恋の花

 花は舞妓まいこよりも華やかに存在を示す。

 示された存在の華やかさは絶対的であり、斯かる事態は花の定義により明示されている。花とは、私のことで、私に恋する彼らは花になりえぬものたち。

「――――」

 言葉にならぬ言葉たちは、今にも殄絶てんぜつしようとしているが、私は言葉としての言葉を花ならぬ者たちへと投げかける。彼の者たちを「不花」と呼ぶ。


「不機嫌な顔して どうしたのって眼を逸らしちゃって 思い出しながらにやけちゃう。お気に入りのワンピース 似合わないなんて言わないで たまには甘くしてよ――ビターチョコ 君に似てる」


 熱を帯びた光線と熱のない光線が空気を楽器とするよう規則的に揺れて、魔法にかけられたように、或いは寧ろ、魔法をかけるようにその手に握る杖を振る。相互に交わされる魔法が一種の緊張と昂ぶりを与えると、そこには自我を飛越した快楽が待ち、この身体に情報を伝達する。

 以前、こんな情報をネットで見たことがある。音楽によって得られる快楽は薬物と同等のものであり、脳の内部ではいわゆる快楽物質――ドーパミン――の分泌が促進されているのだと。ああ、きっとその通りだって思う。


「君のこと もっとたくさん知りたいな 新規開拓 趣味の共有 そういうのって素敵でしょ 君にもわたしを知ってほしい」


 オスカー・ワイルド曰く、音楽とは涙と記憶に最も近い芸術なのだという。実際、音楽によって感動し涙を流すという人間は想像に難くなく珍しい出来事ではないが、絵画だけを見て感動して涙を流す人間は稀有ではないかと思う。


「甘いもの好きなのが可愛いねって きっと怒られるけど パクってビターチョコ 食べてあげると 呆れて口を拭いてくれる 甘くて苦い愛しさ 君に伝わってるかな」


 それならばこそ、彼らの熱狂ぶりは当然の理であり、このわたしに見惚れてしまうのは避けられなかったろう。そうして、雌蟷螂エムプサのような狡猾さを以て、魅了された者たちが身銭を我が身へと捧ぐよう唆すのだ。わたしにはその資格が有るのだから。

「みんなっ、今日は観に来てくれてありがとう! これからも、わたしのことだけ視ていてくれるよね?」


 問いかけには逡巡なく「もちろんっ!」と示し合わせたように声が響めく。甘美な心地は夢見心地ながら、どこか客観的で文学的な視座はなりを潜めて、次第に我が物顔の少女が主張する。わたしは此処にいる、わたしのことをもっと視てくれと主張する。

 ああ、この幸せな時間が夢ならば、どうか醒めないようにしてください。という願いは、今日もやはり叶わなかった。


「ああ、しんど……」

 良い夢を見たあとの現実は、いつだって骨身に染みる。なんつってる間に七時、あ~あ、高校生の辛いとこよね、これ。


   *


 世間一般からして、高校生というのは呑気に世の中を謳歌している存在として認識されている節がある(ような気がする)けれど、実際には学生なりに艱難辛苦も多々あるものだ。先に控えている試験勉強、委員会活動、進路、就職活動、就職後のキャリアプランに老後の資産運用等々。考えるだけで憂鬱になる。とはいえ、『艱難汝を玉にす』という俚諺りげんがあるように、苦難がなければ人間は怠惰と無気力に侵されてしまうから程々の憂慮は必要なのだろう。もっとも、苦労の押し売りなんてまっぴらごめんだが。

 現今の若者には現在に胡座をかいて時を浪費する余裕もあまりないというのは既に常識ではあるが、斯かる事態への危機感を持つ学生は僅かだろう。それもそうだ、将来への希望がなさすぎて考えると病みそうなのだから考えたくもなくなる。人生にはもっとアイドルタイムが必要ではなかろうか?

 しかし、人間は考える葦だと偉い人は言う。加えて、この国はあまりに娯楽が多い。今後、この娯楽に満ちた国で趣味も満足に為せず生きるのは、わたしにとってあまりに辛いことだった。ゆえに、趣味を仕事にすることを試みて、わたしは今、ネット世界でそれなりの成功を収めている。思っていたものとは異なるが。現状、偶像として大成するという真の理想が現実化する公算は限りなく小さいのは言うまでもないけど、常に世知辛いこの現実においては幸運な方だろう。

「おはよー、昨日も面白かったね」

「あら、おはよう。なあに、またユキちゃん?」

 ユキちゃんとは最近少しずつ人気を得つつあるVirtual Streamer(Vスト)のことで、正式な活動名義は『橋姫はしひめ悠希ゆうき』という。基本的には可愛らしく癒される声を利用したASMR配信や雑談枠・歌枠が中心で、視聴者に対してもとにかく優しく甘く接するキャラクターだった。少なくとも、一ヶ月前は。

「そうそう、新参だから詳しく知らないけど、絶対今のが面白いんだよね。我慢しようとするけど、苛ついてつい台パンするところとか、慌てて誤魔化すあざとい感じとか、可愛いよねえ」

「わたしは前のスタイルもよかったと思うけどね。ところで、期末の結果はどうなの? あれだけわたしがノートをまとめてあげたんだから、少しは改善したんでしょうね?」

「おいおい、赤星あかぼしさんさあ、これから夏休みってときにかったるいこと思い出させんなよ。そりゃあ少しは改善したよ、ああ、あたしにしてみりゃ劇的な変化よ」

「で、具体的な点数は? はい、まず数学」

 壊れた機械みたく、奇怪な調子で首を第一象限へ傾く。

「あーどうだったかな……ほら、過去なんて今に比べれば大して重要でもないからさ、大事なのはこれからどう生きるかだと思うんだよね」

 ちょっと、苛々するところがあるこのはしかして歩調をずらす。わたしが本質的にオタクであることを知る唯一の同級生は、いわば協力者であった。

「有田さんが頑張らないと、わたしの借りが返せなくなるじゃない。もうちょっと真面目に取り組みなさいよ」

「いや、留年回避できたことについては感謝してるけど、そこまでしなくてもさ……優等生になりたいなんて頼んでないし、約束はちゃんと守ってるわけだし」

 隠れオタクであることを誰にも明かさない代わりに、学業の手助けをする。これがわたしたちの交わした契約、というより口約束だった。正確には、有田さんが「内緒にしたいなら黙ってるよ」と言ってくれた好意をふいにして、わたしが一方的に交換条件を持ち出したのだが。

「はあ、怠惰な人間って見ていてなんか苛々するわ。それより、さっきみたいな話はもっと人がいないところでしなさい。バレたらどうすんのよ」

 怠惰はひでぇな、とでも言いたげだったが気にも留めなかった。確かに苛つくところはあっても、有田さんはなんというか、いわゆる気持ちのいい奴だから冗談を真に受けて空気が凍ることもないし、居心地は悪くない相手なのだ。

「まあまあ、今は誰もいないじゃん。てかさ、なんでそんなに隠すん? 別に今時珍しくないと思うけど。教えてくれたアニメと漫画とVストも面白かったし、こっちの赤星さんのがわたしは好きだけどなあ」

「好かれたくて趣味やってるわけじゃないのよ。生きるために皆んな必死になって、そんな人生の間隙に癒しの趣味があるんだから」

「なんか、大人びてるんだね。あたしにゃ無理ですわ」

 そうだ、橋姫悠希だって好きであんなキャラを演じていたわけじゃない。当初のキャラクター性は演戯であって本質ではなかったが、今では猫を被っている腹黒くて計算高い女、に見えてどこか悪者になりきれないポンコツ女という印象になってしまった。些細な出来事を契機に露呈した本質は、意味不明なことに埋もれていた彼女を人気者に仕立て上げるに至った。

 大人びているのではない。皆んな知らず知らずに大人になってゆくのだ、勝手に、そうならざるを得なくなるのだ。

「いやーしかし、こういうのを沼に嵌ると言うんだね。うん、いい表現だ。インターネットの人たちってこう、センスのあるやつ結構いるよね」

 彼女をこのわなへ嵌めたのは、他ならぬわたしだった。決して趣味を共有したいとか仲よく楽しくアニメトークしたいとか感情論で布教したわけではない。あくまで裏切られないよう、こちら側へ引きずり込んでおくのが得策だと判断しただけであり、この論理的かつ理性的な理由以外の理由など一切ないのである。

「夏休みだけど、予定がないなら一度わたしの家に来なさい」

「んーと、予定はこれといってないけど、なんか招待してくれる感じ?」

「どうせ課題やらなくて月末に大焦りするでしょう、わたしが見てあげるって言ってるのよ。毎日タスク管理してあげるから、楽しみにしてなさい」

 わたしは心の中で呟く、「お前の次のセリフはやっぱり予定あったかも、という!」と。いつか驚きはッと返してくれる相手ができることを期待はしない。

「はっ、やっぱりそういうことか。面倒くさいけど、一度遊びに行ってみたかったしいいよ。赤星さん、教えるの上手だし」

 なんか思ってたのと違う笑声が返り、心は意想外に揺れた。

「そ、そう……じゃあ、早速放課後に予定立てるわよ。いいのね?」

「オッケー、じゃあまた放課後に会おう! アディオス」

 これはあくまで、誰かに借りを作りたくないだけであって、決して家で誰かと遊んでみたかったとか、自分のコレクションを見せびらかしたかったわけではない。わたしはそんな浅はかではない、真の趣味人間オタクとは自己完結した存在であり、自己満足において充足しているのであり、他者を必要としないものなのだから。


   *


 十年ほど前ならば目新しさのあったVストも今や有象無象に溢れていた。人気者の多くは企業所属のVスト、個人勢で成り上がった者は僅かというのが実情で、新規個人勢が伸びることは絶望的と言ってよいだろう。彼らは、喩え才能があろうと、そも人に存在を認知してもらえる機会さえ中々与えられないのだ。

 しかも、企業勢でさえ安泰というわけではなく、人間社会がそうであるよう実力主義であることは変わらない、それは視聴者数(同時接続数、同接)として現れている(※登録者数よりも同接数・再生数の方が実力を測る指標として適当とされる)。同期のなかで人気格差がはっきりと数字で現れるというのは、わたしには耐え難い屈辱だ。

「しかも、皆んなが求めるのはアイドル然とした橋姫悠希ではなく、もっと身近で親しみやすい、嫉妬深くて不器用な橋姫悠希。こんなことがしたくて、始めたわけじゃなかったのに」

 ちなみに、歌にはそれなりに自信があるしダンスだってずっと密かに練習してきたから悪くないと思う。勿論声も悪くないと思う。だから試しにVストの面接を受けてみたわけだ。憧れたものに近づけると信じて、面白いと笑われる存在ではなく、憧れられるものになれると期待して。それが今では、ゲーム中心の単なる配信者になって、歌は単なる息抜きになっている。

 別にゲーム自体は好きだし、ゲーム配信が嫌なわけじゃない。リリースしたCDも好感触で投稿したMVだって高く評価されている。多くの人に褒め称されて、求められるのは承認欲求が満たされて気持ちがいいし、一部を除き先輩も同期もマネさん(マネージャー)も笑っちゃうくらい親切で環境にも恵まれている。

 ――でも、翻って陰は色濃くなっていった。周囲の眩しさが漸近するに従って仮言命題が同様に漸近するからだ。兎に角、様々な前件で埋め尽くされた被虐的な妄想は時間の浪費だ、思考を切り替え夏休みのことを考えることにしよう。

 当然だが、夏休み中の学生たちに束の間の娯楽を提供するべく、配信は変わらず行われる。明日には今後のスケジュールについて打合せが行われるし、夏には毎年恒例のコミケも待っているし、有田さんの世話もある。

「赤星さん、最近有田さんと仲いいよね」

 モニターみたいに思考が途切れる。

 六限終わり、話しかけてきたクラスメイトに少し辟易としながら、慣れた笑顔を貼り付けて応える。

「実は、有田さんに勉強を教えていてね。少し変わった子だけど、元気で話していて面白いのよ」

「へえ、成績がやばくて留年するとかは聞いたけど、本当運がいいね。赤星さんに見てもらえるなら留年回避なんて余裕だろうし」

 そんなわけないだろと、突っ込みたくなる衝動を抑えて照れ臭そうに微笑んでおく。有田さんが頑張った結果で、自分は少し手伝っただけだと言っておけば、彼女らは勝手にわたしの評価を上げてくれるのだからちょろいものだ。行く行くは指定校推薦で楽々大学合格する予定なので、今のうちに周囲の評価は高めておくのが得策なのだ、我ながら素晴らしい戦略ね。

「そろそろ行くね。今日もこれから一緒に帰るところなんだ、二学期もよろしくね」

「こちらこそよろしくねー」

「今後もよろしくね、副委員長」



 有田さんは間の悪いことに掃除当番だったらしく、わたしの姿を認めると申し訳なさそうに手を合わせて近づいてきた。

「ごめんごめん、掃除当番のこと忘れててさ、先帰ってもいいけどって、なんか機嫌悪そうだね?」

「そんなことないわよ。それより、待っててあげるから早く済ませなさいよ。終わったらノーコン(NonCoden:ボイスチャットツール)に連絡入れて」

 この時、返事を待たずに校門へ向かおうとしたところ、さらに間の悪いことに厄介な相手に見つかり声をかけられてしまったのだが、思えばこれが始まりだったのだなとおもい返す。有田さんのクラスの担任である酢漿かたばみ先生が声をかけなかった世界があるのなら、わたしと彼はどのように生きたのか、不思議と今は知りたいと憶うことはないけれど。

「あ、ちょうどいいところに、土雨とさめ先生のとこの赤星さんよね。申し訳ないとは思うんだけど、ちょっとこの課題を天文部室に持って行ってくれるかな? あの子の相手、どうも苦手なのよね」

 早口で自分の要件だけを捲し立てるこの教師はどうにも苦手だ。だがこれも内申点のため、営業マン顔負けのスマイルで乗り切るしかないだろう。

「はい、大丈夫ですよ。先生も忙しいでしょうし、これも学級委員の活動みたいなものですから」

「そう、助かるわ。まあ、よく考えたら鹿下かのした君って赤星さんとはクラスメイトだものね、うん、これ以上の適任者はいないわね」

 なんて自分勝手な教師だろうか、少しは土雨先生を見習って静かに仕事を全うしてほしいものだ。教師は社会経験がないと揶揄されることもあるが、きっとこういうのがいるからまともな教師と生徒へ累が及ぶのだ。

「ははは、そうですねー。じゃあ失礼します」

 これ以上関わりたくないので早々に立ち去りながら、酢漿の口にした名を反芻する。鹿下緋扇ひせんは確かにクラスメイトではあるが、会話したこともないし会話した人などほぼいない、不良青年と認識されている。不良と言っても授業中にPCを触っているだけで、他人と関わろうとしないので害はないのだけど、とにかく変人なのは確定だった。

 聞くところによると、PC内に授業のノートを作成しているらしく、実際に授業は真面目に受けているのと、成績が良いためにPC使用が許可されたらしいのだが、なぜ彼だけが特別扱いなのかと不満を漏らす生徒も珍しくはない。この点については至極どうでもよいが、自分よりも学業において優秀なこの男には、幾許かの関心があった。

「失望、させないでよね」

 というのは建前で、別の理由で一度話してみたいとはずっと思っていた。彼は、わたしと本質的には同類であり、あれは薄っぺらい擬きではない、本物だと直観していたから。それゆえ、わたしには彼がいかほどのであるかを確認する義務がある。



 灯りのついた天文部室は、部活動中とは思えないほど静かであり、さながら、喧騒を拒絶するような空気感がなんとはなしに感ぜられた。などというのは些か大仰だが、彼が快くわたしを迎えるということはまずないだろう。

「すいません、酢漿先生から頼まれて夏休みの課題を持って来たのですが、鹿下君はいるでしょうか?」

 ――――

 何やらひそひそ話しているのは聞こえるが、一向に出てくる気配はなかった。居留守でも決め込む気なのか、鍵もかかっていないのに。

「あのー、誰もいないんでしょうか。なら失礼しますね」

「あー、ちょっと待って。今開けると危ないから、二十秒だけ待っててくれる?」

「えっと……はい」

 危ない?

 危ないってなに?

 扉を開くと黒板消しが落ちてくるみたいな感じか? 

「よし、はいどうぞ。ほら緋扇、お前に用があるんだって」

「なんだ、陽雨さんだったのね……なんでここに?」

「なんでって、天文部員だからだよ。じゃ、邪魔だろうし私は帰るからあとよろしく。頑張ってね」

 陽雨さんは一度もこちらの顔を見ずに姿を消して、どこか楽しげというか、なぜか慈しむような咲みを一瞬間のみ浮かべた。

「陽雨さんって、あんなキャラだったかしら?」

 記憶に誤りがなければ、彼女は非常に無口な生徒だったはずだが、今の彼女にそんな雰囲気は見当たらない。どこか気まずいが、約束もあるので残されたわたしは黙然とキーボードを叩いている鹿下の背後に立ち、仕方なく声をかける。

「あのー、鹿下君。夏休みの課題、ここに置いておくからちゃんと持って帰ってね」

 ――――返事はない。

 え、態度悪すぎじゃない? せっかく持ってきてあげたのに無視? と思ったが、そういうわけではないらしく。

「ああ、そういうこと……」

 よく観察すると、彼の耳にはワイヤレスイヤホンが嵌め込まれていた。無視しているのではなく、どうやら本当に気づいていないらしい。放っておいてもいいが、置き忘れていく可能性もあるので、とても嫌だが、肩を軽くつついてやりますか。

「おーい、鹿下君?」

「触れるな」

 途端に、伸ばした手に痛みが走った。

「っ、は? なに?」

 触れる直前、彼は乱暴にわたしの手を叩き拒絶した。彼自身も妙に驚いた様子で、イヤホンを漸く外して見つめ合う。

「誰だ、お前。鞠は……もう帰ったのか」

 鞠って、陽雨さんの名前よね? 親しい仲なのだろうか。まさか、恋人関係か?

「同じクラスの赤星だけど、覚えてないかな? 一応副委員長も担当しているのだけど」

「知らないな、それでお前は何をしに?」

 素気なく興味なさげにPC画面へ向き直る。第一印象は最低であったことは論を俟たず、失礼で傲慢な奴だと思った。

「夏休みの課題を持ってきたんだけど……ほら、その机の上、忘れずに持って帰ってね」

「ああ、ご苦労だったな。用が済んだなら帰ってくれ」

 馬鹿らしい、自分を馬鹿だと考えることはあれど、事程左様に自己嫌悪が強まるのは久しい。元々わたしは男という生物が嫌いだが、こいつは特に女を見下しているような質らしく解せない相手だった。失望する価値さえない。

「そんな言葉の前に、言うことがあるんじゃないかな? 百歩譲って驚かせたのは悪いとしても、人の手をはたいておいて何もないのは、人として良くないと思うよ」

「うん? どういうことだ。僕はお前に触られそうになったから身を守っただけで、正当防衛なのだから良くないことは何もないはずだが……別に大して痛くもなかっただろ」

「痛みの問題じゃなくて、突然他人の手を叩くなんて失礼だと言うのよ。社交辞令なんて今時小学生でも知ってるんだから、それくらいはちゃんとしたらいいと助言してあげてるの。いい歳して、情けないと思わないの?」

「何を言い出すかと思えば、凡夫らしい陳腐な御高説だな。お前のような奴を世間では『老害』と呼ぶのだ」

「ならあなたの言う世間にわたしとあなた、どちらが正しいか問いかければいいわ。十中八九、わたしに同意するのは見えているけど」

「世界の多数は愚者で構成されているのに、どうして多数なら常に正しい気になれるのか、理解に苦しむよ。ああ、ある意味人間らしい、人間らしくて気持ち悪い」

「たまにいるわよね、自分以外の人間を愚かだと断定したり、やたら人間を非難する人。ああいうの、痛々しくて直視していられないわ。そういった繊細さの欠片もない恥知らずにどうやったらなれるのか、是非教えてほしいものね」

「勝手に自分以外などと脚色するなよ、本当にな、お前。他人に言っておきながら、自分にとって失礼な態度と言動を僕へ向ける人間が、恥知らずとは笑わせる」

 わたしにおける地雷となるべく、忌詞は弾丸の形をして撃ち抜くほどの威力を持たず、内奥へと残存し証としての弾痕を作った。銃把はいつでも握られている、引き金を引くのは簡単なことだった。

「あなたって、親から愛されなかったんじゃない。友達もいないみたいだし。まあ、いたとしてもきっと碌な人じゃないわね。陽雨さんがあなたに好意を持っているかも怪しいものね、持ってるならより残念だけど」

「お前――!」

 先ほどの落ち着いた素振りが消え、色を作す様に触れた気がしてほくそ笑む。これは効いたらしい。

「そう思われなくないなら、あなた自身が――」

 ポケットから落ちてしまったスマホの衝突音が、遠いのに、床が近い。え、殴られた? 何で?

「っざけんな!」

 自分じゃないみたいな醜い音が臍から迫り上がり、やがて音は身体の端々にまで及び、終には行為にならしめた。自分の身体が自分のものではないように、動物的な意識に見入られた。花を食い荒らす花ならざるものの鏡像が、嘲笑を混ぜた色で膿み咲んだ。

「――ふっ、久々に殴られると痛いものだな。その振り上げた手、どうする気だ。先に手を出したのは僕だが、正当防衛として僕を痛めつけるのか?」

 倒れた男に馬乗りになって、もう一発、頬へ拳をめり込ませていた。だのに彼は、馬鹿みたいに笑ってみせた――馬鹿にして、見下していた。自分よりも成績が下だからなのか、元来の性分なのかなどはどうでもよくて、気に入らないだけだった。

 一回一回、殺意に似た何かを乗せて身体を震わせると、反動が右手を麻痺させる。まるでゲームの反動技みたいだなんて、ぼんやり思った。

「なんで笑ってんのよ、怒り返しなさいよ! やり返してみなさいよ! わたしだけキレてたんじゃ、馬鹿みたいでしょっ!」

 何回殴っただろう、多分十回くらいか。殴ったこともないし力も弱いから、幸い大怪我はしていないが、唇が切れたのか僅かに出血していて、手背にも彼の血液が付着している。

 こんなくだらないことで怒るなんて、本当に馬鹿だ。今までのわたしならば、スルーすることは難しくなかったはずなのに。あんなことさえ言われなければ、冷静で親切な優等生でいられたのに。

「…………わかってるじゃないか、お前が馬鹿だから、僕はもう付き合わない。お前は僕の盟友を馬鹿にした、その分の怒りはさっきの一発に込めたからな。で、お前は自分の拳に、何を込めている?」

 問いかけに全身の温度が冷める、感覚が薄れてゆく。拳は止まり、瞬きさえ忘れていた。

 正当な理由だなんて思わないが、彼の暴力は他人を想い振るわれたものだった。他方わたしは、自分だけのための暴力だった、他人を慮る要素など皆無なエゴイストの愚行だった。

「あんなこと、言うからでしょ……」

 ああ、確かに彼の言葉は正しかった。

 自分が最も隠したい本音が、言葉としてぶつけられたから、瓦解した感情をさらに誤魔化すために憤怒で上塗りしたのだ。

「確かに悪かったわよ! よく知らない他人のことを悪く言うなんて、最低だったでしょうけど、『気持ち悪い』なんて言われなければここまでのことにはならなかったのよ! あんたに許せない言葉があったように、わたしにだって許せない言葉があったのよ!」

 酷い茶番だが、滑稽物としては悪くないだろう。わたしの言葉は総てが自己保身を図るもので、どこまでも自己のみで閉じている。悪いことは何もない、むしろ正しいと断言できる。生物は、自分のためだけに存在するべきだから。

 ――では、どうしてこの正しさは、これほどまでに醜く化物じみた形を直観させるの?

「ああ、そうだったのか……言われ慣れてるから考えたこともなかったが、普通はそういうものなのか。そこまで傷つくとは考えられなかった僕も浅慮だった、すまなかった」

「は? え、えぇ……何で急に謝るのよ」

 この男の思考が読めなかった、共感できなかった。これでは、わたしが本当に悪者みたいではないか。

「何故って、自分の行為に非があったことを理解してしまった以上は謝罪しておいた方が気が楽だろう。自分に嘘をつき続けた先にある世界なんて、虚しいだけだからな」

 「虚しい」という言葉は、異なる意味での地雷となって胸に埋め込まれた。残酷な呪いのようなものだ。一生消えることのない傷痕だ。

「わたしこそ悪かったわ……流石に殴りすぎたし、怪我の処置くらいはさせて。それで釣り合いが取れるなんて、都合のいいことは言わないから」

「気にするな、人間というのはあらゆる物事に対し、謬見を真としてしまうようにできているのだから。それより、重いからそろそろ退いてくれないか、うぇ、我慢してたがそろそろ吐きそうだ……」

「あ、ごめん。って、本当に顔色悪いけど大丈夫? もしかして」

「違う、殴られたからじゃない……ただ、お前に触られたことを思い出すと気持ち悪くなるだけだ……そういう体質なんだよ」

「え? あ、ああ! なんだ……そういうこと」

 驚いたが、漸く彼の言葉の意味が理解できた。彼の言う『気持ち悪い』がわたし個人への罵言ではなく、船酔いの類であったのだと。なんて、阿保らしい。

「あ、いや違うからな! これはお前だけじゃなく誰に対してもで、僕は人に触れられると気分が悪くなる体質で、特に女は駄目なんだ! うん、だから、ちょっと吐き出させてくれ……ぐぇ」

 冗談ではなく、彼は本当にそういう体質らしく、常備していた携帯エチケット袋を取り出し躊躇いなく嘔吐した。

 そのお陰で、というのも変な話だが、空気は本来より幾分か軽やかなものとなっていた。多分だけど、“今”という時間のなかで、鹿下緋扇という人間は、わたしにとってどんな人間よりも異質で特別な存在となっていたのだと思う。

「信じ難いけど、事実なら大変そうね。女性恐怖症みたいなもの?」

 少し落ち着いた様子であったため、わたしは彼に抱いた疑問を投げかけた。

「いや、恐怖心はない。僕にも原因はよくわからないが、多くの人間が虫を忌避するのと同じような感覚だろう。まあ、僕は人間の造形を気持ち悪いと感じているから、この美意識が作用しているのは間違いないと思うが」

 人間の造形が気持ち悪い、という言葉の意味が一瞬解らなかった。実際には一瞬どころかずっと解らないけど。初めて聞いた感覚とでも言おうか、生まれながらに持っている自分の造形、見慣れた造形を気持ち悪いだなんて、思うことが通常あり得るのだろうか。デブや禿げが受け付けない女子みたいな感覚に近いのだろうか。

「うーん、〈不気味の谷〉みたいな感じなのかしら。でもあれは、人間に近い容姿であることが原因だから違うか。悪いけど、共感はできないわね」

 すると嬉しそうにはにかんで、すぐに真顔に戻った。彼だって、紛れもなく人間なのだと実感する。実感しながら、歪な笑顔だと思った。

「何だ、共感しようとしてくれたのか。有難い話だがやめておけ、こんな感覚は無い方が幸せだ。自分が人間であることを自覚する度に首を括りたくなるからな」

 とんでもないことを、いとも簡単に素気なく述懐する彼の表情に憂いはない。一体、どんな人生を歩めばこんな風になるのか、知りたいと思いながら理解したいとは考えなかった。再び、空気が重い。

「えっと、実は、前からあなたに興味があったのよね」

「ふうん、優等生が僕みたいな不良にか」

「ええ、学業が優秀なのに不良扱いされていて、PCばかり触っている高校生なんて、漫画やアニメでも滅多に見ない設定でしょ。どんな人なのか、気になってたの。で、話してみたら傲岸不遜・傲慢無礼なものだから驚いたしドン引きしたわ」

「ぐ、慇懃無礼なお前に言われたくないな。副委員長なんて面倒なものに率先して就く優等生が、まさかこんな暴力女だとは、流石の僕も喫驚を禁じ得ない」

「暴力女はやめなさいよ! でも、あんたは多分、自分にとって大切な人には何だかんだ優しいのね。本質的には誠実で生真面目なのが、さっきので伝わったし。まさか女子の顔を躊躇なく殴るとは思わなかったけど」

「褒めても何も出ないぞ……僕も驚いたんだ。暴力なんて大嫌いなのに、気づいたときには手が出ていた。その、痛くはないのか?」

 今のを褒め言葉として受け取る人間は、あまり多くはないだろう。実は彼、勉強ができるだけの馬鹿なのではないか?

「うん、平気よ。驚いて倒れただけだったし、あんたみたいなもやしのグーパン一発、平手打ちみたいなものでしょ」

「もやし言うな、まあ、大丈夫ならそれでいい」

 ――――

 また暫しの沈黙が続く。

 やはりと言うべきか、あまりに気まずい。

 こういう時にどうすれば良いのかシミュレーションしておけば良かったと思いつつ、こんな状況――男女で(ほぼ一方的な)殴り合いの喧嘩――誰が想定できるのかと思い直す。

「ねえ、嫌ならいいんだけど、怪我の処置だけでもさせてくれない。勝手かもしれないけど、それでおあいこ、今日のことは無かったことにしましょう」

「いや、この程度なら放っておけば治る。お前は気にせず、さっさと帰ればいいさ。お前がそうしたいなら、僕も今日のことは秘事としておくし、お前に関わることもしない」

「でも」――言いかけた言葉は、より強い言葉に掻き消されてしまう。

「いいから、手を洗ってこい。僕は僕のやりたいことをするだけ、お前もそうすればいい。害にならない限りは他人なんてどうでもよいのだから、僕とお前はもう交わることはない。そうだろう?」

 同意すればよいだけの話を、直ちに同意できないのは自分がどうしたいのかが判然としないからだ。本当にわたしは今のままでいいのか、確信が持てなくなっていた。


 ――自分に嘘をつき続けた先にある世界なんて、虚しいだけだからな。


 ねえ、どうしてあんたは、まるでその世界を見たことがあるかのように、懐古するような顔容で「虚しい」なんて言うの。何でこんなに心がキュッとなるのよ、知っているなら教えてよ。

「そう、ね。うん、わかった」

 皆んなが知っている赤星香吏に帰らなきゃ。

 皆んなが求めている橋姫悠希に帰らなきゃ。

 帰らなきゃいけないんだ。

「色々と騒がせたわね、もう話すこともないと思うけど、精々元気にしてなさい。その体質、いつか治るといいわね」

「ああ、ありがとう。じゃあな、お前も、まあ、辛いことも多いのだろうが、現実リアルに負けるなよ」

「ええ――鹿下君も、負けないで」

 識閾を軸としたバイナリー空間に、不可分な儚い意識たちが連綴して記述されてゆく。恣意的に規定した自然言語の組成――対象あるいは要素――はわたしの像を写し取る。写像はわたしの鏡像であり、わたしを正確に描画していた。

「さようなら」

 さようなら。

 せめて一度くらい、趣味の話でもしてみたかったな。

 ああ、有田さん、待たされて怒っているだろうか。今更思い出して、洶湧と知覚された名状し難い気持ちを掩蔽した。何でこんなに苦しいのだろう、何でこんなに切ないのだろう、ああ、これは一生解けない疑問なんだと、届き得ないことだけを確信して系を閉じた。


   *


「ごめんなさい、有田さん。待ったわよね?」

 変わらず笑顔の有田さん。わたしと違って、彼女はいつも楽しそうでちょっと羨ましい。

「ああ、いいよ別に。人を待つのって嫌いじゃないし」

「いつも待たせる側だものね……」

「まあねー、じゃ行こっか」

 違和感には互いに気づいていた。

 黙っているのが正解なのも明白だ。

「ねえ有田さん、遅れた理由は聞かなくていいの? 普段なら、何気なく訊ねてくるじゃない」

 せっかく気を遣ってくれたのに、堪え性の無いのがわたしの悪い癖だ。自分の理想を演じることさえできない三流役者、赤星香吏とはそういう人間なのだろう。

「ああ、だって赤星さんってそういうのは自分から言うじゃん? で、自分から言わないってことは言いたくないか言いづらいことなんかなって。なら、あたしに聞く理由はないじゃん? そんだけよ、ほら行こ」

 ああ、安心したような、驚いたような、救われたような、色々な気がした。今からでも遅くはない、わたしは彼女の本当の友達になれるように、向き合うべきなんだろう。彼のように、一人でも誰かを大切に思えたなら、彼の言う虚しさの意味を理解できるかもしれないから。

「明日は用事があるから、明後日に私の家に来てくれる? 課題のスケジュールを組むから、肝心の課題持ってくるの忘れないでよ」

「面倒だけど、仕方ないかあ。ねえ、休憩時間とか遊ぶ日もあるよね? せっかくだし、ゲームしたりアニメ見たり、プールに遊びに行ったりしたいよ」

 プール……やはり根本的に人種が違うというか、いわゆる陽キャラなのだろう。でも、友達が多いはずなのにどうしてわたしなんかと一緒にいるのかしら。考えてみれば、不思議なものだ。

「前から気になってたけど、有田さんって友達多いはずよね。どうして他の人とは遊んだりしないの?」

 質問の意図が解らないといった風に首を傾く、何が解らないのかがわたしには解らないけど。

「中学生のときの友達ならいるけど、高校に友達は赤星さんしかいないよ。その友達と遊ぶことはあるけど、今じゃString(無料通話・チャットアプリ)かノーコンで連絡取るだけってことが多いし、今のクラスメイトの人と買い物したりしたことはあるけど、何か面白くなかったんだよね」

 知らなかった。

 あの学年のなかで、わたしが唯一の友達だったなんて、知らなかった。わたしは友達だなんて思ってなかったのに、こんなわたしと一緒にいるのが楽しいと、認めてくれたのに、わたし……やっぱり屑だ。

「そう、なんだ……」

「そういう赤星さんこそ、皆んなに頼られて友達多そうじゃない? あたしのためにそんな時間使っていいの?」

 何だ、全然違うようで同じだったんだ。いや、わたしとこの子では考え方が始まりから異なるか。わたしは他人を利用価値があるかどうかで判断していたけど、有田さんは損得勘定なしで他人と接していたのだから。

「わたしもおんなじなのよ。何となく仲よく話しているようだけど、別に友達だと思ってるわけじゃない。わたしも、この高校にはあなたしか友達がいないの。だから、この夏はみっちり勉強を教えてあげる」

「はははっ、お手柔らかに頼むよ」


 

 家の前に着き、わたしたちは別れる。

 先ほどとは違う、再会が約束された別れには当然のことながら切なさなどは無かった。

 ああ、明日から忙しくなりそうだ。だが以前のような憂いはなく、この心は今、迷いなく前を向いていた。こんな風になったのも、全てはあの変わり者のせいだ。

「それにしても、あの人間嫌いがあそこまで惚れ込む陽雨さんって、どんな人だったのかしら。少し、訊いてみてもよかったな」

 独り言ちて慣れた手つきでスマホを取ろうとして、すっかりと抜け落ちていた記憶が帰還してきた。遠くに見えた、床に落ちたスマホの姿は間違いなくわたしのものだ。

「えっ、まじで? あれだけ綺麗な感じで別れたのに、忘れ物したの? ええ…………」

 今から取りに行くのは、可能なのか怪しい。だが、あれがなければ仕事にならない以上、怒られてでも回収する必要がある。

「あーもう。なんて間抜けなのかしら…………はあ、走るか」

 だが走り出そうとした足は、あの姿を認めて反射的に静止した。

「そんなに慌てて、どこへ行く。お前には訊きたいことが幾つかあるんだから、まずは質問に答えてくれ」

 あの男、鹿下緋扇が自分の家の前に来て、わたしのスマホを右手に持っていた、軍手を着けて。相変わらず失礼だが、体質的に仕方ないのだろう。

「何か、変な感じね。もう話すことはないような口振りだったのに。届けてくれたのは助かったけど、よくわたしの家まで辿り着けたわね」

「ああ、土雨に聞いたらすぐ教えてくれたよ。それより確認したいことがある、画面に映っているこれについてだ」

 画面に映っているもの。

 一体何だと言うのか、と眇めて見た。


『【imglive】配信予定の打合せについて全体連絡です。明日の14時を予定していますが、不都合のある方は明日10時までに連絡よろしくお願い致します』


「うわあああああああっ、何見てんのよ、あんたあ!」

 人生で一番焦った日だったと思う、達人のような速さでスマホを奪い取り、恐る恐る確認した。Stringの通知を非表示にしなかった自分を今すぐ叱責したい。

「えっと、訊ねたいことっていうのは」

「勿論、お前がimgliveに所属しているVirtualストリーマーであることについてだ。ああ、どこかで聞いたことのある声だとは思ったが、まさかこんな身近に、しかも高校生だとは流石の僕も予想できなかった。お前、『橋姫悠希』の魂(演者)なんだろう?」

 どう答えればいいのだろう。何となく、この男なら身バレしても情報を拡散することはない気がしたが、教えられるわけがない。

「……いやー、知らないわよそんな人。何かと見間違ったか、勘違いしたんじゃない?」

 流石に苦しい、無理がある。

「ああそうか、普通はこういうのって守秘義務があるから言えないんだな。中々見どころのある奴が出てきたと以前から思っていたところ、それを見たものだからつい興奮していたようだ。すまん」

 見どころ、見どころですって?

「いや、持ってきてくれたのは助かったし、こんなの非表示にしなかったわたしが悪いからいいけど、その、具体的に教えてよ。どこに見どころがあったのか」

 以前からということは、恐らく彼は路線変更前のわたしを視聴しているのだろう。そんな燻っていた頃のわたしを見て、どこに魅力があったのか訊かずにはいられなかった。

「そうだな、まず」

「あ、ちょっと待って! ここだと誰かに聞かれるかも知れないから、入って」

「は? こんな時間に大丈夫なのか、両親もいるだろ」

「いいのよ、自室に隠れていればバレないから。早く入りなさい。静かにね」

 友達を自宅に招き入れたことすらないのに、最初にわたしが自分の領域に侵入を許可したのは、有田さんみたいな友人ではなく、今日出逢ったばかりの異性の他人だった。

「まるで泥棒みたいだ……」

「いいのよ、親はわたしに甘いから。それよりもさっさと階段上って。二つあるうちの、手前の部屋だから、ほら」

「だから、僕には触るなよ」

「あっ、ごめん。って、やば……!」

「はあ、お邪魔するぞ――ぐひゃっ」

 ガチャっと音がした途端、反射的にわたしは彼を部屋に蹴り入れてドアを閉めた。彼が入室?するのと同時に奥から出てきたのは、わたしの天敵とも言える姉だった。

「お、帰ってたんだ。おかえりー」

「ただいま、夕食は後で取りに行くって伝えといて。じゃ」

「ちょっと、待ちなよ。さっき、明らかにカガリとは違う声が聞こえたんだけど、一体誰を連れ込んだの。もしかして、ついにあんたにも男ができたとか?」

 ああ、うざい。

 いつになったら友達ができるんだとか、恋人ができるんだとか、毎日のように訊いてくる我が姉は本当に鬱陶しい。

「野良猫でもいたんじゃないの、じゃ」

「ふうん、ま、いいけど。ショック受けそうだから、父さんには黙っておくよ」

 立ち去ったのを見計らって、鍵をかけたあとに防音用カーテンを閉める。向けられていた視線は少々恨めしそうだったが、あの状況では致し方ないと言えるだろう。

「で、続きよ。見どころってどこなの」

「お前、先に謝罪をしようとは思わないのか」

「あれは不可抗力だもの、わたしは悪くないわ。むしろ、見つからないようにしてあげたのだから感謝されてもいい」

「はあ、やっぱお前、ちゃんとしたクソ女郎だよ」

「ええ、知ってるわ。で、早く教えなさいよ」

 急に真面目な顔をして、言葉を選んでいるのか数秒ほどの熟考があって、彼は語り始めた。

「昔からVストは自分が会社に属す社会人である自覚に欠ける嫌いがあった、学生なら尚更だろう。知ってるだろ、Vストが今までどれだけくだらない不祥事を起こしては炎上してきたか。当然、炎上するほどでもないことは多々あるが、とかく奴らは配信者として視聴者を楽しませようという気概が欠けがちなんだ。それは悪いことではないが、決して一流の在り方ではない。だがな、お前は自分なりにどうすれば視聴者に喜んでもらえるのかを真剣に考え、試行錯誤して思い悩んでいただろう。僕くらいになると、画面越しでも微かな声音や慣性モーションキャプチャーによる表情だけで解るものだ。とはいえ、視聴者は利己的なもので、お前の苦悩なんて考えもしないし気づきもしない、悪意のない不快な言葉を投げる奴も珍しくはなかった。まあインターネットでは日常風景だが、ああ、遂に我慢できなくなって本性を現したときは愉快だったな、あの切れ味は痛快で目を見張るものがあった。恐らく、そこで失望したり求めていたものと異なると去った者もいるが、結果的に橋姫悠希の人気は大きく上昇した。理由は、あの瞬間からお前にわかりやすい見どころが明示されたことに尽きるんだ。お前は、何故、以前よりも人を惹きつける存在となったか理解しているか? あの時のお前がなぜ、以前より多くの人間にとって魅力的に映ったのか、考えているか? お前なら、解るはずだ」

 宛ら二倍速再生のような流暢な語りに感心しながらキモいなと引いたのだが、一番キモいのは真正面からぶつけられた言葉に照れながらもニヤけている自分の口角だった。

「解ってるなら、こんなこと訊かないわよ。というか、やっぱりあなたってVストに詳しいのね」

「僕は自分が楽しみ得るものなら何でも触れるからな。アニメもゲームも小説も配信も、僕より造詣が深い奴は多くないだろうと自負している」

「はいはい。で」

「まあそうだな、お前が好きな『アイドルプロジェクト』に出てくる福宮柚檬ゆずもを考えてみろ。あのキャラクターの魅力はどんなところにあると思う?」

 彼の言う『アイドルプロジェクト』とは、平成から続く有名なアイドル育成シミュレーションゲームである。既に十作以上のシリーズが登場しており、同じアイプロオタクのなかでも、どのシリーズのどのユニットのどのキャラが好きか、どの組み合わせが好きかなど、実に多様な在り方が並存している。そして、わたしが常々配信で推しているのが、今、彼の話した福宮柚檬という女の子である。

「誰に言ってるのよ、当たり前でしょう。福宮といえば誰もが知るとおり〈二面性〉が特徴的で、礼儀正しく親切な愛されキャラを演じていながら、本質的にはそれらを計算で行なっている腹黒さが当初の魅力だった。この腹黒さというのも実際には謬見でしかなかったけど、これについては後述するとして、本格的に物語が動き出すのは彼女の本性がプロデューサーや同ユニットのメンバーにバレてしまってからね。しかも、その二度発生する本性バレイベントは一見共通しているようで明確な差違があって、最初にプロデューサーにバレたとき、彼女は強い怒りを露わにしたけど、その感情の本質は他者に自分の本性を知られることへの恐れが原因だった。皆んなに愛される人物を演じるはずだったのに、皆んなに嫌われないような人物を演じてしまっていた――プロ相手にはそんな表面的な誤魔化しが通じなくて、不甲斐ない自分と理不尽な世界に対する怒りをプロデューサーにぶつけるの。でも、偽りだらけの中で見いだした本当の自分を向き合って、福宮は自分のなりたい「偶像アイドル」の姿をはっきりとプロデューサーに告げた。あ、駄目だ、このシーン、思い返すとちょっと涙腺に来るから次の話するわ。次はユニットメンバーにバレた時のやつね。これは本当に格好いいしずるいわ。以前はただ、自分一人のことで怒り本性を露わにしたけれど、この時の福宮はメンバーに対する不当な評価に対して激昂した。決して自分には模倣できない『本物』のアイドル恵梨沙(淡道あわじ恵梨沙えりさ:福宮と同ユニットに所属するアイドル)が認められない、自分と正反対である彼女の実力を認めない理不尽な世界への無力感と悔しさから見せた涙、こんなにもアイドルに真摯に向き合っている子はアイプロキャラの中にはそういない。あんなの見せられたら、好きになるに決まってるじゃない。いつもは不遜に怒っているようで、相手のことをずっと気にかけていて、腕白なメンバーである恵梨沙に振り回されながらも心配していて、特に雨ではしゃいで転んだ恵梨沙を介抱するシーンは堪らないわ。自分が濡れることを厭わず相手が濡れないよう気遣いながら、レースのハンカチで水を拭ってあげるなんて、何であんな良い女なのかしら。それで優しいなんて言われると、本質的には純粋な癖に表面的には捻くれているから素直になれなくてつい否定しちゃうの。『これは風邪や怪我をされると仕事に支障が出て、自分に迷惑がかかるからであって、優しさでも何でもない』ってね。でもね、その裏ではプロデューサー含めた関係者に迷惑がかかると同時に、恵梨沙に反感が向いたり不当な評価をされたり引退に追い込まれるような事態が無いようにという深慮も含有されていると思うの。ここまで行くと考察の域を出ないけれど、それが事実なら彼女はいつも怒って注意している恵梨沙と、ずっと一緒に活動したいって思ってるはずだし、その他多くのシナリオでもそういった節は多分にあるわ。さっき言った腹黒さというのも、実際には彼女が人一倍アイドル活動に対して真摯でストイックであることの証左で、自分の売り込み方を彼女は常に考えて、色んな人との出会いの中で成長して、偶に耐えられなくなったときはプロデューサーに甘えたりする。それで時々、疲労したプロデューサーを労ってあげたりもする。自分勝手に我が儘になろうとしても成りきれなくて、つい受け入れてしまう甘さがまたいいのよ。他にも」

「待て、このままだと朝までかかりそうだ。そろそろ本題に戻る」

「何よ、まだ一割も語れてないのに」

「文字に起こせば四百字詰原稿用紙三枚分になるであろう分量も語れば充分だ。僕だって福宮についてはお前に劣らぬほどの考察はしているだろうからな。お前の解釈が僕とおおよそ一致する辺り、お前のレベルの高さも把握できたし、意識的に名前ではなく福宮という苗字で呼ぶ拘りも素晴らしい。だがそれより、気づかないか? お前と福宮には共通点があると」

 この呼び方を評価するなんて…………只者じゃないわね。

「共通点って、わたし如きの人間を福宮と並べるなんて烏滸がましいというか」

 なぜここまで話して解らないのかが理解できない、といった態度を噯に出すよう溜息を吐かれるのが腹立たしかった。

「はあ、そうじゃない。共通点とは、お前が人気になった理由と福宮というキャラクターが人気である理由についてだ。人間というのは知っての通り、意外性に惹かれやすい。人間というのは本能として天邪鬼な気質を多かれ少なかれ持つからな。意外性は失望を買うこともあるが、今まで無関心だった人間を惹きつける要素にもなる、好意的に捉えられる形となればファンが累増するのは当然だ。人間は自分にとって快となる都合の良い情報を選別し、選択している。そして、このなかで最も多くの人間が飢えているのは、面白さ、娯楽なんだよ。お前は――いや、橋姫悠希は、福宮のように人間らしさとしての可愛らしさと、本性が隠せない抜け具合と悪意のない毒舌による面白さが受けて、ここまで来たんだ。人間としては七面倒臭く傍にいたいとは思わんが、視聴者に楽しみを届けるエンターテイナーとしてのお前の在り方は感心するよ」

「ふん、面倒臭いなんて、ぜーったいに、あんたにだけは言われたくない」

 褒められているのか貶されているのか、判りづらいが、きっと彼なりに称讃してくれたのだろうなと判断しておきつつ、噛みしめてみる。

 確かに、コメントでは珍しくないことだった。[ユキさんってやっぱ柚檬と似てるよね]とか[好きだから無意識に似せてしまうのかな]とか、そんなコメントが流れてくることは今まで幾度もあった。最初は「わたしと似てるというのは福宮に失礼だ」とか反応して、福宮がどれだけ素晴らしいか度々講釈してあげたものだが、次第にそれは何故か持ちネタ化して、今では「福宮発作」・「福宮講釈」などという不本意な呼称まで付いている。だが思い返せば、わたしと福宮を重ねるなどありえないとは今でも思うが、それは、彼らの視点においては正しかったのかもしれない。

「いいか、キャラクターの解釈は人間によって異なるし、正解を決定する手段はないと理解しろ。言われなくても感覚的に知っているだろうが、理解するのと知ることは異なる。皆んながお前や僕ほどキャラクターを考察しているわけではないし、していても同じ解釈に至るわけじゃない。それは橋姫悠希についても同じだ。少し具体的な話をあげるか、命名したのはウィトゲンシュタインだが、ムーアのパラドクスというのを知っているか。知らなくて問題ないが、一つの命題文、“雨が降っている、しかし私はそのことを信じていない”といった表現があるとする。これは一見矛盾しているようであるが、決して矛盾ではなく論理的には正しい、しかし常識的に雨が降っていることを知りながら信じていないのは不条理と感ずるはずだ。それでも命題の真偽を確かめるには現実と照合するしかないが故に、命題の真偽を確認することは雨を信じていない彼以外には不可能だ。不条理と矛盾は、似ているようで、可能性の有無という点においてまったく異なる特性を持つ――すなわち、我々が行う考察・解釈とはそういうものなんだよ、そこに正当性を欲するのはオタクとしては三流が良いところだと、僕は考えている。所詮これも、他者においてはただのだがな」

 ウィトゲンシュタインやムーアは名前を聞いたことがある程度で、流石に著作に触れたことはなかったが、彼の言いたいことは恐らく理解できたと思う。

「まあ……納得はできないけど、理解はしたと思うわ。気に食わないけど、以前の善人ぶったユキよりも、今の欠点だらけのユキの方が親しみやすいのは事実だろうし。おかげで多くの人に求めてもらえるようになったし、最初は焦ったけど却って結果オーライだったのよね」

 そう考えて、納得するしかないのだと思った。

 漸く思えそうだった。

「でも、僕はアイドルとしての橋姫悠希の方が魅力的だと思っているのだがな」

 いや、そんなのは思い込みだ。

 わたしに触れた言葉よって心は戸惑い言葉が詰まったことが証拠。昂ぶりが証拠。歓びが証拠。

「本当にそっ、思う⁉︎ 嘘とかじゃないよね?」

「は? 嘘を吐く理由なんてないだろ。誰得なんだって、顔が近い!」

 彼の言葉は、何度思い返しても本当に嬉しいものだった。本人には死ぬまで言ってやらないけれど、わたしの目指したものを肯定してくれた、嘘偽りではない本心で肯定してくれた――それだけで救われた気がしていた、呆れるほど単純だけど。

「気を悪くしないでほしいが、正直、歌とダンスに天性のものはないと思う。さりとて、習いたての素人でないのは分かる。裏での努力が垣間見えるあの姿は、空想が捗る良きものがあったし、同じimgliveのVストにここまで真摯にアイドルであろうとした奴はいなかった。その唯一性に、僕はの魅力を見いだしたんだよ。これが、僕の思う橋姫悠希の見どころってやつだ。ほら、これでお前の聴きたいことは語ったぞ」

 アイドルとしての橋姫悠希と配信者としての橋姫悠希、求められるのは後者で、前者は後者有りきとなっていた。これはわたしに限った話ではなく、アイドル然とした活動のみで生き残るのは非常に難しいのであり、普段ゲームを配信している〇〇は、実はアイドルでもあるという認識によって漸く人気を得られることが多いのである。

 当然、殆どのVストは作曲・作詞の能力など皆無なため、我々は基本的にプロの作曲家・作詞家に依頼しているのだが、普段は配信者として絶大な人気を誇る人が出した楽曲の売り上げはわたしを含めたアイドル・アーティスト寄りなVストの比ではない。本当に比ではなくて、絶望的な差が存するのだ。勿論、わたしの憧れであり先輩でもある澪標みおさんは例外だが、わたしがあの人に並ぶなんて夢物語も甚だしい。

「そう……ありがと、悪かったわね。こんなことに付き合わせて」

「いいさ、碌な趣味もない退屈な奴ばかりだと思っていたが、お前みたいな同志がいるのが判明したのは僥倖だった」

 訊くべきか悩んだが、この心地よさと歓情かんじょうを今は失くしたくないがために言は秘すことにして、誤魔化すように一つの我が儘をぶつけてみた。

「でも、わたしだけ秘密を知られているのって不公平よね。ねえ、あんたにも何か秘密とかないの? わたし、口は結構堅い自信があるわよ」

 以前の自分なら、相手が裏切らないように相手の秘密を探っただろうけど、今は少し異なる気持ちで彼の秘密を探っていた。こんな奇妙な人間にも人に言えない秘密があるのだろうかと、単に気になった。というのは、自分のためだけに拵えた建前で、ほんとは彼のことをわたしはちょっと――かなり尊敬してしまっていた。勿論、オタクとしての側面のみでそれ以外は碌でなしだと思うけどね。

「秘密か……これといって隠すことはないんだが、強いて言うなら僕のロル垢(Roller:アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンフランシスコに本社を置くRoller, Inc.のソーシャル・ネットワーキング・サービス)くらいか。鞠以外には話す機会さえなかったから、知っているのはあいつとお前だけになる」

「えー、わたしだけの秘密とかないの?」

「そんなのあるもんか。あいつより僕を知る人間はいないのだから」

「ふーん……あと、冷静に考えたらずっとお前呼びなの偉そうな感じで嫌なんだけど。ちゃんと名前でも呼びなさい」

「ん、そうか? 御前ということで丁寧な呼び方だと認識していたのだが、畏まり過ぎて却って見下しているような印象があるということか。じゃあ、これからは気をつけよう――香吏」

 え、え? 苗字じゃなくて名前なの? 有田さんにも呼ばれたことないのに?

「じゃあ」

「ちょっと待ちなさい! 何でいきなり名前呼びなの、普通苗字でしょ。距離感バグってるんじゃないの!」

「名前程度で騒がしいな、苗字だとお前の家族との呼び分けが面倒だから名前でいいじゃないか。大体、何故日本人は頑なに苗字で呼ぼうとするのかが解らん。現実においては、所詮人間を識別する記号でしかないというのに」

 やっぱりこいつ、ちょっとおかしいのだなと再確認した。どうでもよくなってきたので、もう名前でいいや。

「もういい、じゃあそのアカウントを見せてよ。どんな呟きがあるのか覗いてやるから」

「呟きと言っても、ゲームレビュー、仕事の連絡、布教活動が中心で面白いものはないと思うが」

「いいのよ、黒歴史が一つくらいあったら笑いの種になるかもしれないでしょ――仕事? 仕事って言った?」

「ああ、そうだ。僕が部室で作業しているの、見てなかったのか? 僕はそもそも一人暮らしだから、生活費を稼ぐ必要があるんだ。幸い、僕には人並み以上のプログラミング経験があるから仕事を見つけてくるのは難しくはない。学生である以上本職ほどの作業はできないが、極貧生活を送る気もないので空き時間は部室で仕事に励んでいるというわけだ」

「へ、へえ~……そうなんだ。…………凄いわね」

「凄い? ああ、僕の素晴らしいオタ活は確かに他者から見れば凄まじいものだろうな。これを凄まじいものだと理解できる辺り、矢張り香吏は見込みがある」

 彼が賢いのか馬鹿なのか、時折よく解らなくなって頭がバグりそうだが、そんなことはどうでもいい。

 彼のアカウント「ArrN/A(アレイナ)」のDM(ダイレクトメッセージ)には確かに仕事上の連絡らしき履歴が並んでいて、わたしには理解できない言葉がいくつも並んでいた。プログラミング自体は必修科目の一つなので多少は学んでいるのだが、精々理解できているのはHTML/CSSとJavaScriptの基礎程度で、フロントエンドのフレームワークとかバックエンドの話となると完全に知識の枠外である。

「ちなみに、月の手取りはどれくらいになるのか聴いてもいい?」

 気になってつい、身の程を弁えない婚活女みたいな質問をしてしまった。

「さあ、気にしてないので数えてなかったが、二三十万はあるんじゃないか。作業の割には額が多い気もするが、運がよかったのだろう」

「殆どの新卒の手取りより多いのね……毎日の食事は、自炊してるの?」

「多少はな、忙しいときは弁当を買うこともあるが」

 彼に対する印象が反転したのは言うを俟たず、親の脛を囓って忙しいと自分に酔っていた自分が尚更情けない気がした。それが普通だと言うのだろう、だが劣等感は募るばかりだった。

「ほら、それより僕はそろそろ帰るぞ。元々僕は、香吏のスマホを渡しに来ただけなんだからな」

 帰る――帰ったあとはどうするというのだろう。

 このままわたしたちは、やっぱりもう二度と交わることのない道を往くのだろうか。今日のことは無かったことにするように忘れて、日常へ還れと言うのか。もしそうであるのなら、何というか、とても嫌だ。考えるだけで切なくて心苦しく、口に含んだビターチョコが味蕾を刺激するような感覚が脳へ溶解して、苦味の裡にある香りは不思議と心安らぐ音を響かせ、次第に依存性を発揮する。

「ちょっと待って……連絡先、交換しない? 秘密を共有するというのに連絡もできないのは不便だし、本当は気が進まないけど仕方ないし」

「嫌なら僕は構わないが、誰かに言い触らす機会すらないだろうからな」

「いいからさっさとするのよ。これ電話番号とStringとノーコンの連絡先、ほら、今すぐ登録しなさい」

「疑り深い女だ――――――――ほら、これでいいか」

「こっちでも登録するから、電話かけて」

 これは彼と連絡を取りたいから交換しているのではなく、あくまで管理が目的なのだ。さらに言えば、彼はわたしの正体を唯一知る人間でVストやインターネット関係には頗る詳しい。機器の相談役にも適任と言え利用価値が大いにあるのである。何て合理的なのだろう、素晴らしい計画だ。

「二人目、か……」

 自分のスマホに家族以外の連絡先が二人分も存在するのが、不思議だった。でも、有田さんと違って彼はわたしにとって「友達」などではないし、彼においてもわたしは「友達」ではない気がした。彼はわたしを「同志」と呼んだ、ならばわたしにとっての彼は真の「協力者」なのだろう――そういうことにするべきなのだ。

「そういえば、ずっと気になってたんだけどさ、あんたが放課後に言ってた」

 思考を徒に遮る雑音が名を呼んだ。

「おーい、カガリー? いつになったらご飯食べるんだって母さんがキレてるから持ってきてやったぞー。ドア開けろー、冷めたらもっと怒られるぞー」

 怒りで血管がぶち切れそうだが、可能な限り抑えて追い返すことを試みる。

「勝手に取るから床に置いといて」

「えー、わたしも彼氏君とお話してみたいんだけど。可愛い妹を射止めたのがどんな男か気になるし」

「いい加減にして、本当にあんたのお節介には迷惑してるのよ」

「そっか、なら置いとくよ。二人とも、避妊はしとけよー。必要ならコンドーム貸そうか?」

「要るか死ね! 馬鹿アネキッ」

 ああ、最低最悪が過ぎる、あの女。

「ふむ、流石にバレているとは思ったが気を遣わせてしまったか」

「あんた、あんなこと言われてよく平気でいられるわね……」

「低俗な人間なんて見慣れてるからな。確かに僕とお前の関係を勘違いしているのは甚だ不本意だし気持ち悪いことこの上ないが、悪意はないのだごっっ」

 勝手に手が出ていた。

「いや、痛いな! なぜ叩く⁉」

「気持ち悪いのは同意するけど、あんたにそう言われるのはムカつく。悪意はないから許してくれるわよね」

「許されて堪るか! くそ、何て理不尽なんだ。これだから現実の女は」

 そう言いながらも結局許してくれる辺り、彼の懐は中々大きいのかもしれない。とりあえず流石にお腹が空いてきたので夕食を摂ろうとドアを開ける――そこには立ち去ったはずの姉が立っており、わたしが閉めるよりも先に部屋へと侵入してきやがった。痛恨のミス、油断した自分を責めるべきかこの巫山戯た姉を責めるべきか。

「はじめまして、カガリの姉の赤星陽紫ひさきです。君の名前は何ていうのかな」

「お邪魔しています、僕は鹿下緋扇という者で、香吏とは同級生です」

「うわ、もう名前呼びなんだ。冗談抜きで結構進展してんだねえ。二人はいつから付き合ってるの?」

「彼女と話したのは今日が初めてですが」

「え、出逢って初日で即結合? わたしよりやばくない? カガリもやっぱ本性は肉食系だったってことなんかなあ」

「いい加減にしなさい! あんたも、何で普通に会話してんのよ」

 恐ろしい順応力で鹿下は姉と淡々と会話しているが、わたしとしてはもうちょっとこちらの立場になって突っ込んでほしいものだ。というか、こいつは一体何をしにきたのだろう。

「何でこんなことするのよ、迷惑だって言ったわよね」

「何でって、可愛い妹が悪い男に引っかかってないか確認したかっただけよ。だって、今まで一度も友達連れてきたこともないカガリが急に部屋に男を連れ込むなんて姉としては一大事じゃない。赤飯案件だと思うと夜六時間しか眠れなくなりそうだし、この眼で確かめたかったのよ」

 やっぱりこの姉、うざいことこの上ない。多分他の家庭でもそうなのだろうが、現実の兄弟姉妹というのは基本的にうざったいものなのだろう。一人っ子にはそれがわからんのだ。

「冗談は置いておくとして、カガリ、部屋から出てなさい。少し彼に話しておきたいことがあるの。いいわね?」

 空気が凝縮されたような、といった表現が現実化した。

「ちょっと、いきなり何を」

「ちょっと、じゃない。すぐ終わるから、待ってなさい?」

 その瞳を向けられると、言葉に詰まり汗が止まらなくなっていた。無言は肯定と同義、部屋を出る以外の選択肢は残されていなかった。

「一体、何だって言うのよ……」

 勿論、黙って言うことを聞くほどわたしは素直な性格ではないので、聞き耳を立て盗み聴きを試みたのだが、流石自分の防音室、全然聴き取れない。

「迷惑かどうかと言うと、迷惑甚だしいな」

「まあ、そりゃそうよね。態々付き合ってくれてありがとうね」

 迷惑? 何の話をしているの?

 今度は鹿下の笑い声が耳に届いた、失笑だろうか。彼特有の腹立たしい仕草を目に浮かばせながら、あの眼差しを想起する。

「だが迷惑なの――――ない、――――――――――この程度の迷惑、端から気にする価値もないんだよ、――――――――――――。だから、――――――、――――僕の意志は僕が決める」

 何というもどかしさだろう。古いラジカセのような気持ち悪い途切れ方のせいで話が全く見えない。

「へえ、随分と偉そうな物言いね。でも、――――――――――はお奨めしないわよ。あの子は支配的で独占欲に溢れていて、――――――――――――――――――――が予想できるもの。家族でもないあなたには、解るはずもないから仕方ないんだけどね」

「ふん、姉だから、妹のことなら何でも解るとでも?」

 わたしのことを、話しているのだろうか? 和気藹々と雑談している雰囲気ではない、寧ろ静かだが言い争っているような。ああ、気になる!

 ちょうど良いことに夕食と一緒に麦茶の入ったコップがあるものだから、飲み干して、映画とかで見たことあるような感じで壁にくっ付けてみた。おお、音が聴こえる!

「男に媚び売ったキャラ作りして、気持ち悪い趣味に嵌まって。妹の将来が心配なのよ、わたしは」

 え、何それ……?

 動揺した、まさか姉がそんな風に思ってるだなんて、幾ら何でもわたしの大好きなものを否定されるなんて、思いたくなくてもう一度傾聴した。だが、予想に反してこの心を握り締めたのは、出逢ったばかりのただのクラスメイトだった。

 努めて冷静に言い放たれた音色は呼吸の流れと同程度の自然さで鳴り、言葉が世界の構成素志となる過程は、ガトーショコラに粉砂糖を振り撒く過程に酷似した氷面ひもの風景を写し出していた。永遠に消えない傷のようなもの、だと思った。

「僕はお前の家庭事情など知らないし興味もない。だが、本気で香吏の努力を否定するというのなら、僕は香吏を全力で肯定する。お前は香吏の昔の姿を見てきただけで、今の香吏を知ろうともしていない。でなければ、香吏が命を、人生を懸けているものに対して媚びを売っているだとか気持ち悪いなんて、言えるはずないんだよ。お前の妹は自分の人生について、お前などより余程真剣に向き合って生きているんだ、惰性で生きている人間に香吏を否定する権利があるなど、僕は決して認めない」

 はあ? 何で、何であんたが……そんなこと、言ってくれるのよ? これは、わたしたち家族の問題なのに。

 ああ、わたしと似たオタクだって思ったけれど、全然違うんだって思った。わたしでは到底彼に追いつくことはできないんだって思った。何故、他人に対してここまで自分の意志を明言できるのか、理解ができなくて死にたいと思った。だからこそ――――。

 わたしの中の星はいつも一つだったのに、星は個ではなく線条に編み上げられた関係性で形態となって存在を知覚させるように、彼は一夜で空を塗り替えてしまった。とてつもなく罪深い行為は涜神的な蠱惑があり、身体の下部は戻ることのできない境界線を踏み越えた。

 そこで、さっきまでとは違うというか、いつも通りのうざい声が聴こえ余計に困惑した。

「君、今のめっちゃ格好いいね! わたしが惚れちゃいそうだったよ」

 ……は?

「ごめんねー鹿下君。君がどういう人間なのか確認したかっただけで、カガリの趣味については本人が好きでやってるならどうでもいいし、別に怒ってもいなければ謝罪する気もないんだよね。びっくりした?」

「いや、途中から本気で言ってないのは解ったので、僕は乗ってあげただけだよ」

「マジ? 凄いね。うん、年上にも遠慮なくタメ語な子って最近じゃ珍しいね、仲よくなれそうだわー。じゃあ仲直りの握手」

「遠慮します、人間アレルギーなので」

「あっはは、鹿下君って中々面白い冗談を言うね」

 困惑するわたしを余所に、彼はまったく驚く素振りも見せずに面倒臭さそうに握手を拒否していた。何せ、触れるとわたしの部屋が大惨事になるのだからそうしてもらわなければ困るのだが、そんなことはどうでもいい。

 いや、ふっざけんな! 本気で、本気で驚いた。今すぐ怒鳴り込みたい気分だ、法が許すなら一発腹パンしたい! …………はあ、何で安心してるんだろ。あいつにどう思われようと、関係ないじゃない。変なの……。

「いやーカガリは可愛いでしょ。でも、可愛い妹にいい男ができたのは寂しいなあ」

「何か勘違いしてるみたいだが、僕と香吏は共通の趣味を持つ仲間というだけでそれ以上の関係ではない。香吏もウザがってるし、そのノリやめた方がいいんじゃないか?」

「いやでも、可愛い子ほど虐めたくなるというか、可哀想な姿って可愛いでしょ?」

「まあ、それについては同意だな。でも、やり過ぎると本当に嫌われるかもしれないし、程々にしておけ」

 何なのだこの茶番は、本気に捉えてしまったわたしの純情を返してほしい。あと、何か普通に話が合っている感じなのがムカつく。

「でも、正直グサッと来たなあ。鹿下君の言う通り、わたしも最近は自分のことで手一杯でカガリがどういうことをしているのか、確認できてなかったんだよね。というか、させてもらえないと思うけど」

「それはあんたが」

「コラー! いつまで話してんのよ。さっさと開けなさい!」


 漸く開いたドアから出てきた姉は、わたしだけに聴こえるよう「面白い子だね、仲よくしなよ」と呟き自室へと戻った。他方、ぐったりとした表情を隠しもしない鹿下は、「帰る」と言って階段を下りた。あんなことを言っておいて、どうして落ち着いているのだろう。あれが茶番だと解っていても、わたしの心臓は激しく運動しているのに、不公平だ。

「今日は疲れたな」

「ええ、ほんとに。ああ、そういえばっ、あいつから何か変なこと言われなかった? 妙な勘繰りしてたし」

 配信中なら上手く演技できるのに、現実となると上手くはいかないものだ。

「ああ、別にないよ。ただお前のこと、何だかんだ大切にしてるんだなって思っただけだ」

 彼は真顔で冗談を言う男だったろうか。

「あいつがぁ? いや、ないわね。あいつはわたしの姉だもの、自分のことばかり考えてるに決まってるわ」

 ふっ、と鼻で笑われた。

「いてっ! 何故叩く⁉︎」

「それくらい、得意の考察で察しなさい。あと、まあ、何というか、ん……さっきは

「は? 理不尽だったり礼を言ったり、意味不明だぞ」

「うっさい、言いたくなったのよ」

「そうかい」と、息を漏らしてふと空を見上げた。釣られて見上げた中空に明星の姿は認められず、目を凝らすと微かにデネブ・アルタイル・ベガが変わらぬ姿で図形を描いているのが観取できるのみであった。

「まあいい。結局訊きたいことは聞けなかったが、話があるならノーコンのチャンネルに書き込んでくれ、いいな」

「いえ……それは今度会ったとき、直接聞かせて。ねえ、今度はあんたの家に遊びに行っていい? どんな部屋なのか、興味あるし」

「ほう、僕の部屋に興味を持つとは良い着眼点だ。僕のような最高のオタクになりたければ、学んでゆくがよいさ」

「はいはい、キモいからさっさと行きなさい。馬鹿姉みたいに勘違いされたら困るでしょ」

「ぐっ、本当に口汚い女だな」

 お互いに、締まらないわね。ふふっ。

 今日はきっと、最悪の厄日だ。彼にとってもわたしにとっても、最低最悪の厄日だったに相違ないのだ。でも、わたしにとって今日という一日は、厄日でありながらなくてはならない大切な一日なのだと思う、そう思いたいと想うのだ。

 そんな永遠の秘め事を抱えて、今日という物語は幕を閉じた。

「よし! 頑張りなさいっ、赤星香吏!」


   *


 あれ以降姉とは一切口を利いていない。少なくとも、あと二ヶ月は話さないつもりだ。然許り劇的な変化はないが、以前のような蟠りはなく歌声には確かな充実が込められている自信があった。配信者ではなくアイドルとして大成したいという野望を捨てたわけではないが、わたしを求めてくれる人がいる以上、わたしは彼らの期待に応えてみたい。彼らが消費している時間と金銭に見合うほどの楽しみを届けることができているなんて到底思えないが、そう思うのなら尚のこと頑張るしかないと考えているからだ。頑張れと言いづらい世界だからこそ、わたし自らの意志で望んだことを頑張るのだ。ただ自分のためだけに利己的に、彼らに楽しんでほしいから、わたしで楽しんでほしいから。自分たちのためにだなんて、欺されている馬鹿な視聴者をもっと楽しませて、もっと幸せにしてやりたいから。


[ヤコン:ユキさんの声にとても癒されました。これ衣装代です。 ¥ 10000]


「ヤコンさん、スペチャありがとー♡ でも、無理はしないでくださいねー」

 スペチャとはスペシャルチャットの略語で、チャット欄で自分のメッセージを目立たせるための権利を購入する機能のことである。正直うざいのでゲーム配信時は切っているのだが、歌枠は特に投げられないと発狂するヤバい奴らがいるので仕方なくONにしている。


[アルティメットホワイトドラゴン:無理して若作りしなくていいですよ]

[アイプロガチ勢:ぶりっ子きっつ]

[海蘊ちゃん:かわいい]

[星雲:悔しいけど可愛い]


「うふふ、皆んなありがとー。今きっつとか言った奴は、後でアーカイブ見返して全員ロル垢特定して徹底的に晒して社会的に終わらせてあげるから楽しみにしててね♡」


[アイプロガチ勢:こっわ]

[アルティメットホワイトドラゴン:ゆ る し て]

[F&K-UMP:💩 ¥ 931]


「あんた、この前スナイプしてきた奴でしょ! アドミン(管理者)、やってしまいなさい。スペチャで許されると思ったら大間違いよ」

 号令をかけると汚物を流した不届き者のコメントは削除されて、金だけがわたしの元に届く。半分は配信サイトに持っていかれるのだが。


[赤眼のラインハルト:でたわね]

[ラプラス:正直こいつ好き、コメントで自己主張しないのが良い]

[F&K-UMP:💩 ¥ 9310]

[マフマフ:コメント欄が臭くなってきたな]

[realize:臭]


「いや、その程度のお金を積んでも駄目よ。『一位取るまで終われない』放送の恨みはこんなので晴れないんだから」

 このファンチ(ファンとアンチ、両方の性質を併せ持つ者)は割と古参で、最初期からずっと排泄物の絵文字だけを送ってくる生粋の変態野郎なのだが、お金を与えてくれるのと、本気でわたしが「やめて」と言うと必ず引き下がるので、わたしを嫌っているわけではなさそうだった。個人的にはウザいが、配信を盛り上げてくれることも多いので非常に質が悪い。


[F&K-UMP:💩💩 ¥ 11201]


「……、スペチャありがとう! ユーエムピーさん。また遊びに来てねー♡」


[名前を言ってはいけない田代:は?]

[刃牙童:は?]

[控え目なパンツ:手のひらくるっくるしとる]

[ポッチャマ:お清楚だったユキちゃんを返して]


「何よ、あんたらなんてただ観てるだけの『クズ』なんだから、悔しければ『上客じょうきゃく』になってみなさいよ」

 これは、昔とあるお笑い芸人が視聴者に対して付けた階級を参考にしたのだが、一万円以上のスペチャを投げる者を「上客」と呼び、それ未満の者を「細客ほそきゃくと呼び、一円も投げない者をわたしは「クズ」と呼んでいる。下手をすると炎上しかねないような発言なのだが、何故かわたしの視聴者はこの罵言を受け入れてくれているというか、楽しそうですらある。

「さて、楽しかったけど今日はそろそろ終わり。これでもわたし、女子高生アイドルだから夏休みは予定が色々あるんだ」


[蛇足の駄作:俺はずっと夏休みだよー]

[ちゃんそる:秋休みない奴おる?]


「働けニートども! ほら、ここにハロワのリンク貼ってあげるから見てきなさい」


[蛇足の駄作:ぐあー! やめてくれ、そのリンクは俺に効く]

[ちゃんそる:こいつら仕事奨めてくるから嫌い]


「仕事奨めるのが仕事なんだから当然でしょうが……ふすっ、まあいいけど。別に見てくれるならあなたたちがニートでも気にしないし、わたしを見てくれている大事な視聴者だもの。さて、今日も皆んなありがとう。次にやるゲームはまだ決めてないんだけど、決まったら告知するから楽しみにね。それじゃ、おつひめー」


[アマルガム:おつひめー]

[ቺቻቺቻの木:おつひめー]

[君の脇汗を舐めたい:神EDきtらああああああああ]

[ddddda:このEDすこ]



 自慢のようで申し訳ないが、わたしの視聴者は他の視聴者に比べればかなり良心的な人が多いと考えている。こうして配信を盛り上げることを一緒に考えてくれているし、今までに何度も間接的に救われている。まあ、こんな悪ノリの多いコミュニティでも橋姫悠希の「ガチ恋勢」なるものも割と存在するのだが。要は、言い方はよろしくないが、宛らキャバクラのように金銭で構ってもらおうという魂胆が見え見えのスペチャが飛んでくることもあるわけだ。路線変更したあの日以降は「わたしよりも素敵なパートナーを見つけて幸せになりなさい」と諭すようにしているのだけれど、彼らは盲目なる信者なので都合の悪い言葉は冗談と処理している節がある。

 そんな様子を見て思うことがあった、「恋」とはいかなるものなのだろう――彼のジェシカ(シェイクスピア『ヴェニスの商人』の登場人物)が言うように、“恋は盲目”ということなのだろうか。それほどまでに恋と呼ばれる感情は視野を狭めてしまうのか? 今のわたしにはまだ、遠くて理解が及ばないものだった。

「よし、ロールしてっと」

 午前の配信を終了すると同時に荷物をまとめて、約束通り彼の家へ向かう。有田さんとの勉強会は順調だったとは言い難いが、誰かと一緒にゲームしたりアニメを鑑賞するのは恐ろしい依存性があって、逆にわたしがサボってしまいそうになることもあった。人が孤独によって死ぬ理由を、理解した。

 そして、彼はというとわたしの配信を毎回チェックしているらしく、終わるといつも淡白な「ご苦労」を送信してくる。しかも、基本ながら見で配信に齧り付いているわけではないのが尚腹立たしい。

「いっつもこればっかり。偶には、もっと褒めなさいよね」

 一度はわたしを褒めるように促したこともあったが、そうすると「お前に魅力があるといってもお前より魅力的な奴はまだまだいるんだ、今更褒めることなどない。お前が尊敬しているであろう帚木はわきぎ澪標みおと比較して、何故お前に褒めることがないのか説明してやる」と言い出し、巫山戯た長文を送りつけてきたので二度と言わないことにした。忘れていたが、あいつは基本的に碌なやつじゃないのだ。

 ピーンポーンと聞き慣れた音の五秒後に扉は金属特有の歔欷きょきを伝えて、姿を表す男は寝巻きじみた服装で迎えてくれた。わたしが多少着飾って来たのが余計にその異質感を際立たせて、この庶民的なアパートメントでは場違いな印象を与えることだろう。

「どうした、早く入ってくれ」

「女の子を部屋に招き入れることに、多少思うこととかないの?」

「ないが、どういう意味だ? 女なら鞠だって何度も入れているしな」

 予想通り過ぎて言葉もない。

「別に、何でもない。あんたはそういう男だものね……お邪魔します」

 少しくらいはドキドキしてくれるなら可愛げもあるが、可愛げのないところが彼らしさであるのは難儀なものだ。勿論期待なんてしていない、していないが自分なりに悩んでお洒落してやったのだから少しは何か反応してくれてもよいのではないかと思うところもある。もしかして、人間嫌いの彼にとってはわたしもオッサンも同列に見られているのだろうか……? なんて、恐ろしくて訊く気も起きなかった。

「へえ……思ったより綺麗に片付いてるのね、あれだけ言うものだからもっと珍奇なコレクションでもあるのかと思ったけど」

「そう思うなら、まずはこの本棚に触れてみればいい、こういうのは僕の趣味ではないが、鞠がどうしてもやってみたいと言うから作ったものだ」

 特徴のない本棚には仕事関係と思しき書誌や小説、学術書が隙間なく並んでいる。意識の高さを感じさせる威圧的な書物の中には、自分の見知ったラノベ(ライトノベル)や漫画も並存していて、これだけでも中々の量ではあるが予想は大きく下回る。これならば、漫画の量はわたしの方が遥に多いだろう。

「ただの本棚じゃない。あ、あんた『さよなら絶望先師』とか『せいそく』好きなの?」

「ああ、香吏は書見済みなのか?」

「いえ、『せいそく』は名前というか、結構鬱要素が多いって聞いたから見てない。『絶望先師』はアニメだけね、当時の社会風刺が多くて中々に面白かったわ。特に毎回変化していくオープニングは凄かったわね、前衛的過ぎてどんな意味合いがあるかは理解できなかったけれど」

「ああ、確かにアニメの出来自体はかなり良かった、オープニング映像に関してはもはや芸術作品と言える。だが、漫画を知らないのは残念だな。この作品の最大の魅力は物語の結末にあるというのに」

「この作品ってそんな物語性あったの?」

「ああ、この作品の伏線回収は他に比肩する作品が殆ど無いほどの緻密さで行われている。全巻貸してやるから、一度読んでみればいい。鬱展開が苦手ならば無理強いはしないが、『せいそく』の結末も魅力的だ。まず表題が素晴らしい、せいそくとは如何なる意味であるのか、気づいた時には鳥肌が立って興奮したものだ」

 隙あらば布教してくるのはオタクの性なのであろうか、ならばこちらも応えてあげるのが道義というものだろう。

「はいはい、どうせ止まらなくなるだろうからそこまでよ。とりあえず、三巻ずつでいいわ、また借りにくるからって、あれ、何かこの本棚動く?」

 得意げに笑んだ鹿下は「試しに押し込んでみろ」と言うので、素直に押し込むと壁天井一面に並んだ書物が目に入る。何と隠し部屋である!

「まさに『ミンナに ナイショダヨ』というやつだ。驚いたか、驚いたのだろう?」

 この男、自分の趣味ではないと言いながらノリノリである。陽雨さんのせいにしているが、実は鹿下が作りたかっただけなのではないか?

「うわ、すっご……ゲーム、同人誌、画集、音楽CDと、よくここまで集めたわね」

「まあな、おかげで貯金は無いに等しいがこれも投資みたいなものだ」

 とても頭の悪いことを本気で言うので呆れるべきなのだが、こいつの場合どれだけ窮乏しようと何とかしてしまいそうなので気にしないこととした。

「ところで、さっきの皆んなに内緒だよって何なの? 有名なネットスラング?」

 何の意図もなく無意識的に発した言葉だった、が、鹿下は見たこともない顔色で酷く困惑して「いや、そんなことあるのか?」などと呟きながら右往左往して、五往復ほどしたところでこちらに向き直る。

「お前、あの初代『セルダの伝説』における有名な隠し部屋のメッセージを知らないというのか⁉︎ ああ、これがジェネレーションギャップというやつか!」

「同世代なんだからジェネレーションギャップではないでしょ……まず、わたしはVストとかアイプロ以外は基本浅いから、そんな古いゲームのことなんて知るわけないのよ」

 彼の隠し部屋にあるものはわたしの知らない物の方が多いくらいで、同人誌といっても殆どは同人小説に偏っていた。案外、こういう代物が高値で取引されているものなので、ここは宝物庫のようなものなのかもしれない。

「む、それもそうか……残念だ、鞠には受けたから自信があったのだが」

 もしかして、陽雨さんって鹿下と同程度のオタクなのだろうか。女オタクの仲間は是非とも欲しいところなので、一度、話しておいた方がいいかもしれない。

「本当に仲がいいのねえ、陽雨さんって一体どんな人なの?」

 鹿下は今まで見たことのない難しい顔で、作品に対して行うように彼女への印象を簡潔に述べた。

「あいつは、はっきり言えば今まで見たどんな人間よりも変人で頭のおかしい奴だな。本人に自覚はないが、僕もあいつの発言には理解に苦しむことが多いし、一見まともでどこにでもいるようで、どこにもいない人間性と認識している」

「そうなんだ……手強そうね」

 この男がここまで言う辺り、まともでないのは確かなのだろう。実際、あの時も彼女の態度、というより言動には不可解なものが感取された。

「まあいい、本題に移るぞ。前に言っていた訊きたいこと、答えてやるから言ってみろ」

 人間というのは物語のように段取りを踏むわけではない、思いつきで唐突に話が切り替わるしそこに脈絡などは皆無である。B型の人間はよく話が飛ぶという偏見があるが、実際のところ人間の話には繋がりなど基本ないものだ。だって、気兼ねない会話は脳死で行なわれるのだから。だが、虚を突かれると困るものだ。

「うっ、こっちにも心の準備ってものがあるのよ。ちょっと待ちなさい」

 言葉はないが沈黙の裡には肯定を含ませている。

 ああ、ついに聴かなければならないのかとペシミスティックな思考に取り憑かれそうになる鏡像に頭を振って、意識を再描画する。彼の者はわたしに迷いを齎し、答えではなく解釈方法を示教し、然り而して同志となった。ならば、迷うことなどないはずだ。

「前に言ったじゃない、自分に嘘をつき続けた先にある世界なんて、虚しいだけだって。何であんなこと言ったのよ、まるで、過去にその虚しさを実感したかのように――あれって、実体験だったの?」


 花、と表すればよいのか。

 わたしが花だとすれば、彼もまた花であることは疑いようのない現象なのであり、これら邂逅の持つ意味とは始まりに定めて定刻通りに発現して現存している。


「何だ、身構えて何事かと思えばそんなことか。単に、曾ての知り合いに、自分に嘘を吐き続けた少年がいたのを知っているだけだよ。そんなに気になるなら、少しばかり話してやろう。瑣末な少年の話を」


 わたしという花を求める不花らは恋の名を取って、騙って、恋とは性質を異にした我欲――欲求ないし欲望ないし欲情――を意識対象である花の偶像アイドルへと差し向ける。


「少年は生まれた時から一人きりだった。児童養護施設で育てられた彼は、親という存在そのものを知らず、誰かと関わる必要性すら理解できずにいた。彼は誰よりも臆病で、自分以外の人間全てを敵と認識しており、甚く暴力的でもあった」


 欲望とは第一象限に位置する我欲の一種であり、欲求とは第二象限に位置する我欲の一種だ。我欲は四種の欲望・欲求・欲動・欲情にマトリクス表として分類することができ、先の二種は蓋然性の高低で差異が生じると定義される。識閾下の空間では四種の我欲が時に争い、時に手を取り合って併存しながら青い鳥のように、己れの意識となる。


「結果、彼は轍を拾い、これで良かったのだと世界の片隅に座り込んだ。ただ生きるために生きる日々を続ければいい、単純なことだと思っていた。でも、少年は意想外に強欲であり人形みたく無欲には生きられなかった。少年は暫くして自己矛盾に陥り、自分の存在そのものが受け入れ難くなっていったが、それでも彼は独りだった」


 我欲とは生存の本質であり存在意義の前提であり、一般的に意志と呼ばれるものの正体でもある。とは言うものの、ドイツのベルリン大学における研究では自由意志なるものが〇・二秒間のみ存在という結果も出たという。以下は記事のからの抜粋である。


“平均的に、われわれが「動作」を始める約0.2秒前には、「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。しかしわれわれの脳内では、「意識的な決定」を示す電気信号の約0.35秒前には、それを促す無意識的な「準備電位」が現れているのだ。つまり、われわれが「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されていることになる。”

『「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果』より

https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/


 この記事から解しうるのは、どちらにしても自由に我々が選択できる意志などはないし、この〇・二秒の瞬間が「自由」と断言するには至らないということだ。そしてわたしが思うに、上記の瞬間は決して自由ではないのだろう。無論のことだが、生誕から全てが決定されているなんて思いもしないが。


「少年は楽しそうな人間、幸せそうな子供を見るたびに劣等感で苦しんでいたが、自分は彼らより稀少な存在であるために今は苦しい時期なのだと思い込んだ。自分が憐れまれる存在だなんて、自分より無知蒙昧な連中に見下されるだなんて、我慢ならなかったんだ。自分は才能に恵まれた選ばれた人間で、それ故に理解できる人間が少なくて孤独なのだろうと、思い込もうとした」


 そんな不自由なる意志を抱く彼らは果たして花の実在を信ずるが、斯くの如きファナティックの幻想はどこまで往っても幻想であり、現実を顧みることもないので、自明で明晰な命題の真偽にさえ気づかないのだろう。


「だが、ある少女は言った。僕のことをと。孤独を堪えられる強さと幅広い知識を持ち合わせている君は凄いと。見当違いも甚だしいが、少年は初めて、自分よりも不幸で可哀想な存在がいることを知ってしまった。同時に、自分がそちら側の人間だと気づいてしまった。築き上げた眇眇たる楼閣が崩れ、残ったのは砂上の地平線だけ。その景色はどこまでも虚無であるために、少年は己れが如何ほどに虚しい存在であるかを知るに至る」


 花は幻想――総ての花は花の形相かたちを与えられた『綵花さいか』であり、存在そのものの論理命題が生得的に「偽」であるがために、本物以上に本物らしく、『花』以上に美しい。これら言葉の総ては言葉以上のものではなく、我ら世界を統べるほどの効力などは矢張りないのだけれど。


「という、面白みのないよくある話だ。自分の存在意義を偽った先に待つのは、自分への悔恨か虚無だけという教訓じみた話なのだが、満足したか?」

 満足なんてできるはずがなかった。

 今のはあなたの実体験なのか?

 あなたは孤児だったのか?

 あなたは両親に捨てられたのか?

 少女とは陽雨さんのことなのか?

 複数の意識が立ち昇り、総てが至らぬままに枯れた。

 訊いてはいけない、触れてはいけないと、宛転に語る光線が桿状体かんじょうたいを刺激したから。

「え、ええ……ありがと。参考になったわ」

 こんな簡単なことなのに気づくことができなかったのは、ずっとわたしが独りだったからだろう。自分の視野の歪さを知るには、他人の視野と比較するしかない。照合と検証を重ねて自分なりの解釈をゆっくり導き出せばいいことに、気づかせてくれる人に出逢えなければ、自分は今も現実逃避に専心していたに相違ない。

 彼が齎した解釈とは、現実を歪めるのではなく現実との共存を指針としたものだった。実現性の低い「欲望」があるのなら、比較的実現性の高い「欲動」と「欲求」から始めればよい。わたしはそれを実践して以前よりも、事実として人生が充実し始めている、言い辛いが、そんな風にしてくれた彼には馬鹿でかい恩がある。一生かけても返すことができるかもわからないほどの借りを作ってしまったのだ。我ながら人生最大の失敗である。なんて真面目な思考を遮る何か、突起物が目に付いた。

「ねえ…………これ、気のせいか胸が見えてない?」

 それはどう見ても女性の胸部、というかおっぱいと乳首だった。よく見ると、女性キャラの裸体が僅かに描かれた箱がいくつも収納されている。

「は? 何を惚けたことを抜かす、見えてるに決まっているだろう。アダルトゲーム、通称エロゲなのだから。何なら、性器が見えてるのもあるぞ、ほれ」

「そんなもん見せるな!」

「おいっ、急に離すな! 作品が壊れたらどうするんだ」

 本来ならセクハラで訴えてやりたいが、こいつにはやはり悪意が無いのだろう。というか、人間嫌いな癖に性描写とかは平気なのか。

「あんたねえ……年頃の女の子にそんなもの見せる? 普通」

「そんなものとは聞き捨てならないな。いいか、脳内ピンクのお前が何を考えてるのか知らないが、『誰の脳内がピンクだ! 死ね!』エロゲは描写の制限が緩い故に非常に奥深い物語を描画するものが多々あるんだ。確かに蛇足となる交合もあるが、これらのシーンも欠かせない物語の一部になることが多い。ああ、ノベルゲームは物語を楽しむ最適解の一つだと言うのに、何故人々はそれが理解できないのだろう」

 強い罵言をスルーして物語るのを見て、怒りより諦念が上回るのが正解なのかは判断し難かった。

 昨今、というかそれなりに昔からノベルゲームの需要は大きく低下したというが、最大の原因としては全体的な活字離れだろう。いわゆるテクノロジー依存症であるわたしたちの多くは、時間と手間をかけて文章としての物語を鑑賞するという非効率さを楽しめなくなっているのだ。

「嘆いても世界が変わるわけじゃないって言ったのあんたでしょ、てか、こうごうって……?」

「ああ、交合とは性行為、俗的に言えばセックスのことだ。ただセックスだと下品に捉えられやすいと思ったので、敢えて高尚に見える言い方を選んだに過ぎない」

「せっ⁉︎ わざわざ俗的に言い直さなくていいからっ、てか、人間の造形が気持ち悪いのに、せ、性行為とかは嫌悪感ないわけ⁉」

 言葉だけで無性に身体が熱くなる、だのにわたしのことなど気にもせず彼は勝手に話を進める。これが普通なのか? わたしが自意識過剰なのか?

「いや、生物である以上性行為は自然な行為だろ。僕が嫌悪しているのはあくまで造形だけで、人間の在り方や行為じゃない。確かに裸体だと余計に造形が見えてしまうが、それ以上に物語に耽るので僕は然して気にならない」

「そういうものなんだ……やっぱ理解できないわ」

 まさか、口では人間嫌いと言いつつ、経験者だったりするのか? 相手はまさか陽雨さん……って、何を考えているのだ。深く知りもしない相手のことを邪推するのはよろしくない、このことについて考えるのは家に帰ってからにしよう。

「ふむ仕方あるまい、お前の狭い視野を矯正するために僕のお薦めを貸してやろうじゃないか」

「いらんわ! その、ええっと、苦手なのよ。性描写とかそういうの……いや人並みに関心はあるけど、他人と共有するのはって、何言わせんの⁉︎」

「自分で語ったんだろ……忙しないな。別に僕の前でやれというわけじゃない、家でじっくりくれということだ」

 楽しんで、とは変な意味ではなく言葉通りの意味でいいのよね? 彼のことだから変な意味ではないのだろうが、こんなの薦められてどうすれば。と、思い悩んでいたところ、彼は彼らしからぬ気の利いた提案をしてくれた。

「勿論、一方的に布教するつもりはない。お前も何か一つ、僕に布教して見せればいい、お互いに好きなものを共有できるよい機会だ。悪くない話だろう」

 それは、確かに悪くはない提案だと思ったというか、実のところ今日の最大の目的がその勧誘活動だったので都合が良かった。

 未だに彼さえ知らない、わたしのもう一つの趣味を共有してくれる相手を求めていて、ずっと諦めていた。しかしこれは啓示にも似た奇跡、二度と起こり得ない好機、逃すわけにはいかない。

「いいわ! その話に乗ってあげる。でも、あんたも絶対に拒否なんて許さないからね。ええっと、これ見なさい」

「うわあ……コスプレか。よりにもよって何故そんなものを」

 え、何なのその反応。

 まるで、心底嫌悪・軽蔑しているかのような眼だ。

「いや、これわたしなんだけど……もしかして、コスプレとか嫌い?」

 あっ、と何か察したように目を伏せた彼は言葉に迷っている様子で、考え抜いた結果絞り出した言葉ははっきりとしていた。

「嫌いというより、気持ち悪い。すまない、でも本気できついんだよ。現実の人間如きが物語の登場人物に扮するだなんて、僕なら自殺したくなる」

「そ、そう………」

 自殺したい、か。やばい、本当にショックらしい、心因性失声に罹ったようだ。ここまで言われてお勧めを継続できるほど、わたしは鋼メンタルではなかった、どちらかと言えば豆腐メンタルがお似合いなのだ、わたしみたいな人間は。

「あのさ、多分お前が僕に勧めたかったのって、それ、コスプレってことだよな?」

 恐ろしげに訊ねる彼の表情、こんな状況でなければそんな顔をさせたことを嘲笑し高笑いでも決め込んだだろうに、お互いに気まずくて先に折れたのはわたしの方だった。

「え、ええ、そうよ。そりゃあわたしだって、物語の人間になれるなんて思ってないわよ? でも、ほんのちょっと憧れるというか、自分でも承認欲求の塊すぎてどうしようもないのはわかるけど、わたしはあなたほど現実を受け入れてるわけじゃないのよ。現実逃避したいし誰かに直接認めてもらいたいし見てもらいたいし雑念から解放されたいし憧れの存在に近づきたいしって感じで、衝動が抑えられないのよ…………やっぱり、幻滅した……?」

 予想に反して、鹿下緋扇は馬鹿にするようにまた笑った。悔しさよりも安堵が勝るのは、既に毒されているからに違いない。こういう時、覚悟を決めるまでの時間が非常に短いのは彼の異常なメンタルの強さが表れている。

「そんなわけないだろ、幻滅っていうのは幻想から醒めることだ。でも僕は香吏に幻想を視ていたわけじゃない、偏に現実の香吏だけを視続けてきたんだ。それがお前のリアルだというのなら、僕は現実を受け入れるだけだ。モデリング(対象物のモデルを模倣する心理)は人間の性でもあるしな、否定しても詮方ない」

 モデリングはよくわからないが、何でそんな、愛の告白みたいなノリなのかとおかしくてニヤけそうになった。

「それって……やってくれるの? コスプレよ? 本気で嫌なら断ってよ? 後になって辛かったなんて言わないでよ?」

「僕を誰だと思っている、真の同志を求めるのならこれは必要な試練だ。確かに最初は辛いかもしれないが、望むところだ。僕は絶対にお前にエロゲの魅力を教えてやる、だからお前は――僕にコスプレの魅力を教えてみせろ」

 全然格好よくないのに妙に格好よい気がする自分が馬鹿みたいだ。ああ、笑える。

 どう考えても、この取り引きは彼にとって利するところが少ないのに、どうもこの男は本気でこれが自分のための試練になると考えているらしい。やっぱり彼は馬鹿なのだと思う、多分わたしよりも損得勘定に疎い馬鹿なのだ。そんな馬鹿を放っておくのも忍びないので、今後もわたしが見張っておく必要がありそうだ。

「ええ、望むところよ。じゃあ改めて、これからよろしくね♡ 鹿下君」

 わざとらしく橋姫悠希の声を作り、無意識に右手を伸ばしてしまったことに二秒くらい経ってから気づいて、彼がわたしに触れられないことを思い出した。本当に、以前なら考えられないことだ、自分から、しかも男に触れようとするだなんて、想いながら呆れながら、手を戻そうとした。

「ああ――よろしく頼む、香吏」

 でも、戻ってくるよりも先に、細くて頼りなくて情けない手指がこの熱くなった身体を捕らえて、たなごころ同士を密着させた。肉体ではなく、身体が触れた気がした。驚くほどに差異のある熱は、自明の理なる物理法則に従って、わたしから彼へと向かう八百八十二ジュール未満の熱量を生ぜしめた。彼は脂汗を浮かべて、息苦しそうに呼吸を乱したが咲みだけは崩さずにいた。

「あっ――うんっ……よろしく、鹿下」

 敬意を表して、或いは異なる思惟を鏡像に秘して、彼の答えに相応しく在るべく力一杯に咲ってやる。


 以上が、簡略的にではあるけれど、赤星香吏という少女と鹿下緋扇という少年のちょっと奇妙な始まりの物語である。語り部は、わたくし、陽雨鞠でしたー、うん、尊いよね。現実の人間でカプ厨って業が深いよね。だがそれがいい。


「あ、すまん……やっぱ耐えられん……う゛う゛っ」

「ちょっとっ、あんたのゲロ思いっきり手にかかったんだけど! せっかくちょっと見直したのにっ! 最低!」


 ちなみに、この後の夏コミで緋扇は色々頑張ってコスプレに参加することになるのだが、それはまた別の物語として語るとしよう。これはただの寄り道であり、気晴らしの物語なのだから。

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