第5話 備える作戦

「はぁ、昨日の運動のせいで筋肉痛だ」


 朝日が照らして輝かせる公園の中で、固まった筋肉をほぐしていく。冬の名残と春の香りを乗せた風が鼻腔をくすぐった。


 朝起きたときから痛かったが、こうして体を動かすとさらにその痛みが体の節々に走る。まったく、ずっと運動をさぼってきたつけはそうそう払われないらしい。

 こんな状態で運動なんてしたくなかったが、流石に初めて2日で辞めるわけにもいかない。それに、俺には目標があるので、こんなことで躓いている場合ではないのだ。ぐっと握りこぶしを作り、顔を上げて軽いランニングから始めていく。


 走り始めると前世の自分との違いを痛感する。体全体が重いし、動くたびに微妙にお腹の肉が揺れるので、どうにも走りにくい。ポヨン、ポヨン。そんな効果音が聞こえてきそうだ。


 ザッ、ザッ。ザッ、ザッ。


 土を蹴る足音だけが耳に届く。出来るだけ視線を下げないよう姿勢を意識しながら、なんとか足を動かし続ける。瘦せるため。その意志を心に宿して前を向き続ける。


 だが、やはり気持ちではどうにもならないもので、運動不足の体ではすぐに限界が来てしまった。筋肉痛を我慢しながら走り続けたが、10分も走れば息も絶え絶えになった。


「はぁ、はぁ」


 これ以上やっても体に無理が出ると感じて、ゆっくり歩きながら息を整えていく。深く吸い、ゆっくり吐き出す。その繰り返しでだんだんと呼吸は落ち着き始めた。とりあえず今日はこれで終わろう、そう決めてダウンに取り掛かった。


(昨日のは上手くいってよかった)


 ダウンをしながら昨日のことを振り返る。初めての物語のイベントだったので、どうなるか不安だったが意外と順調だった。安達さんと好きな人を知る関係を築けたことに関しては出来すぎなくらいだし。


(いやいや、まだまだこれからだ)


 少しだけ自信が出てきてつい笑みを浮かべていることに気付き、慌てて頭を振る。まだ最初の一歩が始まったばかりだし、蒔いた種もある。おそらくそれは今日起こるだろう。ふぅ、と息を吐いて集中し直した。


 とりあえず今日の分の運動が終わったので、家に戻り学校へ行く準備を進めていく。そしていつものようにご飯を食べ、母親に見送られながら学校へと向かった。


 学校に到着し、自分の教室へと入る。昨日委員長になったわけだが、そんなことで急に俺の立場が変わるわけではない。特に誰も俺のことなど気にせず、それぞれがおしゃべりをし続ける。


 そういうものだろう。変わるというのは簡単なことではない。せいぜい俺の今の印象は「急に委員長に立候補した変な人」程度だろう。それすら1週間もすれば忘れられてしまう。

 でもそれで問題ない。逆に言えばこの1週間はクラスの人たちに印象を残しておけるのだから。この1週間をうまく利用すればいいだけだ。


 席について今日やることを整理していく。

 

 まず一つは安達さんとの繫がりが出来たので、あのことを安達さんに伝えてイベントを一つ無くしてもらうこと。もう一つは蒔いた種のこと。この2つか。


 安達さんに無くしてもらおうと考えているのは、主人公、本宮翔がもう一人のヒロイン、月山凛にノートを取ってあげるというイベントだ。


 月山さんはイギリスから来たばかりでノートをうまく取れず今現在苦労しているのだが、それに気づいた本宮がこっそり取っていたもう一つノートを渡すことで、月山さんからの好感度が上がるというものだ。

 だが、月山さんに本宮のことを好きになられると困るのでこれを避けなければならない。


 そこで考えたのが、安達さんにお願いして安達さんが月山さんを助けるイベントに変えるという方法だ。これなら月山さんも助かるし、本宮への好感度も上がらないで済む。


 自分自身が助ける方法も考えたが、席が離れている関りのない奴がそんなことをしたところで警戒されるのがオチだ。その点安達さんなら月山さんの斜め後ろだし、彼女人柄的にも警戒されないだろう。


 そういうわけで、安達さんにどんな感じでその話にもっていくかシミュレーションしていくことにした。



(うん、大体まとまってきたな)


 ある程度直近のイベントについて整理できた時だった。


「おはよー!」


 教室に明るく柔らかい声が響き渡る。そっと声のした方を向くと、挨拶した本人、安達日葵が友達と笑って話していた。

 そんな彼女が一瞬こっちに視線を向ける。ぱちっと目が合うと、彼女はわずかに顔を桜色に染めてこっちに歩いてきた。


「おはよう、只見くん」


「ああ、おはよう、安達さん」


 一体何の用事だろうか。安達さんから来るとは思っていなかったので不思議に思っていると、そっと安達さんが顔を寄せてきた。

 ふわりと女の子らしい甘いフローラルな香りが鼻腔をくすぐり、少しだけ心臓が跳ねる。


「昨日のこと、絶対言っちゃだめだからね?」


 囁くようにそう告げて、顔をいつもの距離まで離す安達さん。その表情には赤みがかかって恥ずかしがっているようにも見える。

 要するに念押しだったらしい。はぁ、と一息吐いて、動揺を落ち着かせる。


「はーい」


「うん、よろしい」

 

 こくりと頷けば、安達さんは満足げにほほ笑んだ。


「そういえば、昨日も只野くんマスクしていたけど、風邪?」


「あーこれね。全然違うよ。実は……」


 俺がマスクをしている理由、それは笑顔のためだ。


 自分を変えると決めたときにまず始めたのが、ダイエットとこの笑顔の練習だ。あまり人と話さなかったせいか表情筋が硬く、自然な笑顔が作れなかったのでその対策に始めた。


 前世でもやったことだがやり方は簡単だ。マスクの下で常に笑みを作っておく。それだけ。

 そうすることで、笑うことが自然に出来るようになっていく。そして常に口角が上がり、最終的に人からの印象がよくなるのだ。


 そんなことで変わらないというかもしれないが、笑顔はコミュニケーションの中で一番重要で、それだけで相手からの話しやすさが変わってくる。話すときは反応が大事だが、そのなか表情特に笑顔は重要なのだ。


 例えば、何かを食べているときに微笑んで食べていれば、それだけで相手にその食べ物がおいしいものだと伝わるように、言葉でなくても表情というものでコミュニケーションというのは可能なので、その大事な手段である笑顔は気を付けなければいけない。

 

 そういうわけで、昨日から俺は笑顔の練習をマスクの下で密かに行っていた。


「なるほどねー。そういうことだったんだ」


 マスクをしている訳を説明すると、安達さんは納得したようにうなずいている。彼女には昨日、俺が変わろうとしていることを話しているので問題ないだろう。


「分かってもらえたようでよかった」


「風邪じゃないならよかったよ」


「心配してくれたの?」


「え?そりゃあ、体調悪そうだったら心配するよ。私と只見くんは互いの秘密を共有する仲なんだから」


「安達さんの秘密は分かるけど、俺の秘密?」


 一体なんだろうか?まったく心当たりがない。


「只見くんが陽キャを目指して変わろうとしているって話」


「いや別にそれは秘密じゃ……」


「い、いいから!秘密って言ったら秘密なんです。私と只見くんは互いの秘密をしている者同士。だから互いの秘密は話せない。いい?」


「わ、わかった」


 安達さんの勢いに気圧されて、こくこく頷く。

 どうやら、安達さん的には「互いに秘密を知る者同士なんだから、絶対黙っててよ」ということだったらしい。いや、俺のは全然秘密じゃないんだけどね?

 

「まあ、なにはともあれ、只見くんが風邪をひいてなくて良かったよ」


「ほんと困っている人を放っておけない人だね、安達さんて」


「うーん、まあ、見て見ぬふりが一番自分にとって辛いからね。どうしても手助けしたくなっちゃう」


「昨日も言ったけどいいことだと思うよ。それで、安達さん。一つ頼み事があるんだけどいいかな?」


「うん?なに?」


 きょとんと首を傾げてこっちを見つめてくる安達さん。その傾げる動きに合わせて髪が揺れてわずかに煌めく。


「えっと、月山さんに授業のノートを取ってあげてくれない?」


「いいけど、なんで?」


「彼女、多分だけど日本語を書くのにまだ慣れていないみたいなんだよ。それで授業のノートを書くのに苦労しているみたいなんだ」


「そうだったの!?全然気が付かなかった。わかった、授業終わりにノート渡してみるね」


「ありがとう」


 快く引き受けてくれたことに、ほっと胸を撫でおろす。とりあえずは上手くいったので、あとは経過を見守るしかない。


「昨日話した時から思っていたけど、只見くんって優しいね」


「いや、そんなこと……」


「ううん、優しいよ。只野くんは優しい人だよ」


 俺が否定するよりも先に、安達さんはそう告げる。真っすぐにこっちを見るその視線はどこか優しげで慈しむような眼差しだった。柔らかく見つめる彼女の視線に耐え切れず、そっと視線を逸らして「……ありがとう」とだけ返した。


「あ、もうすぐ授業始まるみたい。じゃあ、またね。月山さんにノートは渡しておくから」


「うん、よろしく。じゃあね」


 去っていく安達さんの後ろ姿に、はぁ、と小さく息を吐く。まったく、ああいう表情は勘弁してほしい。


 とりあえずの対策は打ったので、本宮が月山さんの好感度を稼ぐことはないだろう。そう思って授業に備えた。


――だが、俺の思惑は外れることになる。

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