川越ビール毒死事件

田村らさ

問題編

登場人物


島江敬太郎…………某製薬会社薬事部部長

針井仙蔵…………同部次長

白根博之…………同部薬事課課長

早瀬博美…………同課薬事第一係係長

市川元子…………同係係員

大戸虎彦…………同係係員

村井…………ホテルスタッフ(ハウスキーピング)

針井加子…………針井の娘


春原重吾…………埼玉県警察川越警察署刑事課強行犯係巡査部長

野々井橙子…………魚病学研究者





 だれかがドアをノックする音が聴こえたので、野々井橙子は学生のレポートを採点する手を止めて立ち上がった。学生が訪れるはずはない――新型感染症の流行に伴う緊急事態宣言で、一部の学生しか登校できなかった――し、事務の山下さんはノックしない。まともな客なら来意を事前に伝えてくるはず。ということは、またあいつか。橙子はドアを開けずに誰何する。

「だれや?」

「警察です」

「警察の、だれや」

「川越署刑事課、春原巡査部長です」

「好きなポケモンは?」

 扉の向こうから咳払いする音。

「……ネンドール」

「もちものは」

「じゃくてんほけん」

「入り」

 橙子はドアを開いた。どうやって背広が引っかかってるのかもわからないほどのなで肩、なにに謝っているのかと疑いたくなるような猫背。春原重吾の顔をみたとたん、抗いがたかった眠気がどこかに消え失せるのを感じた。

「毎度のことですけど、このやりとり、必要ですか?」

「テロリストが春原になりすましてたらどないする」

「テロリストもネンドール好きだったらどうするんですか」

「たしかにじゃくほトリルだいばくはつはテロリストっぽいなあ」

 椅子に座らせて熱いお茶を出してやると、春原は胸ポケットからハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。九月の中旬で、残暑もさすがに収まってきてはいたが、外で活動するとまだ汗がにじんだ。

「で?」

 橙子は期待に目を輝かせて訊く。

「自殺です」

 淡々と春原が回答する。橙子は天を仰いで、それから舌打ちする。

「つまんな」

「……警部は自殺だと」

「死因は」

「毒です」

「遺書は」

「それらしきものは」

 橙子は椅子のオフィスチェアの背にもたれかかって盛大に軋ませる。

「自殺やん、それは」

「野々井先輩もそうおもいますか」

 一八〇の大男がパイプ椅子のなかでちいさくなる。この男は橙子が学部生だったころのサークルの後輩だった。春原は学部を卒業するとそのまま県警に就職し、橙子が留年したり休学したりしながらのんびり博士号を取るまでのあいだ、ふたりのあいだにまったく接点はなかった。

 事情が変わったのは去年の五月のこと。ちょうど橙子が運よく RA の職を得た春、隣の学科の准教授がキャンパス内で殺害されたという事件があった。そのとき、捜査陣に加わっていた春原と再会したのだった。

 橙子が准教授殺害事件の解決につながるような洞察を披露したことがきっかけで、それから春原は捜査が行き詰まると橙子に助けを求めるようになった。

 うち、魚病学が専門で、犯罪は畑違いなんやけど。口ではそういいつつも、橙子は春原のたまの来訪を心待ちにしていた。研究対象にはそれなりの愛着があったが、おそらく魚のはらわたばかりみているうちに三十代前半が終わるという未来から目を背けたいときもあったし――それに、学部生時代はミステリ研に所属していたのだ。

「春原くんはそやないおもとるん?」

 春原は口を開いたり閉じたりした。かれの背後の水槽で、ギンブナがまったくおなじ動作をしていた。

「だって、これから自殺しようって人間が、土産物屋で COEDO ビール買いますか?」


 事件の通報があったのは二週間前、九月六日の日曜日の朝だった。亡くなったのは都内某製薬会社の薬事部課長の白根博之。白根は社員旅行で同社社員数名と川越を訪れていた。チェックアウト時間になっても一向に起きてこなかったうえ、携帯電話による連絡もつかない白根を不審がった社員がホテルスタッフに確認を依頼した。スタッフが内線で白根の客室にコールするも反応はなく、もし急病だったら、と社員の市川元子がとくに訴えるので――旅行の幹事であった市川が気にしているのが課長の安否ではなくバスの時間なのは明らかではあったが――、市川の立ち合いのもと、マスターキーで白根の客室を開錠することをホテル側は了承した。

 果たして、白根は客室内でベッドに仰向けになって息絶えていた。遺体の周囲には尿失禁、脱糞、吐しゃ物が散乱し、部屋の異臭にはさすがにホテル業二十年のベテランフロアキャプテンも顔をしかめたという。それでもかれはあわてず一一〇番通報し(白根の死は疑いようもなかったから、さいしょから救急にはかけなかった。じつは、かれが客室で死んだ客をみるのは二度目だったのである)、しかるのち、警ら中の機動捜査隊並びに川越署刑事課強行犯係及び鑑識係がただちに現場に臨場した。

 鑑識が一通り下足ゲソ痕や指紋採取を済ませ、証拠品の写真を撮り終えると、ようやく春原たち刑事課の連中は現場への立ち入りを許された。ミクロは鑑識がやる、おれたちはマクロの視点を持たないといかん、とは春原の直属の上司である河野警部の口癖であったが、春原は教えに従って部屋の入り口付近から現場の状況をまず一枚の絵としてとらえようとした。

 内開きのドアを開けると居室につながる二、三メートルの通路が伸びており、風呂、トイレがその左側に並んでいる。その先の居室は十二畳ほどの広さで、東向きの窓に向かって右側の壁には大きめの書きもの机、テレビが、左側の壁にはダブルベッドが備え付けられ、窓側にはソファ、ローテーブル、冷蔵庫が並ぶ。およそどのホテルにもありそうな設えものが窮屈そうに収まっている部屋だった。荒らされた形跡や争った形跡はない。

 すでにきちっと両手にはめている手袋を、口のところでひっぱったりしながら呼吸を整えて、春原はすでに捜査員でごった返す室内に足を踏み入れた。

 遺体はまだベッドにそのまま寝かされていた。この時点で死因はまだ特定されていなかったが、春原が以前目にしたことのある、薬物の過剰摂取で死んだ暴力団員の遺体に状況は非常によく似ていた。遺体に外傷がないことだけ確認すると、死因の特定は検死の仕事と割り切って春原は部屋のまわりの状況に目を向けた。

 窓際のローテーブルには名産である地ビールの COEDO ビールの瓶が二本(毬花、伽羅の二種)、ビールが半分ほど飲み残されたコップ並びに柿の種及びさやえんどう等のスナック類(柿の種の小袋が一袋のみ開封されており、中身は空だった)が残っており、ここで白根は最期の晩酌をしたものと考えられた。

 一方、ベッド足元側の壁に設置された書きもの机の上にはより興味深いものが残されていた。A4 コピー用紙二枚にわたる書類で、二枚目には白根の署名があった。書類の上にはホテルのロゴ入りボールペンが転がされ、書きもの机備え付けのメモパッドのペンホルダーにはペンが差さっていなかったため、指紋を鑑定するまでもなく当該メモパッドに付属するボールペンを使用して署名をしたものと推測された。

 四つ折りにされていた折り目のあるその書類に春原は目を通した。大した分量ではなかった。そこには大略以下のようなことが書かれていた。曰く、白根は薬事部課長になる前、同社系列の中国企業が所有する工場の工場長として河北省に五年ほど赴任していたが、その際に、工場長としての立場を利用して、カルフェンタニルの密輸ルートを構築した。それから日本国内にもたらされたカルフェンタニルの量は正確にはもはやだれも把握していなかったが、白根はチャイナマフィアから巨額の見返りを受け取った。その密輸事業の、日本側における手引人が部長の島江だという。ほんとうは乗り気ではなく、マフィアに脅されたのだ、金にも手を付けていない、ただ、カルフェンタニルが混ぜ物として使われたコカインやヘロインで命を落とす若者が急増するにつれ、現世では背負いきれない責任を覚えた、かくなるうえはみずからの命をもって償う、とのことであった。これが一枚目の内容であり、ここまでの文書はパソコン等で作成され、印刷されたものであったが、二枚目には「大変申し訳ありませんでした。白根」とかなり歪んだ肉筆で認めてあった。その乱筆ぶりは筆跡鑑定が困難なほどであったが、ひらがなで右下がりになっていく文字列を漢字で無理やり平行に戻そうとするクセや、「根」の最終画を不必要にハネさせるなどの数種の筆癖から、けっきょくのところ白根のものでまちがいないだろうと鑑定された。文字の上には唾液や吐瀉物が飛び散り、まさに死の直前に力を振り絞って書いたものとみられる。

 のちに検死の結果わかったことだが、死因はまさにそのカルフェンタニルによる中毒死であった。


「ちょおまち、カタカナ語がようわからん」

「カルフェンタニルですか」

「うん、なに、それ」

「オピオイド系の麻薬です。カルフェンタニルはフェンタニルのアナログで……」

「あ?」

 春原は肩をすくめる。

「一万倍強いモルヒネみたいなものです」

 なるほど、橙子はあごの下をつまむ。

「最初からそういえばええにゃわ。で、飲むとどないなる」

「過剰投与された場合、ですよね? 適量ならただの医療用の麻薬ですから。で、過剰投与された場合ですが、数秒以内に効きはじめて、強い陶酔感と眠気を覚えるようです。投与された量や、それまでオピオイドをやったことがあるかどうかでだいぶ変わりますが、数分から数時間で呼吸困難に陥って死にます。白根の直接の死因は吐瀉物をのどに詰まらせたことによる窒息死でしたが――野々井先輩、『緑は危険』好きだったでしょう。あれのラストシーンで実に効果的に用いられた薬物はモルヒネですが、急性中毒の症状としてはあんなかんじです」

「ブランド! 懐かしいなあ。もう何年も読んでへんわ。――で、味とか匂いとかは?」

「ありません。ていうか、すくなくとも、青酸みたいに飲ませようとしても無理なほどの強烈な匂いや味はありません」

 橙子がなにを訊きたがっているのかは春原も理解しているようだった。「ただ、誰かがビールあるいはおつまみに毒を仕込んだとするなら多少問題があって、ビールの飲み残しや菓子のゴミからはまったく毒が検出されませんでした」

「カプセル」

「も、使われていません。胃のなかにはその晩おつまみに食べたと思しき柿の種だけが未消化の状態で残されていました。カプセルを用いたとすればこれも確実に溶け切らずに残っていたでしょう」

「あ、胃の内容物。死亡推定時刻はどうだったん」

「七時頃に食べたうなぎが十二指腸を通過中でした。直腸体温もあわせて考えると、死んだのはだいたい午後十時から十二時でしょう。検死した先生はわれわれとは昵懇ですが、かれのいう『だいたい』は『九十五パーセントくらいの確度で』という意味です。」

「なるほど。だいたいひとめみた現場の状況はわかった。続きを聞かせてもらおか」


 社員旅行の参加者は白根を含めて六人。ずいぶん少ないな、とおもったが、昨今の風潮として、そもそも若い社員はこういったイベントを嫌がったし、子育て中の女性社員(薬事部には多かった。どこの会社にもある、ママさんが集められがちな部署のようなものだろう)は週末に社員旅行など行けるはずもなかった。そこに新型感染症の流行もあわさって、この人数しか集まらなかったのだそうだ。

 部長の島江敬太郎、五十五歳。これは先の遺書で密輸の日本側手引き人として名前が挙げられていた人物のことと思料されたが、捜査陣はひとまず遺書の内容を容疑者候補には知らせないでおくことにした。次長の針井仙蔵。四十七歳。利き手の右手を怪我しており、事件当日は包帯で吊っていた。死亡した課長の白根博之。享年四十二歳。薬事第一係係長の早瀬博美、三十六歳、車いすに乗っていた。中学生のころスポーツ事故で脊椎を損傷してからずっとそうらしい。そして第一係の市川元子(二八歳)と大戸虎彦(二六歳)。ふたりはいわゆる麻雀ができる若手として認識されており、大の愛好家であった白根に社員旅行への参加を強要されたとのことだった。

「白根と市川、大戸以外に麻雀ができる人はおったん?」

「次長の針井も初心者ながら打てたようです。ですから、いちおう四人で卓は囲めることになりますね」

 機捜と鑑識が採取した現場の下足ゲソ痕や指紋の分析を開始するのと平行して、川越署刑事課の連中はこの容疑者たちに個別に事情聴取を行った。

 かれらの証言をまとめると以下のようになる。事件当日は午後六時前から市内のうなぎ屋で夕食会があり、それには全員が参加した。午後八時ころにコースメニューが出切り、散会の流れとなったところで、針井、早瀬、市川がホテルへ徒歩で帰った。うなぎ屋はホテルから徒歩二十分ほどの距離にあったが、針井だけがおそらく先に帰ったという。

「市川さんが早瀬さんの車いすを押してて、ぼく、歩くの速いから、信号のところで彼女たちを置いてっちゃって、で、彼女たちも笑って『次長は先帰っててくださいよ』って手を振ってたので、そうしました」とのことだったが、これは市川及び早瀬も同内容を証言した。

 一方、島江、白根、大戸の三人はうなぎ屋に残った。島江、白根が従前より楽しみにしていたという、テニスの海外大会の中継がちょうどはじまってしまったので、帰宿せずにうなぎ屋のテレビで試合を観ることにしたためだ。大戸はテニスに興味などなかったが、単純に上司連中のおごりを期待して残った。試合は一時間半程度で終わり、九時半ころにうなぎ屋を出た島江と白根は十時前にホテルへ帰った。大戸はまだ飲み足りない、と宣言し、市内のスナックに河岸を変え、日付が変わるころまで飲んでいたようだ。これはスナックのママや常連客からすぐに証言が取れた。東京から来た若者がやけに慣れたふうで居座るのでよく記憶している、とのことであった。

 宿に帰ったあとは、島江、針井、早瀬、市川のいずれも、大浴場に行くくらいのことはしたが、ホテルからは出ておらず、おおむね自室にひとりでいたとのことであった。大戸も午後零時半ころに帰室するとそのままシャワーも浴びずに寝たとのことであった。

 朝食はバイキング形式で、起きてきた人間から自由に食べることとなっていたが、七時半ころに予定を合わせて食堂に現れた女性陣ふたり(早瀬、市川)のテーブルに、その後遅れて現れた島江、針井、大戸も参加する形になった。白根は最後まで現れなかったが、チェックアウト時間ぎりぎりまで寝ているのだろうと笑い話になった。そのあとは既述の通りで、チェックアウト時間になっても起きてこなかった白根はたしかに部屋で寝ていたが、かれらの予想とはすこしちがって永遠の眠りについていたというわけである。

 そうこうするうちにいちおうの鑑識結果が上がってきた。まずは足痕跡係。室内のカーペットからはホテル備え付けのスリッパの足跡が検出された。ホテルのスリッパは赤青の二色があったが、サイズはすべて同一だったことに加え、カーペットの毛が短すぎたため、サイズや体重のかかり具合などから足跡が何種類存在するかを鑑別することは不可能だった。ただし、スリッパ以外の痕跡は土足、裸足等に関わらず一切認められなかったと下足痕係は付言した。

 続いて指紋係。内開きのドアの外側のドアノブから二種類、内側のドアノブから一種類の指紋が確認された。これについては、内外の両方についている指紋がホテルのハウスキーピングのもの、外側のみについているものが白根のものとのちに判明した。

 当該ハウスキーピングの村井は午後六時過ぎ、社員たちが食事中にマスターキーを使用して部屋へ清掃に入ったと証言した。厳密にいうと清掃ではなく、ターンダウンサービスであったが。ベッドスプレッド――ベッドの足元にかかっている謎の帯のことをそういうらしい、春原は初めて知った――を外し、客がいつでも寝られるようにしておくサービスである。春原はそんなサービスを一度も受けたことがなかったが、高級なホテルのみで提供されるものらしい。たしかに、このホテルは川越で最も格の高いホテルだった。

「ターンダウンでお掃除まではしないことになってるんですけど、ただまあ、こういうご時世なんで、お客様の手が触れそうなところはついでに掃除していくことになってまして、たしか昨日の夜も使用済みのコップを洗ったり、ドアノブをアルコール消毒したりはしたとおもいます」

 と、白根の部屋を担当したハウスキーピングの村井は証言した。

「室内に白根とその清掃員以外の指紋はどのくらいあったんや」

「それが、けっこうあったんですよ。というのも、事件前日――つまり金曜日ですが――の夜に前述の麻雀ができるメンツ四人、つまり白根、針井、市川、大戸が白根の部屋で麻雀をやったそうで。ベッドシーツ、テーブル、椅子から、水回りの蛇口、各種スイッチ類まで、かれらの指紋がべたべたでてきました。付け加えるなら、髪、皮膚片や衣服の繊維といった微物も。あんまり嬉しくないですが」

「ふむん。それと、遺書及びビール瓶からは?」

「白根の指紋のみが検出されました。加えて、そのそばに転がっていたボールペンも同様に白根の指紋のみが検出されました」

「まあそうやろうとはおもったが」

 そして写真係。二泊三日の小旅行だったから、白根の持ち物は非常に少なかった。デイパックの中身は圧縮袋に入れた下着及び靴下の替え、財布、鍵、文庫本(半村良)、携帯電話の充電器、折り畳み傘のみ。財布の中身は二七〇〇〇円と小銭がすこし、免許証、クレジットカード、ポイントカード類。ほかには軽い外出用とみられるウェストポーチ。中身は観光地のパンフレット類のみだった。事件に関係しそうなものはひとまずみあたらなかった。


 捜査のこの段階で、捜査陣は他殺の可能性を薄弱なものとして評価していた。なによりも自筆署名付きの遺書様書類が発見されたこともあるし――。二日ほどして、ビールの飲み残しや菓子のゴミから毒物が検出されなかったという鑑識結果がでたこともこの判断を強めた。誰かが白根に毒入りのビールや菓子を渡したという線が弱くなったからだ。トリックの可能性は否定できなかったが。また、ドアノブの指紋の付きかたの件もある。ハウスキーピングが清掃、消毒を行ったため、ドアノブは事件当日の午後六時に一度まっさらな状態になった。そこにハウスキーピング自身が出入りするために内外のドアノブに指紋を残したのを除けば、ドアノブについた指紋は外側の白根のものだけである。また、第一発見者のフロアキャプテンの指紋が発見されなかったのは、かれがシルクの手袋を着用していたためであった。帰室した白根が部屋に入るために外側のドアノブに指紋をつけたことはとうぜん疑いようもない。内側のドアノブから白根の指紋が検出されなかったのは、白根がそのあと部屋からでなかったこと、あるいは訪問者を受け入れなかったことを意味する。ホテルのドアはオートロックで、内側からしか開けられないからだ。


「なのに、春原くんは自殺やないとおもたわけや」

「はい」

「なんで?」

 春原は若干ためらうようなそぶりをみせたが、すぐに居住まいを正して口を開いた。

「現場には COEDO ビールの瓶が二本残されていましたが、冷蔵庫のなかにも COEDO ビールが入っていたからです」

 ホテルの有料冷蔵庫といえばぼったくり価格に設定しているところもないわけではないが、当該ホテルは格式が高く、つまり部屋備え付けの冷蔵庫のようなものを収入源とみなしていないこともあって、ビールは市中の土産物屋と同一の価格で販売されていた。

「なのに、なんで白根は部屋の冷蔵庫の COEDO ビールを飲まずに、わざわざ外から買って持ち込んだんだ? 不自然じゃないですか」

「部屋の冷蔵庫に入ってるって知らんかったんとちがうん」

「野々井先輩、ホテルの部屋入って冷蔵庫確認しないこと、あります?」

「ないな。でも、たとえばうなぎ食ってる最中に自殺のことを考えて、帰り道に最期の晩酌を豪華にしたろおもて地ビール買ったんかもしれんやん、そんな不自然?」

「うなぎ屋からの帰路をともにした部長の島江が一度もコンビニや土産物屋には寄ってないと証言しています。また、ホテルに着いた白根と会話したフロント係も、そのとき白根がビニール袋の類を持っていなかったといっています」

「なんでそんな細かいことを証言できんにゃ。フロント係なんて一晩に百回は人と会話するやろ」

「白根が、出発時にほんらいフロントでは預からないはずのカードキーを無理やり預けていったことでとくに記憶に残っていたそうです。『俺こんな薄いの絶対失くすか折り曲げちゃうからさ』といって、押し付けるように出ていったんだとか。だから、返ってきた白根にカードキーを返却したときのことも鮮明に覚えていると。加えるなら、白根は手ぶらで、荷物はちいさなウェストポーチだけだったようです。ビール瓶二本はまず間違いなく入りませんし、そもそもウェストポーチに炭酸を入れて歩くバカはいないでしょう」

「ほな、ビールはどこからでてきたん。白根はホテルに帰ってからビール買うたんか?」

「それもあり得ません。部屋の冷蔵庫には COEDO ビールが入っていますが、ホテルの売店やレストランでは COEDO ビールを提供していませんから」

「ほっほう」

「ね、おかしいでしょう」

「や、待ち。菓子やビールはべつに事件当日に用意せなあかんこともない。前日までに買うてあったとも考えられる」

「ホテルの冷蔵庫はれいのスイッチ付きの小部屋で区切られてる形式で、持ち込んだ飲み物を入れるスペースはありませんでした。最期の晩酌に生ぬるいビール飲みたいですか?」

「ああ、あれな、取り出すと勝手にチェックアウト時に会計がこなっててびっくりするやつ……」

「前日に冷蔵庫のなかから二瓶飲んで、開いたスペースで冷やしておいたということも考えられません。取り出したらその時点でホテルの会計センターに勘定が行きますが、白根の部屋の冷蔵庫は一度も使われてませんでした」

「よおそないなことまで調べたわ。……ようするに、白根は冷蔵庫のビールを飲んでなければ、外からビールを持ち込んだわけでもないと」

「はい」

「つまり、誰かが毒入りのビールを、帰ってきた白根に渡したんちゃうか、と」

「……はい」

 橙子は椅子から立ち上がると、研究室内の水槽ひとつひとつを回ってエサやりをはじめた。春原は膝の上に手を置いてじっと待っていた。もし橙子が自殺であると結論を出すならそれはそれでかまわない――納得のいく理屈さえあれば、とおもいながら。

「せやな、自殺とは限らんかもしれん」


 一通りエサやりを終えた橙子が、エサなしに各水槽の前をぐるぐる巡回する。

「ただ、だとしたら遺書の問題はどうする」

「……遺書は何者かによる偽装だったのかも」

「かもしれんなあ。……てゆうか。遺書の中身はほんまのこというとったんか? 密輸やらなんやら、にわかには信じられんこというとったけど」

「組対とか麻取が扱ってるんで我々は詳細までは知りませんが……じつは、大筋で正しいみたいで。この事件が起こるだいぶ前から捜査は進んでたみたいです」

「ええ……」

「白根と島江が関与してる、ってところまではほぼ確実らしい。どのように関与したかはまだわかってませんが。……つまり、島江には動機があるってことになりますよね? 捜査の手が及んでることを感知した島江は、密輸の共犯の白根を、ゲロる前に始末したかった」

「うーん、ま、理屈は通ってる」

「無理がありますか」

「まだわからん。動機といえば、ほかの連中に動機はあったん?」

「びみょうですね。市川は体質の問題で一滴も酒を受け付けず、そのことで白根から『酒が飲めないやつを出世させるつもりはない』と日常的にパワハラを受けていたようなので、動機が皆無とはいえませんが」

「昭和の会社か?」

「薬剤メーカーは体育会系なとこ多いらしいですよ。白根は市川にパワハラをする一方でしっかりセクハラもしていて、市川が殺してやりたいともらしていたのを聞いたことがある、と大戸が証言しています。大戸は市川に気があるらしく、市川のために大戸が罪を犯したという想定もできます」

「重ねて昭和やな~。まあそれで殺すかどうかはともかく」

「また、動機に関連するかはわかりませんが、白根の携帯電話の連絡先に針井仙蔵の長女である針井加子のアドレスが含まれていました。加子は十八歳になったばかりです」

「いくら昭和の企業のオッサンでもさすがに上司の娘と援交はせんやろ」

「その点も含めて捜査中です」

「係長の早瀬は」

「それが、むしろあのグループのなかでもっとも白根と関係が良好だったのが早瀬だったそうで。かなり親密な仲だったかもしれない、とは島江及び市川が証言しています。早瀬の下半身麻痺を考えると、肉体関係がなかったことだけは確かですが……」

「白根と早瀬はそれぞれ既婚なん」

「どちらも既婚です」

「ふんふん」

 それきり橙子は黙って考え込んでしまう。事情を知らないひとがみたら、水槽のホヤとにらめっこをしているようにしかみえなかっただろう。

「みっつ確認させて」

「はい」

「ひとつ。冷蔵庫には指紋がついてたか、ついていたとしたらどのようなつきかただったか? ふたつ。カルフェンタニルを飲んでも即死したりその場で気絶したりはしぃひんよね? つまり、口に含んで数秒で行動不能になったりはせんか、てことやけど。みっつ。カルフェンタニルには解毒剤があるよね? 『緑は危険』のモルヒネには解毒剤があったさかい、たぶんあるんちゃうかおもってるけど」

 春原は廊下に出て、すぐさま不明点を捜査本部の警部に電話して確認を取った。十分ほどして部屋に戻ってくる。

「ええと、冷蔵庫の指紋の件です。ハウスキーピングの村井がターンダウンサービス時に在庫チェックを行い――就寝前に飲酒する客が多いため、かならず確認することになっているそうです――あわせて冷蔵庫の筐体及び内部の清掃を行ったそうです。よって、冷蔵庫には村井の指紋しか残されていませんでした。

 カルフェンタニルの件。カルフェンタニルはたしかにモルヒネの一万倍の効果を持つ強い薬ですが、だからといって即座に死、あるいは昏倒に至らしめるまでの効果はありません。致死量はたしかにモルヒネやヘロインに比して大幅に少なくて済みますが、機序の面からいって、呼吸抑制が致死的になるまでの時間が数秒にまで短縮されることはありえないとのことでした。

 解毒剤についてもお察しの通りで、たしかに存在します。ナロキソンが効きます。医師、看護師、薬剤師であればこのくらいは常識であろうとのことでした」

 橙子はこれを目を閉じて聞いていた。そして、しばらくしてからいった。

「わかった」

「え、わかった、って」

「事件の真相や。ここまでの春原くんの話で、絶対確実とまではいわれへんにしても、『だいたい』こうやったろうという想像はついた。登場人物全員が――ひとを殺すという決意ただその一点を除いて――常識を有していると仮定する限り、事態は高い確率でこうであろうという意味での『だいたい』や。

 論証はつぎのように行われる。いち。この事件はなぜ自殺ではないのか? に。犯人はいかにして毒を被害者に飲ませたか? さん。犯人はだれか? 部分点はそれぞれ二〇点、三〇点、五〇点。奇天烈な物理トリックも、くだくだしく続いて途中で千切れそうなロジックもいらん。あたり前の細切れの指摘を繰り返すだけで、犯人はひとりだけになるはずや。ま、答え聞くまえにちょっとはじぶんでかんがえてみよし」

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