約束の箱庭で

水硝子

約束の箱庭で

「私は、君に会えてよかったと思っている」

 わたあめのような柔らかい風と共に、白衣の裾がはためいた。

 その顔は、橙色に輝く太陽と空の方に向いてしまっているせいで見えない。しかし声だけは一段と嬉しそうで、楽しそうだった。

「なにせ、私の知らないことを沢山教えてくれた」

「それは、俺が馬鹿だったから。何も気にせず言ってしまっただけであり――」

「それがうれしかったのだよ。十夜とおや君。今までそれが無かった私には、不思議な体験だった」

 白衣のポケットの中へと手を突っ込みながら、その人は顔を上へとあげた。つられて自分も顔を上げる。

 そこには、橙色になりつつある水色の空との境目が見えた。俺はその人……先輩へと視線を戻し、小さく首をかしげる。

「君が口答えしていなければ、きっとあの患者さんは、今頃あそこだ」

 橙色の太陽を指さし、先輩は小さく笑った。

「そんな、俺は……」

「君にそんな気がなかったとしても」

 その鋭い声音に俺は口をつぐむ。風も空気を読んだようにぴたりとやんだ。

 辺りには枯れた葉がカラカラと転がる音と、何かを呼ぶように鳴き続けるカラスの声。それだけが響き渡っていた。

 息を吸い直したその人の後姿を見ながら、俺は自身の手をぎゅっと握り込んだ。

「……まぁいい。君が謙遜するのは目に見えていた」

「……すみません」

「悪いことではない」

 肩をすくめたように両手を広げるのを見て、俺も小さく苦笑いを浮かべる。

「ただ、これからこの世界でやっていくのには、少しばかり優しすぎるな。君は」

 合わない、と言っているわけではないぞ。と慌てたように弁明する先輩を見て、俺は肩を震わせ、小さく笑った。

 優しすぎる。それは俺が昔からよく言われていた言葉だった。弱すぎるメンタルを隠すようにそうやって生きてきたのが、今になって弱みとして露見し始める。先輩の言うように悪いことではないだろうし、きっとこの世界に馴染めないわけでもない。

「だが患者からはきっと嬉しがられるだろう。それは私が保証しよう」

 いままで自分が持ってきた患者に心配や励まさりはしたが、失敗で怒られたことはなかった。決して失敗してないとか、そんなではない。

 失敗にしても笑顔で励ましてくれる。そんな患者が多かったからだ。

「……ありがとうございます」

 視界の端に自販機が移り、思わずそちらへと近づく。季節の移り変わりの頃合いだからだろうか。温かい飲み物と冷たいものが、均等に割り振られていた。

 白衣の中に忍ばせていた小銭を自販機の中へと食べさせながら、何を買おうかと視線をさまよわせる。

「ただ、私よりも下で、君よりも上……には、好かれない、だろうな」

「……そうでしょうね。緩く仕事をやっているようにしか見えないでしょうから」

 がこん、と鈍い音を立て、出てきた缶を取り出す。そしてそれを先輩の方へと投げやった。先輩はこちらが投げたことを知っていたかのように、あるいは投げたタイミングを図っていたかのように。俺の方を向くことなく、缶を手の中へと収めた。

「おっ。温かいカフェオレじゃないか」

 俺が自分のものを買おうとするのと同時、先輩から嬉しそうな声が零れた。太陽のまぶしい明りによって先輩の顔は見えないが、きっと笑っているだろう。

「好きでしたよね」

「無論。カフェインも糖分もとれる優れものだからな。何かあった時は飲むようにしている」

 缶を掲げるのが明りの隙間から少し見え、同じように自分の缶を軽く上にあげる。

 プルタブに空気が通る音が二回響き渡り、中の香ばしい香りが鼻の奥で広がった。

「ブラックコーヒーだったかな?」

「はい?」

「いや。君が飲むものは」

 飲もうとしていた缶を遠ざけ、ラベルを見やる。明朝体と同じようなフォントで書かれた商品名に、柔らかく目を細めた。

「はい。時折、苦いものが欲しくなるので」

 先輩の頭が動くのが見え、そちらへと視線を戻す。どうやら口にしたようだ。息を吐く音すら鮮明に聞こえてしまいそうで、今すぐにこの場から立ち去りたい気分にさいなまれる。

「そろそろ研修も終わり、だな」

 いつもの元気で楽しそうな声とは一変。か細く、すぐにでも切れてしまいそうな声が鋭く俺の耳に突き刺さった。

 自分のこの、果藤千大かとうせんだい病院の専門医でも、医者でもない。まだ大学生の医学部に通う、知識も実力も何もかもが劣った、製作途中のメスみたいなものであり、使えない研修医。

「……何も、できませんでした」

 夕焼けに侵されていく空を眺めながら、そう小さく呟くと同時。額に激痛が走り、思わず額を抑えうずくまった。

 からん、という乾いた音を立て、俺の額に激痛を走らせたものは、アスファルトの上に転がった。

「何を言う。君は頑張っていた。他の研修医の誰よりも、だ」

 それは、先輩の飲み終えたカフェオレの缶だった。

 先輩の方へと視線を向けてみるが、こちらを向いたような素振りも、向こうという素振りも見せない。後ろ向きで投げて当てたというのか、この人は。

「そうでしょうか」

「そうだとも」

 背筋をピンと伸ばし、胸を張った先輩を見て、俺は小さく口元に笑みを浮かべた。

「私が保証しよう」

「頼もしいです」

「だろう?」

 ふふん、と鼻を鳴らす先輩に対して笑いながら、転がっていた缶を地面に立てる。

 そうして勢いをつければ、先輩の頭に向かって全力で蹴り上げた。

「あいたっ」

 見事綺麗に飛んで行ったアルミ缶は、先輩の頭の真ん中へと見事に命中。先輩の頭が太陽の方へと傾き、缶が下へと落ちていく。

「痛いじゃないか、傷が出来たらどうしてくれるんだ」

 後頭部をさすりながら、先輩は小さく右に首を傾げた。そのままゆっくりと頭が落ちていく。きっと缶でも目で追っていたのだろう。

「傷ができたらそのときは手当てしてあげますよ」

「それは頼もしいな。怪我をしたときは君のところまで走ることにしよう」

「まだ研修医だったらどうするんですか」

「それは怖いからやめていただこう」

 おちゃらけたように口にする先輩に対し、俺は不貞腐れたような表情を浮かべていた。しかしすぐに表情を崩し、小さく声を上げながら笑う。それに釣られたように、先輩の笑う声も微かに耳をくすぐった。

「でも、そうだな。研修医でもなんでも。なにかあれば十夜君にお願いしよう」

「えっ」

「悪くないと思うのだよ。自分の下で研修を終えた君のところで、生涯を終えるのも」

 迷う様子を見せない先輩に、一瞬の動作が固まる。実際に出来るのかはわからない。きっと病院ではさせてくれないだろう。自分の病院だったとしても、法的にどうなのか。怪しいところだ。

 不意に。柔らかい風が頬を撫で、思わず顔を上げた。

 先ほどまで背中しか向けていなかった先輩が、こちらを向いていた。綺麗な栗色の髪は、太陽を受けて赤みを帯びている。

 まぶしいせいで先輩の顔はあまりよく見えない。しかし、笑っていることだけは理解できた。

「だから待っている。十夜君。君が有名医になるのを。ずっと」

 柔らかい風が突如強くなる。思わず目を細め、閉じようとした視界の端で、先輩が小さく口を再度開くのだけは、はっきりと見えた。



「十夜先生」

 自分の名前が呼ばれたことにより、俺は閉じていた瞼を開いた。先ほどまで眩しかった夕焼けはビルへと隠れてしまい、辺りは薄暗くなっていた。

カチカチという音とともにつけられたのか、蛍光灯が灯り、辺りを照らしてくれた。

安西あんざい先生が呼んでいましたよ」

 振り返れば、そこには看護服に身を包んだショートカットの女性が、こちらを心配そうに見つめていた。

「安西先生が?」

「はい。あの、なんでも十夜先生でないと嫌だと駄々をこねている患者さんらしく」

「へぇ、そんな物好きもいるんだな」

 柵から手を下ろし、体の向きを変える。首からかけていた青い紐が柵に触れ、からんと軽い音を立てた。

 “外科医:十夜 すばる”そう書かれている名札を胸ポケットへと押し込みながら、左側に設置されている自販機へと目を移した。

 昔からあるその自販機は、傷こそ増えたもののそれ以外に変わったところは見えない。まるでこの場所だけは時間が経過していないような、そんな気さえする。

 時折強くなる風によって白衣を翻しながら、俺は屋上に背を向けた。人が待っているというのならば、医者たるもの向かわなければならない。

 ドアノブに手を掛けると同時。微かに甘く、苦みのある香りを感じながら軋む扉を引き開けた。

 その人が待っているという待合室へと足を運びながら、ふと思案する。

 主治医を人から任されることはあったが、患者自ら俺が良いという人は今回が初めてだ。学生時代に誰かと約束でもしただろうか? ……あまり覚えていない。

 医者になると患者との約束事が増えたり、覚えることも医学関連の事だけではなくなったりと、記憶力の容量がいくらあっても足りなくなる。

 学生時代の記憶など、医者になるうえで必要なこと以外殆ど抜け落ちてしまったのではないかと思うほどに、驚くほど覚えていない。

「……一体、どんな人だというんだ」

 待合室の前までくれば、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。この後検診予定だった患者さんは安西先生が代わりにやってくれると言っていたので、その次の予定までは余裕がある。

 そこまで思案すれば、軽く扉をたたいた。

「十夜です。失礼しますね」

 扉を軽く押し、やや重い扉を開ける。まず橙色の灯りが視界いっぱいに広がった。何事かと思い目を瞑る。

 いつも閉まっているカーテンが開いているようだった。

 慣れてきた瞳を動かしながら、入ってきた扉を音を立てない様に優しく閉める。

「遅いぞー、十夜君。急患だったらどうしていたんだい?」

 不意に鼻を擽った、甘くも苦い、コーヒー牛乳のような香り。先程も屋上で感じた香りと殆ど同じで、懐かしい香りがした。

「……あの」

 目を細め、夕暮れの太陽に抵抗しながら来客者を見つめていると、口角が小さく上がるのが見えた。

「なに、もう忘れた、とでもいうのかい? 酷いねー、そんなに印象薄かっただろうか、私は」

「えと……」

「ならこう言えば、わかるだろうか?」

 来客者は席からゆっくりと立ち上がり、明るい窓の方へと身体を向けた。元々逆行で顔が見えなかったが、今度は背中しか見えない。

 そんな来客者は楽しそうに右手を上げ、眩しい太陽の方へと指を向けた。

「 “君が口答えしていなければ、きっとあの患者さんは、今頃あそこだ ”」

「……!」

 栗色の髪があの時・・・のように、風に靡いたかのように、揺れた。今の彼女はずっと後ろを向いたままでなく、こちらへと振り向けば、柔らかそうな瞳が糸のように細められる。

「久しいね、十夜君」

「……みず、き……先輩」

 昔呼んでいた愛称で返事を返せば、先輩――水希みずき先輩の人形のように小さい顔が上下に動いた。

「君がちゃんと医者になって居たようで、安心したよ」

「……試験、先輩のお陰か一発合格でした」

「おぉ、すごいじゃないか。流石私の後輩、だな」

 嬉しそうに声を弾ませながら、先輩は更に嬉しそうに笑う。

「はい。おかげさまで」

「うまくやっているようでなによりだ。私の心配は要らなかったかな」

 再度席に腰かける先輩に、俺は小さく首を横に振りながら、椅子に手をかけた。

「いいえ。先輩の心配は的確でした」

「嫌われたか?」

「はい、とても」

 苦笑いを含めた笑みを向けると、先輩は声を上げて笑った。

 そんな先輩の右手はカップに入ったカフェオレを手に取ると、口元まで運ぶ。

「それでもうまくいっているのなら、良かったな」

「いい患者さんと、同期に恵まれたんです」

「私の予感は的中だった、というわけだ」

「……おっしゃる通りで」

 うなだれるように頭を落とせば、髪を流される感覚を感じ、視線だけを上げる。

 そこでは、先輩が俺の頭を撫でていた。頑張ったな、とでも言うように、精一杯の優しさを込めて、撫でられた。

 思わず恥ずかしくなり、避けるように先輩の手を除ける。すると、また楽しそうに先輩は笑う。今度は悪戯を考えている少年のような顔。

「……なんなんですか、もう。俺を指名したって、聞きましたけど?」

 そんな甘酸っぱい雰囲気が気まずくて、俺は咄嗟とっさに話を本題へと話に軌道を戻す。すると先輩は思い出したかのように手を打てば、足元に置いていた自身の鞄から一つのファイルを取り出し、机の上に置いた。

「これを、十夜君に頼みたいと思ったんだ」

「……拝見します」

 自分の方へと引き寄せ、上から順に辿っていく。

「っちょっと、先輩、これ……!」

 思わず内容を見た後勢いよく立ち上がった俺に対し、先輩は昔と何も変わらない柔らかい笑みを向けた。

「十夜君……、いや、十夜先生。私の手術を、……私のがんの摘出を、お願いするよ」

 先程まで漂っていたカフェオレの匂いが、一瞬にして消え失せた。




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