解決編

 春原は考えているフリをしていた。わからないから頼りに来たのだ。橙子がわかっているというなら、俺が追加で頭をひねる必要はない。だから、楽しそうににこにこ笑いながら待っている橙子が満足するまで、表向き深刻そうな表情を作って、頭の中ではフシギダネから順にポケモンの名前を思い出していた。経験上、十五分くらいでギブアップするのがよいことがわかっていた、それ以下だともうちょっと考えろといわれるし、それ以上だと待ちながらちょっと退屈そうな顔になる。

 グランブルまできたところで春原は音を上げた。そろそろ十五分経ったし、どうしても次のポケモンが思い出せなかったからだ。

「降参です」

「なんやあ、根性なし。いっこもおもいつかん? だれがあやしいとか」

「うーん……じつはマスターキーを持ってるホテル側の人間が犯人、とか」

「あほ。一生巡査部長やっとれ」

「でも、もし鍵を持ってるホテル側の人間が犯人なら、被害者たちがうなぎを食べに行ってるあいだに部屋に入って、コップでもなんでもいいけど毒を仕込んでおいて、被害者が死んだあと洗うなりほかのコップとすり替えるなりできますよ」

「可能か不可能かでいったら可能やけど、マスターキーなんか分単位でだれが使つこてるか記録つけとかなあかんにゃで、清掃の時間でもなんでもないのにマスターキーなんか借りよおもたら疑われるわ」

「だれにも断らずにマスターキーを使えた人物とか」

「グランドマスターキーを持ってるのは支配人か支配人代理やけど、そもそも夜はホテルにおらんね。フロントにはマスターキーがあって、たしかに記録せずに持ち出すことはできるやろけど、問題はそないなことしたらキーを持ち出すところがフロントの監視カメラにばっちり映るってこと」

 春原は肩をすくめた。「真剣にいったわけじゃないです」

「そうか? でも自殺ではないとまだおもとるんやろ?」

 そう、そこなのである――春原はこの事件が自殺ではないとおもっている。刑事としての数年の経験が、どこか自殺らしくないと告げていた。なにが自殺らしくないんだ? 旅行中に自殺したこと? いや、そんなのはたいして珍しくない。ビールをどこで手に入れたかわからないこと? 捜査に見落としがあったのかも。せいぜい考えたが、わからなかった。

「お手上げです」

「わからんか。じゃあ予定通り、自殺説の否定からいこう」

 橙子はゼミで用いるホワイトボードを引っ張り出してきた。

「さて、遺書の二ページ目に書かれた『大変申し訳ありませんでした。白根』の文言は、『筆跡鑑定が困難なほど』歪んでおり、かつ『唾液や吐瀉物』がついていた。筆跡はなんで歪んでいた?」

「それは……まさか、署名は犯人が偽造したもので、歪んでいたのは筆跡をごまかすため?」

「え、なんでそーなる。遺書とボールペンからは白根の指紋が検出されたんやし、筆跡鑑定の結果も白根で間違いないっていってるんやろ」

「じゃあ、白根が死ぬ寸前に力を振り絞って書いたからでしょう」

「そういうこと。あたりまえ、あたりまえの積み重ねや」

 橙子はホワイトボードの文章の「歪んで」のしたに矢印を引っ張って、「死の直前に書いたから」と付記する。

「ところで、これってあたりまえ? 遺書には唾液や吐瀉物までついてた。そうとう苦しみながら署名したってことやな?」

「ええ」

「なんで毒飲んでから、、、、、、署名すんにゃ」

「あ……」

「もしうちが遺書残して死ぬなら、意識のはっきりしてるうちに署名して、なんなら判子押してから毒飲む。白根はなんでそうせんかった? 計画的な自殺やとしたら意味不明や」

 春原は捜査のメモを取っているノートを必死に繰る。まだだれもその点は指摘していなかった。

「つぎ。ビール瓶からは白根の指紋しか、、検出されなかった。じゃ、コンビニでも土産物屋でもええけど、店員の、、、指紋は? かりにそれがホテルの部屋備え付けの冷蔵庫由来のビール瓶だったとしても事情は同じや、それを補充したスタッフの指紋は? ビール瓶から白根の指紋しか検出されなかったということは、COEDO ビールの瓶は購入されてからいちどは布できれいに拭われている。自殺やとしたら、白根はなんでそんなことをした?」

 言葉を失う春原をもはやきにせず、橙子はホワイトボードにじぶんの話した内容をどんどん書き加えていく。

「ここにさきに検討したビールのでどころの問題が加わる。もし白根が事件の前日までにビール瓶を手に入れていたとしたら、冷やしておく場所がない。当日うなぎ屋の帰りにうたとすると、同行した島江及び目撃したフロントスタッフの証言と矛盾する。いずれにせよ、白根がうちらの知らん手段でビールを入手したとして、きれいに指紋をふき取る理由がない。よって、このビール瓶は白根以外のだれかが白根にもたらしたものである」

 ここまではええね? と橙子は春原の表情を伺う。

「じゃあ、やはりだれかがホテルに帰った白根に毒入りビールを差し入れした? これもおかしい。ビールは半分くらい飲み残してあったが、瓶からもコップからも毒物がいっさい検出されなかったからや。白根の胃の内容物はビールのほかに柿の種だけだったが、柿の種に毒を混入させた? だれが開封済みの柿の種差し入れされて食べんねん。ゴミにも毒残ってなかったしな。自殺ではなさそうやけど、他殺やとすると、どうやったかがさいしょわからんかった。ここで安楽椅子探偵してるだけじゃおもいつかんようなトリックが使われてんのかも、ともおもった。でも、それもおかしいことはすぐわかった。なんでかわかる?」

「えーっと……」

「じゃあ、こう考えてみ。もし春原くんがホテルの部屋帰って、だれかからもらった飲み物か食べ物に手を付ける。うっ、苦しい! 毒を盛られた! さあ、どないする」

 春原はおととし牡蠣に中ったときのことをおもいだす。「……一一九番」

「そ。ふつう具合悪くなったら救急車か、まあホテルのスタッフかもしれんけど、助けを呼ぶはずや。カルフェンタニルはひとを殺そうとおもって使えば猛毒やけど、即死するほどでもない、ゆーたよな? 製薬会社の工場長やっとった白根が、だいたいのオーバードーズはすぐに救急呼べばまあまあ助かることにおもい至らんなんて不自然や。なのに白根は助けを呼ぼうともせず、まっさきに遺書に署名しようとした。なんでか」

 ところで、春原くん、お茶、おいしかった? 橙子は使い慣れていない不自然な乙種アクセントで春原の目の前の湯呑を指さす。

「まさか、野々井先輩、うっ!」

 くだらない芝居だとわかっていて乗ってやる。

「けーっけっけっけっ。お前の飲み物に毒を入れてやった。ここに解毒剤がある。これが欲しかったら……」

 すっ、と橙子が紙を机のうえにだす。「ここにサインするんだな」

「……なるほど」ただの白紙だった。

「白根はカルフェンタニルを飲まされた時点でそれがオピオイドだとわかったやろうし――じぶんの商売道具やしな――とうぜん、拮抗剤のナロキソンの存在も知っていたはずや。飛びついたやろうね。まあ、お約束にたがわず、犯人は解毒剤なんて用意してへんかったやろうけど」

「それじゃ犯人はじっさいに白根の部屋にいて、そこで白根に毒を飲ませた、ってことですか」

「そうとしか考えられない。それならビール瓶からもグラスからも柿の種からも毒がでてきいひんかった理由もあきらか。犯人はたんにビールや柿の種に毒を仕込んでへんかっただけや。べつの手段で毒を飲ませた」

「で、でも。内側のドアノブには指紋がなかった、、、、、、、、、、、、、、、、んですよ。白根が入室したあとは、白根が内側から開けない限り誰も入れないはず――」

「あほあほあーほ。来世でも巡査部長やっとれ。指紋付けずに白根の部屋入るのなんて方法はひとつやろ」

 そんな自明の方法を俺は——というか警察は——見落としていたというのか? 春原は眉を顰める。

「わかりやすいように結論からいうわ。犯人は帰ってきた白根を待ち伏せすると、エレベーターでたとこかどっかで白根と遭遇する。『白根さん、COEDO ビール買ってきました。いまからあなたの部屋で飲みませんか』。犯人の手にはビール瓶及び菓子の入ったナイロン袋。白根、カードキーで部屋のドアを開錠し、内開きのドアを開け、入室する。犯人、ナイロン袋で手がふさがっているので、肘か尻を使ってドアを抑えておいて、体を滑り込ませる――やったな、指紋付けずに部屋入れたで。付けたとこであとで拭けばええだけやけど、そうするとほかのひと――たとえばハウスキーピングとか――の指紋まで消えて不自然やから、できるだけこの手段で入室したかったやろうな。手袋とかしていってもええけど、二週間前のあの残暑で手袋してたら変人や。

 さて、入室した犯人は白根と晩酌会をする。白根がトイレに立つタイミングもあるやろ。そこで気ぃきかせて水でも用意する。もちろん毒入りのな。白根に親切を装って毒入りの水を飲ませたら、症状がでたところで解毒剤を使って脅して署名させる。あの『大変申し訳ありませんでした。白根』ってやつもな、うちらは一枚目をみてるから遺書の署名だとおもうだけなんや。犯人は『あんたのやったことはすべて知っている。短くていいから謝罪の言葉と署名を書け』とかいったんとちがうかな。あんな遺書の一部として使われると知っていたら、白根もさすがになんも書こうとはおもわんやろうさかい。で、そうこうしてるうちに助けを呼ぶこともできず時間が経過し、もちろん解毒剤なんてないので白根はそのまま死ぬ。白根は解毒剤を飲んだと信じてたから、安静のためにベッドに横たわって、そこで死んだんや。毒を飲ませるのに使ったコップは洗って伏せとけばええ。いや、自室からコップを持ち込んで、部屋からでるときにいっしょに持ってったんかな? あるいは紙コップを持ち込んだかもしれん。部屋飲みだからそっちのほうが自然かもな。そんで、いちおう遺書の一枚目を白根に触らしといて白根の指紋を付けとく。部屋からでるときはもちろん手袋をしておけばええ。ていうか、現場からはビールと菓子を持ち込むのに使つこた、店員と自分の指紋のべたべたついとるナイロン袋を持ち帰ったはずやから――現場にナイロン袋は遺留されとらんかったよな?――、そのナイロン袋のうえからドアノブに触れたんかな。そっと触ればほかの指紋も崩さん」

 まるでみてきたかのように語る橙子の論理の穴を突こうとする――が、できなかった。どうしてもそれは可能な犯行の態様だった。たしかに、それが事実であるかどうかとは別問題だ。しかし、既知の物証はすべて、橙子の説を否定するどころか、橙子の説に間違いがないことを直接、間接に物語っていた。

「たしかに――たしかに野々井先輩のいう通りであれば、自殺にみせかけて白根を殺害することが可能です。でも――」

「だれがやったかわからん、そうやな?」

 事件の真相に近づいてきた興奮と、肝心かなめの犯人がわからない焦燥が春原をいつのまにか前のめりにさせていた。けっきょくのところ、俺たちが相手にしてるのは、ただの事実じゃない。ひとだ、ひとを殺した、ひとだ――これまた河野の名言が脳裏をよぎる。トリックなんかどうでもいい、だれがやったんだ。俺たちは、だれを捕まえて、罪を償わせなければいけないんだ。

「まずまっさきに容疑者の範囲を確定しよ。この方法で白根を殺害することができたのは、白根とある程度以上親しい人間でないとおかしい。白根を殺すためには友好的に白根の部屋に入ることが必要だったが、それができたのはあの日、あのホテルには社員旅行中のメンバーだけだった。つまり、部長の島江、次長の森、係長の早瀬、あとは市川と大戸やね」

「はい、でも、その五人ならだれでも――」

「そう? 自明なところから潰していこ。いちばんかんたんなのは係長の早瀬や。彼女、車いす乗ったはるけど、現場の部屋からはホテルのスリッパの足痕しか、、、、、、、、、、、、、発見されなかった。つまり、車輪痕はなかったいうこと。前日に麻雀したっていうから、そんときはついてたやろうけど、そのあと清掃されて消えたんやろうね。というわけで早瀬はシロ」

 じつは、春原が内心疑っていたのは早瀬だった。いくらそれが政治的に正しくない発想で、犯罪捜査のおおきな妨げとなる先入観だと知っていても、毒殺は女性の殺人手段だというイメージがあった。毒であれば下半身麻痺でもなんらの苦労なく取り扱えるし。

「つぎは大戸やね。零時半に帰ってきた大戸が死亡推定時刻十時から十二時の白根を殺せるはずがない。死亡推定時刻に若干のずれがあったとしても、日付変わってから上司の部屋にビール瓶もって突撃するわけない、非常識すぎる」

 あまりにかんたんに確認されたスナックのママの目撃証言などから、それはむしろアリバイ工作だったのではと疑っていた――毒を事前に渡していたとするならばなおさら――が、そうではなかったようだ。

「で、市川。市川は下戸が原因で白根からパワハラを受けていた。下戸の彼女がビール瓶持って上司の部屋で飲みましょうなんて誘いをかけるのは不自然だし、失敗する可能性が高い。うちやったら別の手段を考える。市川にセクハラしてたっちゅう白根だったら、口実なんかなくても入れてくれそうやしね。じつはハニトラ使えるような仲やったちゅうなら、LINE の履歴かなんかですぐバレるやろ」

 それは、ここまで排除されてきたふたりに比べるとちょっと論が弱くないか。春原はそうおもい、じっさいに口にだしてそう問うた。

「うんまあ、たしかに。うちが大戸と市川を排除したのにはもうひとつ理由があって。もしうちがさいぜんにいったような流れで犯行が行われたとすると、まず犯人と白根で飲み会をする必要があるわけやけど、昭和の企業で平社員が課長と飲むことになったら、お酌をする羽目にならんか? まあビール瓶に指紋を付けたところで、殺害後に拭いてからまた白根に握らせればええだけやけど、酌をするためにべたべた触ったあとのビール瓶を現場に残したくないんちゃうかとおもってな。指紋を拭ったところで、形が崩れてみえなくなるだけで、手指表面の油脂分とかは残るおそれがあるし、心理的に抵抗がある。あんまり厳密な推論じゃないからこの部分は証明からカットしてもええけど。とにかく、いまいったのと逆のりくつで、白根を殺したのは、白根に酌をさせられる人物、――つまり、部長の島江か次長の針井か、どちらかだとおもった」

「じゃあ、やっぱり島江が――」

「――殺してない。島江が自殺に見せかけて白根を殺したんだとしたら、白根に全部の罪を着せればええ。なんで馬鹿正直に偽の遺書でじぶんの罪まで告白するんや。それに、犯人が白根の部屋に堂々と入り込んで犯行を行ったのは、ある程度髪や衣服片を落としていっても、指紋を残していっても、それだけでは疑われないとおもえたから。つまり、前日にも白根の部屋に入室していたから。けっきょく、犯人は――」

 白根より偉い、次長。麻雀をするために事件前日も白根の部屋を訪れていた。右手を怪我していた男。

「……針井仙蔵」

「ね? ビール瓶にも菓子袋にも、手ぇひとつ触れなくてすみそうやろ?」


 数週間後、針井が殺人の容疑で逮捕されたとの報せを携えて、春原がふたたび橙子の研究室を訪れた。

「内側のドアノブに白根の指紋がなかったのが決定的やったな。あれのせいで、ビールが白根以外の持ち物だったことが決定的になった。針井が帰ってきた白根と出会えたのは偶然やろうけど、そういういみでは、いったん部屋に帰った白根にドア開けてもらうほうがよかったやろな。針井からしたら白根がドアノブに指紋をつけたかどうかなんて知りえないからしゃあないけど」

 春原が謝礼として持参したよもぎ餅を食べながら橙子が事件を振り返る。

「ていうか、針井は犯行後に白根の部屋の冷蔵庫からビールを持ち出せばよかったのでは? そうすれば針井が持ち込んだビールを白根の部屋の冷蔵庫由来のものと錯覚させることができる」

「白根にしぜんに冷蔵庫を触らせることができなかったんやろね。冷蔵庫の内側に白根の指紋がなければ作為のあとが目立ちすぎる。遺書とかはあとからでも死んだ白根に握らせられるけど、冷蔵庫は動かせへんから、死後に指紋を偽装することもできひん」

「なるほど」

 だから橙子は冷蔵庫の指紋の有無について訊いたのか。

「ところで、どうやって針井を逮捕したん」

「けっきょく、動機の線でいきました。針井の娘――白根のアドレス帳に入っていたという、加子のことですが――について調べを進めていくうちに、加子がカルフェンタニルを混ぜ物として使用したドラッグを使用していたことが分かりました。白根と加子のつながりは、加子がじしんや仲間のために使うドラッグを、卸価格で入手するためのものだったようです。で、ドラッグの見返りとして加子がなにを提供したのかはご想像にお任せしますが、針井が殺意を抱いたのは自然なことといえるでしょう」

「ははーん、えげつなあ……」

「事件の経過はほぼ野々井先輩の推理どおりです。じっさいには、まず毒を少量飲ませ、解毒剤で白根を釣って〝謝罪文〟を書かせたあと、解毒剤と称して致死量の毒を追加で飲ませたらしいですが」

「え、えげつなあ……」

 飲み物に毒を入れる際の失敗パターンのいちばんは、味やにおいの異変にきづかれて途中で吐き出されること、にばんめは致死量を飲ませられないことだが、はじめに弱めの毒を飲ませてから、解毒剤と称して致死量の毒を飲ませる方法は、たしかに毒殺の手立てとしてはかなり確実だ。被害者は、解毒剤と信じている錠剤なら何錠でも喜んで呑むだろうから。

「あとはれいの遺書を印刷したプリンタを特定して――針井の自宅近くのコンビニのものでした――、印刷された日時の当該コンビニの監視カメラの映像を取得しました。また、川越市内で COEDO ビールを販売しているコンビニ、スーパー、土産物屋を総当たりして、白根がビールを購入した店舗を特定しました。一回帰宿したあとに変装してスーパーで買い物をしたらしいですね。片手をけがした人間が有人レジで買い物をしたら店員の記憶に残るでしょうから、それを危惧してセルフレジを使うほどの念の入り様でしたが。証拠を突き付けていって、このあたりで自白しました」

「なるほど、警察はそうやらはるんやね」

「捜査対象を針井に絞り込んで捜査できたので、手間としては数分の一になりましたが」

「ふふん、うちのおかげや」

 なにも答えず、春原は橙子が茶を淹れているのを眺める。もし毒が入っていたらどうしよう、と考えながら。とはいっても、いつも、いつまでも毒殺を警戒しておくことなんてできない。じぶんが作ったものだけで飲食をまかなうのは不可能だし、かといって口に入るものを提供してくれるひとや企業すべてを疑い続けるのは正気の沙汰ではないからだ。

 毒殺においてじっさいに用いられている凶器は毒ではなく、信頼だ。危険度からいえば毒殺なんてたいしたことはない。一分もあれば道具もなしに行える絞殺がもっとも怖い。それに比べれば毒なんて。にもかかわらず中世のひとが銀の食器を使ったのは、震災のときひとびとが井戸に毒が投げ込まれたという嘘を信じたのは、日々の生活を成り立たせている〝信頼〟が、いかにあやふやなものか知っているからだ。ゲーデルはその晩年、毒殺を恐れるあまり妻の手料理しか食べられなくなったという。それはかれが晩年精神に失調をきたしたせいなのだろうか? 論理学者はただ冷静に、適切にリスクを評価しただけかもしれないではないか?

 あほくさ。春原は橙子に気づかれないようにちいさく首を振ると、湯呑に口を付けた。橙子もよもぎ餅を食べ続けている。にこにこと笑って、東京にもまともなお菓子屋さんあるんやねえ、などといいながら。









―――――――

おまけ

なくもがなの採点基準


いち(各十点、計二十点)

・自殺であれば毒を飲んでから署名するはずがない

・ビール瓶に店員等の指紋が残っていないのがおかしい

に(各十点、計三十点)

・犯人は帰宿した白根を部屋飲みに誘い、白根と同時に入室した

・会のさいちゅうに毒を飲ませた

・解毒剤を餌に謝罪及び署名を作成させた

さん(各十点、計五十点)

・部門旅行のメンバー以外は犯人ではない(犯行様態から)

・早瀬は犯人ではない(車輪痕から)

・大戸は犯人ではない(アリバイから)

・市川は犯人ではない(下戸であることから)

・島江は犯人ではない(動機から)

・針井が犯人である(ここが不正解の場合合計点からマイナス三十点)


 それ以外のロジックはおまけなので加点要素とはしていませんが、合ってたら好きに加点してもらって構いません。

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川越ビール毒死事件 田村らさ @Tamula_Rasa

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