第6話 誤算

 授業が進んでいく。静かな教室で先生の声と生徒のノートをとる筆記音だけが響き渡る。周りを見渡すと、集中したクラスメイト達が真剣な表情で黒板を見つめていた。


 ちらっと、離れたところに座る月山さんを盗み見る。柔らかそうなふわふわした亜麻色の髪。その髪の間から覗く彼女の横顔は相変わらず整っていて美しい。だけど、どこか彫刻のような無機物の冷たさがあった。


 彼女はなんとかノートをとろうとしているが、時々手を止めては消しゴムで消している。普通の人も間違えて消しゴムを使うときはあるが、彼女のその頻度は明らかに多い。やはり、物語のあのイベントは起きる予定だと考えていいだろう。


 だが、既に手は打ってある。安達さんなら、そもそもに困った人を見捨てておけない人であるから、気付かせてさえすれば、やってくれるに違いない。


 あとは、俺の懸念事項がどうなるかだが……。たぶん大丈夫だろう。可能性としては低いはずだ。頭を振って一抹の不安を振り払う。もうやれることは尽くした。あとは待つとしよう。結果が出るまで大人しく待ち続けた。


 チャイムが鳴り授業の終わりを告げる。皆の集中が途切れて、ほっと弛緩した雰囲気が広がっていく。先生はスタスタと教室を出ていった。


「あー疲れた」

「それな。早く学校終わんねーかな」


 そんな会話が聞こえてくる。だがどうでもいい声には興味がないので無視しつつ、俺は安達さんや本宮、月山さんがいるところに目を向けた。

 月山さんは孤独にポツンッと一人で黙々と勉強をしていた。彼女の周りには転校してきたあの初日のような人だかりはない。


 それもそうだろう。彼女の初日の対応は決して良い対応と呼べるものではなかった。無視することはないにしろ、最低限の返答しかせず壁を作っているのは明らかだった。そんな人だと分かれば、周りが離れていくのは自然だ。


 彼女の抱えるその理由を知ればその対応も仕方のないものだと納得できるが、普通の人にはそんなことは分からない。だから離れるのは当然だろう。今では、孤高の美少女として周りから眺められている。


 そんな彼女であるのに助けてあげようと思うのだから、本宮は本当に物語の主人公としてふさわしい人物だと思う。だが悪い。今回に限ってはそのポジションは安達さんに譲ってもらう。


 少しの間3人を見守っていると、ノートの整理を終えた安達さんが立ち上がった。そのまま、斜め前の月山さんに声をかけようと、口を開く。


「つ…「月山さん」


 だが、彼女の声が月山さんにと届くことはなかった。本宮の声にかき消されてしまった。本宮の声掛けに、月山さんは彼の方を向く。しゃらり、と滑らかに亜麻色の髪が煌めいた。


「……はい。なんですか?」


「これ、使って」


 そう言って、本宮は自分の机の上においてあったノートを彼女に手渡した。


(嘘だろ……)


 その場面は、まさに見たことのある場面。そして俺が阻止しようと思った場面。その場面が再現されたということは、俺の作戦は失敗したということだ。思わず奥歯を噛みしめるが今更どうしようもなく、大人しく事の成り行きを眺めりしかない。


 受け取った月山さんは目を細め鋭くして、どこか警戒する様子で本宮に視線を送る。


「なんですか、これは」


「月山さん、ノート取るの困ってたみたいだから」


「気付いていたんですか……」


 一瞬目を丸くするが、すぐに無表情に戻ってしまう。


「迷惑だったら別にいいんだけど、無駄になっちゃうから使ってほしいかな」


「……わかりました。ありがたく使わせてもらいます」


 やや躊躇いがちにゆっくりと頷く月山さん。それに対して本宮は満足げにほほ笑んで会話は終わった。

 そっと二人から安達さんに目を移す。後ろで眺めながら立ち尽くしていた彼女が、手に持っていたノートに目線を移し僅かに眉をへにゃりと下げると、何も言わずに自分の席に座り直すのが視界に映った。


 一連の流れをひたすら眺め続けた俺。安達さんの最後の表情にどっと後悔が押し寄せる。

 彼女が何を思ったかは分からない。それでも彼女にあんな表情をさせてしまったことだけは確かだ。

 

 何か出来ることがあったのではないか?まだやれることがあったのではないか?過去の自分を振り返る。


 今回のイベントで俺が取れた手段は主に3つ。「俺が直接ノートをとって渡す」「安達さんに力を借りる」「本宮が気付かないようにする」だ。

 だが、一番最後のはどう考えても不可能だし、月山さんが困っている状況は変わらないので却下した。


 次に自分で渡す手段を止めた理由は、明らかに席の離れている俺が渡す理由がないし、受け取ってもらえない可能性が高かったからだ、それに安達さんに渡してもらうほうが自然な流れになるというのもある。

 そんなわけで安達さんを頼る手段を選んだわけだが、結果としては間に合わなかった。


 この可能性は懸念していた。だが、まさかこんなに早く次のイベントは起きるとは。一番最悪な可能性が起こるとはついていない。もっと早く出来たのではないか?と一瞬考えるが、最速で安達さんには頼んだのに間に合わなかったのだから、これ以上のやりようはないだろう。


 自分の選択は間違っていなかった。そう改めて認識する。過ぎたことなのだし、もうどうしようもない。そうも思う。だが、彼女のさっきの表情が脳裏に焼き付いて離れず、前向きな気分にはなれなかった。


 気分がすぐれないまま時間はどんどん過ぎていく。溜まったもやもやが胸につっかえて無くならない。吐き出そうと息を吐いても、いつまでも胸の内に残って燻り続ける。何も変わらないまま放課後を迎えた。


 まだ授業が終わったばかりなので、みんな荷物を整理したり帰りの準備をしたりしている。ざわざわと賑やかさが教室を包んでいた。そんな賑やかさに交じって柔らかい声が俺の名前を呼んだ。


「只見くん」


 相変わらずの綺麗な黒髪を揺らして、安達さんがやってきた。ぱっちりとした綺麗な瞳と目が合うと、安達さんは顔の前で両手を作って上目遣いにこっちを見上げてくる。


「ごめんね。なんか本宮くんも気付いていたみたいで、先に月山さんに渡していたから渡せなかった」


「いや、全然いいよ」


 別にもう過ぎてしまったことなので気にしていない。それよりも最後に見せた安達さんの表情が気がかりだった。また、あの眉を下げた安達さんの表情を思い出してしまう。すると、彼女が思いがけないことを呟いた。


「あーあ、せっかく只見くんの優しさをみんない知ってもらえるチャンスだったんだけど残念」


「え、もしかしてノート渡せなかったときの悲しそうな表情の理由ってそれ?」


「あ、うん、そうそう。というか見てたの?それは少し恥ずかしいかな」


 俺の問いをあっけらかんと認め、ほんのり頬を赤らめてはにかむように笑う安達さん。くりくりと右手で髪を触りながら言葉を続けた。


「只見くんのそういう優しさが広まれば、周りからの評判が上がるでしょ?そしたら只見くんの「変わる」っていう目標に近づけると思ってたんだけど……。力になれなくてごめんね?」


「……そんなこと考えてくれてたんだ」


 そういうことだったのか、安達さんのあの悲しそうな表情の理由が自分だったとは。まさか彼女が自分のことを考えてくれていたとは思わなかった。まったく、安達さんはいい人すぎる。本当に彼女らしい。優しい彼女らしい理由過ぎて、思わず笑いがこみ上げてくる。


「あはは、なるほどね」


「え、な、なに?急に笑って。私そんなおかしいこと言った?」


 思わず笑ってしまった俺に、安達さんは焦ったような声を上げる。こっちを見てちょっとだけ焦っている安達さんはなんとも可愛らしい。そんな様子を見ながら「なんでもないよ」と俺は笑いかけた。


(はぁ、気にしていた俺が馬鹿みたいだ)


 溜まっていたもやもやは既に無くなり、すっきりしている。気分は爽快で晴れ晴れしい。ふと窓の外が目に入る。

 存在感を放つ夕陽。風に流れる赤い雲。そして朱に染まった広い空。ああ、今日はこんなに綺麗な空だったんだな、そう思った。


 その後は他愛もない内容を少しだけ話して過ごしていく。今週ある委員の仕事や授業のことなど、日常の当たり障りのない内容を話していた時だった。


「日葵ー!なに話してるのー?」


 不意に声が割り込んでくる。安達さんを下の名前で呼んだ彼女は、安達さんを後ろから飛びつきぎゅっと抱きしめた。


 そんな姿を見て思い出す。そうだった。ノートを貸すイベントの失敗で抜けていたが、今日はもう一つ、昨日蒔いた種があったんだった。

 それが芽を出した。どうやら俺が期待していた通りに彼女は現れてくれたらしい。


 「どこぞの知らない異性に好きな人バレた」なんて出来事が起きれば、誰だって仲の良い人にそのことを話すだろう。そして本当に仲が良い奴なら心配するはずだ。大多数の人にバラさないかを。


 気持ちを切り替えて集中しながら、安達さんに抱きつく彼女に目を向ける。すると、俺の視線に気づいたようで、安達日葵の親友、双葉蒼は探るような視線をこっちに向けてきた。

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