第2話 おはよう

また携帯が揺れる。起きなきゃ。

時計はすでに9時を指している。今から準備すればちゃんと間に合うように授業は選択している。


いつの頃からか”普通の人が活動を始める時間”に活動ができなくなって、そのうち人よりずれた時間軸で生きることができることを優先して生きてきた。

早朝からの授業は取らない。バイトの時間も調整した。できることは全部して、それでも私は”普通”を捨てきれていないから、こうやって少しだけずれながら生きていく。


昨日の……、日付的には今日再会した兄の友達の霧島さんのことを思い出す。

彼と初めて会ったのは中学1年生の時だった。1つ年上の兄の友人で、我が家に遊びに来た時に会ったのが出会いだ。その時は何か言葉を交わした記憶はないが、その顔面の造形美はとても印象的だった。その後何度か家に遊びに来ていることは知っていたが特に顔を合わせることもなければ、言葉を交わすこともなかった。


私にとってはただの兄の友人。彼にとっても友人の妹、のはずだった。


「なぁ、国語辞典持ってない?」


わざわざ1年生の教室に来て、わざわざ私の机の前に来て、わざわざ座っている私に目線を合わせるように屈んだ彼はそう言った。


「え……?」


あ、霧島さんだ、思っただけで、最初は自分に向けて言葉が放たれていることに全く気付けなかった。


「え?聞こえてる?」


「あ、聞こえてます」


「国語辞典、持ってない?」


「ありますけど……」


「借りてくね」


じゃーねー、と私の許可も取らずに国語辞典を奪うように持っていった。

あれ?私この人と物の貸し借りするほど仲良かったっけ?という疑問は結構後になって思い浮かんだ。


その国語辞典は兄経由でその日の夜に返却されたが、それがまた最悪だったのは彼は知らない。


その後も、何度か彼は私の教室に入り込んできて、私の物を借りていく。辞典だったりはまだいいが、なぜかシャーペンや消しゴムだったこともあるし、一番不思議だったのは教科書を借りていったことだった。あんた2年だろ、何に使うんだよ、と思ったけれど私はそんなことは口にはできない。


「どうぞ」


私に言えるのはそれだけ。そして毎回楽しそうにその綺麗な顔面を輝かせて教室を去っていく霧島さんに不思議な気持ちを募らせていく。


それは週に一回程度やってきて、そして彼らが卒業するまで続いた。


「ねぇ、いつも俺が借りてたからお礼になんでも好きなものあげるよ、第二ボタンでも、セーターでもなんでも」


自分のものに価値があると分かっている彼はそんなことを卒業式の日に堂々と言ってきた。いっそのこと彼のセーターでもなんでも追いはぎして、そこらの霧島ファンに売りつけてやろうかとも考えたが、さすがにゲスすぎると反省して、ありがたく彼のカバンについていたよく分からないブサイクな猫のキャラクターのキーホルダーをもらった。


「そんなんでいいの?」


「まぁ、これもいらないくらいですけどね」


「じゃぁ、俺の顔面の写真撮って待ち受けにしてもいいよ?」


「何がいいよ、なのか全くわかりません」


いつの間にか私は彼にだけは素で話ができるようになっていて、こんな風に軽口を飛ばせるようになっていた。それを彼が咎めたことはない。むしろ私が言葉を返すたびに少し嬉しそうにしていることに気づいた。


「あれ?お前らそんなに仲良かったっけ?」


「あ、お兄ちゃん……」


そんな私たちの様子を見付けた兄が、人込みをかき分けて私たちの方へやってくる。


「別に……」


「ま、お前のことをおにいさんとお呼びする日が近いかもな」


おい、なんてことを言ってくれるんだ。見てみろ、目の前の自分の友人の顔を。見たことないくらいびっくりしてるぞ。


「やめてください。誤解を招くようなこと言わないでください。何回か話かけてもらっただけだよ」


前半は楽しそうに嘘をつく霧島さんへ、後半は驚きで固まってしまった兄へ向けて。やめてくれ、本当に。そろそろここにいるのが辛くなってくるから。


「卒業おめでとうございます。二人とも」


兄の背後から両親の姿が見えた。二人は明らかにこっちに向かってきているし、私はここから立ち去るべきだ。私はお祝いの言葉を言い終わるとすぐに霧島さんと兄に背を向けた。あの両親が私が兄といるところを見て喜んだりはしないだろうから。いや、むしろ顔を歪めて嫌な顔をするだろう。だから私から離れてあげるのだ。


そうやって両親からも兄からも逃げていたらいつの間にか家にはもちろん居場所はなくなり、大学生になったと同時に家から出た。


そうやって一人の時間を孤独に過ごしながら、大学生をしながら、アルバイトをしながら、何とか一人で生きていくために知識を詰め込む日々を送る。私は誰にも頼らずに一人で生きていける力がほしい。この、聞こえるだけのみみと見えるだけの目を抱えてでも、普通に生きていけるだけの人間力が。


ピンポーン、と割と新しいマンションなのに昔ながらのインターホンの音が部屋に響いた。


「朝ごはん一緒に食べよ」


モニターに表示されたのはモニターに見えるように顔の横にビニール袋を掲げたにっこにこの霧島さん。


「結構です」


ブチっと音がする程度には力を入れてモニターを切ったが、一瞬ののちにまた音が鳴り響く。そして――。


「入れてくれるまで鳴らし続けるよ?」


脅しだ。


「いやー、いいお部屋だね」


「あなたの部屋と同じですけどね」


「それもそうだね」


あのころと変わらず、彼は軽薄に笑う。その笑顔にどんな感情が乗っかっているのか私にはわからない。あのころからずっと。


彼は我が物顔で私の部屋のテーブルに持ってきた袋をおく。


「何もって来たんですか?」


「酒」


なんだこいつ。正気か?


「朝から酒飲むタイプの人間ですか?」


「いや、ひよちゃん飲むかな?と思って」


「相変わらず頭おかしいですね」


「相変わらず顔はいいでしょ?」


顔の話はしてねぇ。この人の本当に話を聞いてないな。


「昔話に来たんだ」


まるで自分の家みたいにソファに座った彼。なんとなく手先が冷えているような気がする。


「いつの昔の話を二人でするんですか?」


私はあなたとする話はないですよ、と遠回しに行ってみたが、彼は気づいているだろうにお構いなしにずけずけと私の心に入り込んでくる。


「そうだな、じゃぁさ、あいつと仲良くなった時の話なんてどう?」


”あいつ”と呼ぶ人が誰なのか、悔しいことに私は分かってしまった。


「驚くほどに興味ないですね」


「まじで?ま、話すんだけどさ」


そうだと思ったさ。どうせ私が何を言っても勝手に話は進んでいくんでしょ?

聞かないなんて選択肢、どうせ与えてくれないんでしょ?


それでも彼は必ず私に一度は選ばせようとしてくる。


「お酒は飲みません。持って帰ってください」


キッチンから買い置きをしてあるペットボトルの常温の水も持ってきて私は彼の目の前に座った。


さぁ、どこからでもかかってこい。





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