星の花
「あなたを愛しています」
その言葉の意味さえ知らぬまま、わたしは微かに表皮に触れる光子の担い手に呟きました。呟くといっても、わたしたちに言語的な器官などなにひとつありえない以上、これはすべて夢でしかないのですけれど、この感情そのものは現からもたらされたものでありました。
眠り続け朽ち徃くわたしが、上天に輝く彼の世界に届くことは終生ないでしょう。もう、彼に触れることはないのでしょう。そう思っていたのに、まるで神がわたしの祈りを聞き届けたかのごとく赤星はわたしのまえへと舞い降りたのです。
「いってえ……死ぬかと思った」
わたしは思わず息を漏らしました、なんと彼の正体は星の寄生花だったのです。背丈が高く雄々しく赤い花弁たちは、わたしと異なり小夜のまっただなかでも自ら(あるいは相対的な関係によって)熱を発し光子に包まれていたのです。
――「あなたを愛しています」
あんなにも簡単に祈っていた言葉が、いまのわたしにはとても伝えられない。
あんなにも遠く焦がれていたものが、いまのわたしにはあまりにも近い。
その理由もしらない。
だれも、しらない。
「あいかわらず、しけた場所だな」
根が微かに振動して彼の放つ情報を掬うと、言語的に解釈されわたしのうちへと響音する。
――植物がしゃべった?
こんなことは言葉は無用でしょうけど、花が言語を持つというのははなはだ常識はずれもよいところですし、どう考えてもありえない。それでも努めて冷静に冷静に、と心がけます。
「ああ、地上の花は言葉も知らないんだったな」
驚異的なことに、彼以外にも言葉を操る物が在るらしい。わたしには悪い冗談にしか思えませんでした。そもそも、花が星に咲くこと自体が馬鹿げている。存在そのものが馬鹿げている、そう思うことは誤りでしょうか?
「前言撤回、話せないだけで言葉は通じる奴もいるみたいだな。そこの黄色い奴、おまえだよおまえ」
――わたし、ですか?
「そう、おまえ。身振り手振りが異様に激しいからな、ずっとおれのこと見てるし」
――ええっ、そんなに見てないですよ。
「見てただろ……まあいいけど、おれはおまえに用があるわけだし」
――花が歩いた! 気持ち悪い!
「おまえも花じゃねえか、かしましいな」
わたしたちにかしましいもなにもないのでは、と思いましたが、実際いまのわたしは動きが過剰でありました。とはいえ第一、花が自らの意思で身体を動かすこと自体が空想的ですしありえないのですから、わたしは動いていないはずなのです。夜風にあてられたそれを運動として捉えてしまうのも、まともな思考すら成らない植物なら仕方ないことなのです。
――わたしに用があるとは、どういうことでしょう。
であれば、われわれに表情はなく、生の意味はなく、生得的に定められた色に染まるだけ、染め上げられてゆくだけ。その花色とは裏腹に暗晦な灰色が強まるのを感じ取るだけの生命体、だからこれもすべては夢なのでしょう。彼に迷いを視たのもすべて。
「どうもこうも、おまえを星の世界へ連れていってやると言っているのだ。おれはおまえごときのことはなんでもお見通しだ、ずっと憧れていたのだろう?」
なぜ、いま、わたしであるのか。問うてもきっと彼ならこう言うに違いありません。
――「すべては偶然だ」と。
わたしは「運命」という言葉が好きでした。
すべてを諦めることができるから。
彼は「運命」という言葉が嫌いでした。
なぜなのかはまだわかりませんが、それだけは確かだとわたしの細胞が教えてくれます。なぜ教えてくれるのかももちろんわかりませんが、夢に意味を求めても詮なきことです。
――いやです、わたしはただ眺めていたいだけであなたの世界で生きていたいわけじゃない。夢を観ることができるのは、夢のなかにわたしがいないから。だのに、それさえ失ってしまえばわたしはもう。
本当に生きる意味がなくなってしまうのだと、思うのです。生まれたことに意味がない、存在そのものに意味がない……わたしにはあまりに耐え難い。意味あってこその存在であろうに、そんな馬鹿らしい無意味さを提唱したのはどんな狂花なのでしょう。
「失うかどうかは行ってみなければわからないだろう、ほら、おまえの身体はあの場所へ往きたいといまにも暴れ出そうとしている。地を捨て歩もうと這い出てくるそれはなんだ?」
ありえない、ありえない、そんなのは夢なのだから当然だ。だが、わたしまで歩く花の仲間入りをするなんてやはり何度考えてもありえない。
「そうしておまえは、言葉を世界に現象させる。このおれのように、眠っていたおまえが目覚めて発言するんだ」
――目を覚ませ。
「実のところ、世界というのはすべてが偶然なんだ。必然なんてのはありえない、これは夢でも例外じゃない。あらゆる事象が確率のもとに発生して瞬間瞬間の立ち位置によって決定されている、それが世界なんだよ」
「そんなことはありません……世界というのはすべてが必然なのです。偶然なんてありえません。あらゆる
さりとてわたしは声持つ花となっている、彼の言葉に世界が付き従うかのようにわたしの世界が風に吹かれて霧散する。これこそ果たしてわたしの望みであったのか?
「今日は月が隠れているし、おれたちには辛い強風が容赦なく吹いてやがる。だがな、同時にこの悪条件こそが星の花たるおれたちには好都合なのだ」
「月に叢雲、花に風――というやつですね。きっと神がお怒りなのですよ、わたしのような輩が神の世界に憧れるなんて身の程知らずなのだと。ねえ、やめておきましょう、未だ間に合うのですから」
「なんだよ、怖いのか?」なんて言いながら、彼はわたしを落星に乗せます。わからない、わたしは怖いのでしょうか、不安なのでしょうか。であれば、なにが怖いのでしょうか。
「なら、おれがおまえを守ってやろう。どれだけの狂風でさえおれがぶっ飛ばしてやる、神なんかじゃなくておれを信じろ。そう、すべては偶然だ。おれがおまえという花に出逢い、おまえだけを選んだのもすべて、おまえを星にすることだけのために落ちたのも、すべてが自由気ままな偶然なんだ。さあ、約束どおり星巡りの旅を始めよう」
約束……誰といつ、なんのためにそんな勝手な約束をしたのか、訊ねる気も失せる圧力に泣きそうになりながら、花が泣けるわけないだろうにと思いながら、いつの間にか落星が青い大鳥となってわたしたちを上天へと高速で運ぶのを主観的に、かつ客観的な神の視点で不思議と見つめて、赤い花身を抱きしめているのでした。
「これは、月のかけらでしょうか? どうしてこんなところにあるのでしょう」
「さあ、しらないね。でもこいつら、おれたちを案内してくれるらしいし好都合じゃないか?」
ああ、綺麗だ。
月なんてただの輝石や斜長石の塊でしかないのに、どうしてこんなに綺麗なのか。
「……月、綺麗ですね」
「……ああ、そうだな」
わたしたちは月片を意識外に置いて、どこにあるかも知れぬ花眼を相手の花弁へ向けてそう嘆き、ふと咲った。花のかんばせはいつだって、そういうものなのだから。運命に咲く
「なぜ月は綺麗だと思う?」
彼は見透かすように問う。
「これが夢だから、でしょうか?」
彼は月にあざむくよう
「これが現実だからさ、スイレン。おれたちと同様、月はまぎれもなく現実の代物だ。これだけ美しい鏡面は、常に美しいわけではなく、夜という舞台において彼女を耀かす光がなければならない。それら偶有性より生滅するものどもが、神さえ意想外な世界を変成するんだ」
神の実在なんて微塵も信じていない、かような物言いをする花は、萼を赤に包んでいた。この視座に見る地上は星あかりのようで、世界は今や空を境界とした鏡面となっている。たとえ現実だろうとなんだろうと幻像には違いないのだけれど、夢が夢であるがためにそれはただ美しいのだと、わたしはしっている。
「ほんとうにあなたは、意地が悪いですね。わたしがあすこへたどり着いてしまったのなら、あなたがどうなるかはご存知なのでしょう。わたしの気を知りながらわたしの心を考えない、ああ、どうしようもない花です、ほんとうにあなたもわたしも」
「これでいいんだよ、星に咲き果てることこそがおまえの夢であり、おれたちの契りであったろう? 夢は
憶えている、憶えていないはずなどない、けれどそんなことは望んでいなかった。わたしはひとりでよかったのに、あなたさえ生きていればそれでよかった、そんなわたしが馬鹿みたいだ。
「なぜ、あんな子供の戯れ言を真に受けてしまうの。あなたさえ生きてくれるなら、他にはなにも求めない。その契りのゆえにわたしはこの世界に咲いたというのに。ただ咲き続けて、この世界を夢のように眺めているだけでよかったのに!」
「ほんとうにそうなのか? ――おまえだって、ほんとうは自分の運命とやらに抗いたいんじゃないか?」
「なにを根拠に、そんなことを……」
「おれがヒエでおまえがスイレン、なんでだろうな。おれたちは同じ根を持つものでありながら、異なる形相――言葉を与えられたのは」
悟ってしまった哀れな花弁には、月の欠片が触れたことによるうすびかりが伝っていた。わたしの想いはなにもかも、彼を凌ぐことはない。
「なにが言いたいの……………ヒエ」
「おまえの心がいまの姿であるのなら、夜に星を眺めるのは不自然じゃないか。睡蓮は太陽の下に咲き、月下においては睡る蓮として与えられた名であるのに、おまえはただひとり夜に咲き続けている。おまえは、その時点で自分の運命に抗い朔くことを選んでいたんだよ、スイレン。おれのためにおまえがどうしたのかも、おれはしっている……そしておれはおれの意志でおまえを裏切ったんだ。おまえを、愛しているから」
「だったら、わたしをほんとうに愛しているのなら、わたしの望みどおりに生きていてよ!」
「ばーか、愛っていうのはそんな綺麗なもんじゃねえんだ。愛は欲望の一形式であって自分のためのもの以外のなにものでもない。おまえだって、おれを愛してくれていたからこうしてここにいるのだろう。だから、咲ってくれよ、おれはしあわせだからさ」
「ヒエ……あなたは……」
これは現であるが、なにもかもが夢でもあった。
夢が現実そのものであるならば、現実もまた夢そのものである。重要なのは所詮われわれの認識であり、どちらを本位とするかという問題でしかないのだ。あの花々との出逢いから世界は大きく変わってしまったが、それもまた、偶然だと言うしかない。それがおれたちの運命だった。
「いざたどり着くと、なんだか寂しいものですね」
「ああ……そうだな。生きる意味を果たした瞬間はいつだって虚しいものだ。でも、それこそが“花”の生きる意味なんだ。どれだけ無意味に枯れようと、再び花は細瑕を抱えて無意味に咲き誇る。なぜこの虚無がこんなにも心を揺さぶるのか、おれにはさっぱりわからんがな」
「まったく、そのとおりですね」
結局おれは、おまえのほんとうの望みを知ることはできない。おまえのしあわせのためにおれがしてきたことは正しかったのかと、いまも不安でしかたない。でも、やっぱり偶然で、だからこそいいんだよ。おれみたいな綵花でも誰かを愛していたと胸を張って言える、そんな偶然の在る世界がおれは、ただ、いとおしいんだ。
結局わたしは、あなたのほんとうのしあわせを奪ってしまった。わたしのほんとうのしあわせは美しき夢のなかにも、
――ずっと傍にいてくれて、ありがとう……兄さん。
――気にするな、兄は妹にわがままを言って困らせるのが好きなものだ、これでよかったのさ。これからはずっと、一緒だ。
ゆうずいとしずいを交わした二輪の綵花の痕には、星の種が植えられていたという。わたしはそれを、『星の花』と呼ぶことにした。
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