序章 紡ぎの先、すべては一冊の図書に。

1頁 夏の日、紡ぎの声に埋もれた場所で


「その細い道をまっすぐ行って、つきあたりを左に曲がればいいのさ」


 母の知り合いの堀澤おばさんは言った。「神社が見えたら、あとは一本道をずっとまっすぐ進むだけでいい。図書館はその先だからね。迷うことはないと思うし、図書館ついでに近くの町もぐるっと見てきてごらんよ」うなずいてはお礼を言うと、おばさんは微笑み返し、家の中に戻った。


 夏の日差しの中。奏宴かなえは滲む汗を袖で拭い取り、石段を登った。そこまで段数はなく、すぐに最上段に到着し、振り返る。


 空気には潮の香りが漂っていた。どこからともなく、海鳥の鳴き声が聞こえてくる。船着き場には小型のボートが何艘なんそうか係留されていて、潮の流れにゆったりと揺れていた。都会にずっと住んでいた奏宴は別世界にさ迷いこんできたような気がした。ボートと、海鳥と、とてつもなく広い空があるだけの、遠く離れた静かな世界。


 いまはとても自由な気分だった。自由でいて、どこかうつろ。誰とも話さなくていいし、何も気に掛ける必要はない。周囲にはほとんど人がいなかった。ちょうど自転車に乗った農夫がひとり、こんにちは、と言って奏宴を追い越していった。おどろいた表情をし、返事を返そうと振り返るよりも早く、もう遠くにいってしまっていた。


 奏宴は前を向き、人の少ない港町の外れへと歩いて向かっていった。潮のにおいが掠れてきたところで、手入れのされた、誰もいない神社を通り過ぎた。


 少し進んだ先に錆びついたバス停がぽつんとあった。その先は田畑一色。ぽつりぽつりと農家があり、地平線には深緑の山がどっかりと鎮座している。


「……3時間待ちか」


 歩いていった方が早いだろうと、奏宴はバス一台が通るほどの幅がある道を見つめる。じりじりと照らす日差しが奏宴を焦らす。途方に暮れた目をしては、重たい足を前へと運んだ。


 ここに来たのはいつぶりだろうかと、奏宴は小さいころを思い返していた。青く伸びた稲。多様な音色の蝉の声。慣れない暑さが、じりじりと肌を傷める。それをなにも遮ることのない風が、やさしく撫でてくれる。もう小波さざなみの音はすっかりと消えていた。振り返っても、同じ緑の景色が続くだけ。


 何も変わっていない。それでも、どこか記憶と違う感じが奏宴にはあった。景色そのものではなく、自分自身の見方が変わったのだと瞬時に気づく。


 コンクリートではない、土の道路を進み続ける。自転車に乗った、制服の長ズボンと半袖カッターシャツを着ている3人の男子高校生が並行して、奏宴の横を通り過ぎる。うるさいぐらいに楽しげに話し合っていたのを無表情で一瞥し、再び前の果てしない一本道をつまらなさそうに見つめた。


 あれかな……。

 ぽつりと見えた3階建ての古い建物。ここからでははっきりとみえない。風で稲穂が擦れる音を聞き流す。ふと見上げた青空は快晴。にわか雨すら降り出すことはないだろうと思えるほど、いい天気に奏宴は少しだけうんざりした。「少しだけでも曇ってくれないかな」と心の中でつぶやく。


 一羽の鳶とびが上空で鳴く。笛のような響きに懐かしさを思い出す。忙しない毎日が嘘だったかのようだ。あまりもの静けさにつまらなさを感じつつも、心は穏やかだった。癖になっていた考え事。それが今ここに来て、呆然としたかのように何も考えていない。


 周囲を見眺めつつ、奏宴は耳を澄ましていた。田畑と空に広がる静かでおおらかな空虚さを、胸いっぱいに吸い込んでいた。その空虚さは、自身の胸にひそむうつろさにも通じているよう。似た感覚が記憶のどこかにあった。


 奏宴は買い直した携帯端末のマップ機能を開き、目的地を確認した。画面にではなく、立体的に空間に映し出される電子地図。慣れた手つきで操作し、目の前の建物と地図に映る航空写真とを見比べる。


 あちこちで見かけた瓦の軒と同じようにぽつりと建っていたそれは、大きく、古めかしく、方形の館。長いレンガ塀に囲まれ、雑草の生えた土手沿いに伸びている。小さな窓がたくさんあって、どれもがこちらを見つめているようだった。人の気配はないにもかかわらず、だれかに見張られているような気がした。


 この館をはじめてみた人ならば、ある日ひょっこりとあの海を渡ってきて、この静かでおおらかな空と緑を見渡して、気に入ったかのようにここに座り込んだのかと思ってしまうだろう。違和感があるだろう異文化な館は、奏宴にとってはなじみ深いものだった。地図で確認せずとも、わかるはずだった。


 日が昇り、降りるくり返しを見守っている、物静かな雰囲気を夢の中でおぼろげに浮き沈みするように漂わせていた館。塀を過ぎ、立てかけられた古い看板を一瞥する。『八千尾町立鳴園めいえん図書館』。奏宴の祖父母が経営している場所。そして、物心つく前から住んでいた実家だった。


 入り口に踏み込み、石段に足を乗せる。両開きの入口の扉を開けるが、立てつけは悪くなく、軋む音は奏宴の思っていたほど高く響きはしなかった。


 都会ではほとんど感じることのない古めかしい埃くささ。道中で見かけた神社よりも手入れは随分と荒っぽいようだ。


 外観から見れば、その建物は然程大きくはない。都会の図書館の方が大きいといえる。しかし、内部に一歩踏み込んでみれば、目の前に広がるのは見渡さんばかりの大空間。本棚という本棚が壁や通路を支配し、建造物の一部として機能している。当然、その中にはぎっしりと書物が詰まっていた。天井は高く、見渡しきれない書架の壁に圧倒されていた。


 何より、静けさという耳に捉えられない音が張りつめている。外の静寂とはまた違った鎮圧。沈黙とも表現できる。張りつめたような、しかし懐かしみもあって、心を落ち着かせる不思議な空間。奏宴は扉を閉め、奥へと進む。


 窓掛けの隙間から細く入り込む光が木漏れ日のように差し込んでいる。宙を舞う埃に反射し、より光と闇の境界を強調している。やさしい光。それとは裏に、唸る獣が潜むかのような闇も同じ部屋に存在する。


 染みと色褪せ、年経た紙のにおいに満たされた館内。いくつかの通路を挟み、長く延びる書架。途中で連なり、交差する通路。妙な奥行きを感じさせるのは小さい頃から変わらない。迷宮だとあのころの私は言ったっけ、と奏宴は懐かしむ。


 祖母が言っていた。「図書館は魔法の世界。いつになっても、この静けさは母の胎盤の中を思い出させるの」


 私たち書を読む者の振る舞い次第で、図書館は無限の知識と静寂を与える神にも、厳かになり、書を加護する悪魔にもなる。そう教わった。


「……あ」

 手を伸ばしても届かない場所に置いてある本を取るための梯子に、腰を降ろしながら本を読んでいる、丸顔の、背丈の高い老人。あれが喜一きいちおじいちゃんに違いないと思って、奏宴は近づいていった。


「おお、いらっしゃい。こんなところまでよくきたねぇ。無事についてよかったよ」

「ひさしぶり」と微笑む。「いつもこんな感じ?」


「わかってることを聞くもんじゃないさ。そこで休んでいなさい。暑かっただろう」

「私の住んでる所よりはね」と肩を竦める。


 喜一は軽く笑う。「でも風が気持ちよかっただろう。いま茶を出してくる」

「あ、じゃあその間におばあちゃんにお参りしてくるね」

「ああ、いってらっしゃい。車には気をつけるんだぞ」

「こんな田舎じゃほとんど通ってないでしょ」


 図書館の近くの一本道の途中に墓地がある。近くの村のご先祖様のお墓は緑色に燃え上がる、まだまだ青い田畑に囲まれている。緑の海に浮いた島のようだと奏宴は思い、墓地へと足を踏み入れる。すがすがしい風がお墓に添えられた花を揺らす。


 ひさしぶり、おばあちゃん。元気にしてた?


 心の中で奏宴はお墓の前で話しかける。親しかったおばあちゃんとの思い出。いろんなお話を聞かせてくれた。その大切な記憶は鮮明に覚えている。

 息を大きく吸う。憐れむ表情にもみえる顔で、その墓の向こうにいる祖母を見つめている気分だった。流れる稲穂がさびしげに囁く。 


 またくるね。


 花を添えては、その場を後にした。



「去年や一昨年は里帰りに来なかったのはどうしてなんだ。なにかあったのか」

「知ってて訊いてるでしょ。それともボケた?」

 奏宴が冗談めかして皮肉を言うと、喜一は今までの中でいちばん大きな声で笑った。


「冗談でもないことを言うんじゃない。これでも医者には健康体だと顔を青ざめながら言われたほどだ」

「私より健康かもね」とつぶやく。それは聞こえなかったようで、喜一は話を続ける。

「まぁ、奏宴がこう元気な姿で会いに来てくれた。昔に何があったとしても、今はそれだけで十分だ」


「……ありがとうね、おじいちゃん」

 すこし意外な顔をした。そして奏宴は感傷に浸る声でそっと伝える。

「じいちゃんは孫の元気な顔が見れればそれでいい。昔は昔だ。気にすることはない」

 そう言ってはにこりと笑う。抱えていたものが一気に手放したように軽くなった気持ちは、心地が良いものであった。


「せっかくだし、ここでゆっくりしていったらどうだ? 最近新しい本や資料を取り入れたんだ」

「そうなんだ」と腕時計型のウエアラベルを見る。昼過ぎのまぶしさが図書館の中を明るくさせる。照明を使う必要がないほどだった。


「じゃあ、そっちでゆっくりしてからここの本でも読もうかな。一晩おじいちゃんの家で泊まってもいい?」

「もちろんとも。奏宴がくると聞いて、わざわざ美味いもん買ってきたんだ。帰ってもらっちゃあ困る」

 そういっては笑う。奏宴も「ありがと」と微笑んだ。

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