逸らす。あまりに真摯に見つめるからちょっとどきっとしてしまった。

「そうですか……あ、もう10時を過ぎますね。では、私はこれで」

 少し気まずくなったのだろうか。そのような表情になったウォークは、私から離れ、銀の腕時計を見ては、「おやすみなさいませ」と告げた。

「うん、おやすみ」


 ウォークは王女室から出て行った後、私はベッドに身を倒す。疲れていたので、このふかふか加減がすごく気持ちよく感じる。枕に顔をうずめた。


「はぁ……」

 浅い溜息をつく。再びあの龍の姿が頭の中に浮かぶ。その龍について思考を巡らせていると、ある人物の一言が頭を過った。


 ―――災龍は実在する。


 もしかすると、いや、それ以外考えられない……。

 絶対にあの龍は「災龍」だ。あの虚無の伝説を私ははっきりと見たのだ。

 でも、ただ見ただけで終わるわけにはいかない。その存在の根本まで突き止めなければ。


 そのためには。

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