第2話 守りたい笑顔

 さらりと揺れる長い黒髪。よく手入れされているおかげか、まるで絹のように滑らかで煌めき綺麗だ。ぱっちりとした二重の瞳は愛くるしく、柔らかそうな唇とともにあまりに魅力的で、思わず目を惹かれて離すことが出来ない。

 そんな彼女は心配そうに眉をわずかに下げて、教室に入ってきた男子に声をかけていた。流れるように日葵と話している男子に目を移す。その男はやはり予想通り、『偽カップル』の主人公、本宮翔だった。


(は?え?なんだ?どういう……)


 訳が分からない。眼前の光景が理解できない。何が起きている?

 目の前で漫画のキャラが勝手に話しているなんて、あまりに荒唐無稽な光景で素直に受け入れられない。だがどんなに自分の目を疑っても、確かにそこに広がっているのは現実だった。


 未だに混乱でうまく頭が回らないが、こんな現象に一つだけ心当たりがあった。


(転生……)


 数多くのラノベや漫画を見てきた俺にとって、『転生』というワードはかなり馴染みのあるものだ。

 異世界転生というジャンルでは、主人公が死後知らない土地に生まれ変わり前世の知識を用いて無双していく物語が流行っている。その派生で乙女ゲームの中に転生するというものがあるのだ。今俺が経験しているのは明らかにそれに近い。乙女ゲームとラブコメ漫画の違いはあれど、ほぼ同じだ。


――どうやら俺はラブコメ漫画の中に転生したらしい。


「ふっ」


 自分で考えておいてなんだが、あまりに非現実的でつい笑ってしまった。だってそうだろう?誰がラブコメ漫画の中に転生するなんて思うんだ。

 だが気付くタイミングはもっと前からあった。そもそも前世の記憶を思い出している時点で、自分がおかしいと思うべきだった。色々と混乱しすぎて全然冷静ではなかったらしい。


「ふぅ」


 ゆっくり息を吸い、そして一気に息を吐きだす。もう一度深呼吸を繰り返す。何度も繰り返していると冷静さが戻り、やっと頭がまわり始める。よし、落ち着いてきた。


 もう一度現状を見つめるため、教室を見渡してみる。すると予想通り『偽カップル』に出てくる親友キャラなどのサブキャラ達が主人公の本宮翔の周りにいた。もちろん、ヒロインの安達日葵もいる。おそらく主人公がぶつかって怪我をしたのを心配しているのだろう。

 今度は現実を受け入れたためかさっきほどは動揺しない。まあ、それでもあまりに非現実的なことには変わらないので信じられない気持ちはまだあるが。


 とりあえず、俺はラブコメ漫画に転生しているいことだけは確かだ。そして俺のこのデブな姿と只見優一という名前には心当たりがないことからも、おそらく俺はモブキャラだろう。こんなぽっちゃり体形のやつがモブキャラ以外ありえない。改めてお腹の肉をつまんでみて自分が太っていることを自覚する。


 うん、だんだんと整理出来てきた。今の状況を見つめなおせば、これからのことも大体予想がつく。今は新学期初日。それはつまり……。


「ほらー、とっとと席に着け」


 教室の前の扉が開いて先生が入ってくる。先生の声に慌てたように会話していた生徒たちが自分の席に戻っていく。ちらっと本宮翔の隣の席を見れば、不自然にその席は空いていた。ああ、やっぱりか。


「あー、いろいろ話さないことはあるがまずは転校生を紹介する。入っていいぞ」


 先生が扉に向かって声をかけると、ゆっくりと扉が開く、そして一人の女の子が入ってきた。

 どこか静かな雰囲気。なびく亜麻色に近いブロンドヘアーをなびかせて、優雅に歩く姿はどこかのモデルのようで思わず見惚れてしまうほど美しい。「おおー!」と教室にわずかに歓声が上がる。

 そのまま彼女は教壇の前に立つと、柔らかく頭を下げた。


「今年編入した月山凛です。よろしくお願いします」


「あ!」


 彼女の挨拶が終わる間もなく、声が上がる。そちらに視線を向ければ主人公、本宮翔が驚いた表情で固まっていた。


「ああ、今朝の……」


 月山凛も心当たりがあるようで、少しだけ目が大きく見開かれる。もうお気づきだろう。そう、転校生イベントにして、メインヒロイン遭遇イベントだ。


「あの時は大変失礼しました。私も急いでいたので」


「あ、いや、大丈夫だよ」


「そうですか」


 淡々とした口調。変わらぬ表情。感情は読めず、どことなくきれいな人形のような雰囲気。それは近づきにくい壁のようにも感じた。


「えっと、彼女は去年まではイギリスに住んでいたんだが、仕事の都合でこちらに来ることになった。仲良くしてやってくれ。月山は席についていいぞ。じゃあ、今日のこの後の予定から説明していくなー」


 自己紹介はあっけなく終わり、月山凛は自分の席に座る。そのまま周りからの好奇な視線など意に介さず、平然と前を向いていた。


♦︎♦︎♦︎


「月山さん、凄いきれいだね!!」

「月山さん、英語話せるの?」

「イギリスのどこから来たの?」


 朝のホームルームが終わると、一気に周りに人が取り囲んで質問攻めを始めた。そんな急に沢山来たら戸惑いそうなものだが、月山さんは淡々と「そう、ありがとうございます」「はい、話せますよ」「ロンドンです」と返し続ける。表情の読めない月山さんに周りは少し困惑顔だ。


「あ、そういえば、さっき翔君と話してたよね。もしかして知り合いなの?」


「いいえ、違いますよ。彼とは今朝たまたまぶつかってしまっただけです」


「なんだ、そういうことだったんだ」


 クラスメイトそんな会話が聞こえてきて、確かに漫画でもそうだったな、と納得する。漫画の中なんだから当たり前なのだろうが、やはり『偽カップル』で起きた出来事がここでは起こるらしい。


 そんなことを考えて座っていると、ドンッと机に誰かがぶつかってきた。その衝撃で俺の筆箱が落ちて中の道具が辺りに散らばってしまう。


「あ、悪い」


 ぶつかってきた人はそれだけ言い残して、月山さんの方へ行ってしまう。少しくらいは拾えよ、と内心で思いながらペン達を拾い集めていると、頭上から声がかかった。


「だいじょうぶ?」


 優しく柔らかい声。どこか落ち着くその声に顔を上げると、そこには安達日葵が立っていた。


「!?」


 まさか彼女が近づいてくるとは。予想外の出来事に息をのむ。なんとか「大丈夫だよ」とだけ返すと、安達さんは屈んで一緒に筆記用具を拾い集め始めた。それほど道具は多くないのですぐに集め終わり、一緒に立ち上がる。


「はい、これ」


「ありがとう、安達さん」


 優しく微笑みながらペンを渡されたので、それを受け取りながら礼を告げる。すると、名前を呼ばれたのが意外だったのか、安達さんは少しだけ目を丸くした。


「あ、私の名前知ってるんだ」


「えっと、そうだね。ほら安達さんは有名だから」


「ああ、なるほどね。えっと、名前は?」


「只見優一だよ」


「只見くん、ね。もう覚えたよ。よろしくね、只見くん」


「こちらこそよろしく」


 にっこりと天使のように微笑む安達さん。柔らかく朗らかな笑みに見ているこっちの心が温かくなる。


「じゃあね」


「うん、じゃあね」


 安達さんはひらひらと手を小さく振って主人公の本宮翔達のグループへと戻っていった。


 渡されたペンを筆箱にしまいながら、ついさっきのことを思い返す。まさか、憧れたヒロインとこんな簡単に話すことになるとは。こんな冴えない姿の自分にまで優しいなんて、本当にいい人だ。

 『偽カップル』という物語の中で彼女がいい人であることは知っていたけれど、実際に接して改めてそう思う。


 未だにさっきの微笑みが脳裏から離れない。優しく人懐っこい笑みは本当に可愛らしかった。漫画での笑顔も可愛かったが、こうやって実際に見るとどれだけ魅力的なのか実感する。


 あれだけ魅力的に笑えるのは、彼女の性格のなせる技だろう。彼女の笑顔は裏表を感じさせず、純粋な親しみとして見れるので、本当に見ているこちらが安らぐのだ。


 きっと笑顔が彼女を愛しているのだろう。彼女ほど笑顔が似合う人はいないと思う。いつまでも笑って過ごして欲しいと思う。ーーだが、一番の笑顔は最後には失われてしまう。


 彼女が一番魅力的に笑うのは、主人公の本宮翔と話している時だ。大好きな人と話せる幸せの笑顔は全てに勝る。


 そっと安達さんの方に視線を向ける。そこには本宮翔と楽しそうに朗らかに笑って話す彼女の姿があった。


(ああ、本当に愛らしい笑顔だ)


 この笑顔が失われてしまう。大好きな人に振られて、その傷を負った彼女の笑顔は、どこか痛々しさを孕んだものになってしまうのだ。


 あの泣き笑いのような切ない笑みは、今思い出すだけでも自分の胸が締め付けられるようだ。前世では漫画の中だからと、それも一つの楽しみ方だと納得していた。

 だが実際に彼女の笑顔に触れてしまえば、仕方のないものだとは思えなかった。


 彼女にはいつまでも笑っていて欲しいと思う。ずっと楽しく笑っていて欲しいと思う。あんな悲しい笑い方はもう見たくない。


 俺に出来ることは何かないだろうか?せっかくあの憧れたヒロインと話せる機会を得られたのだ。絶対何かあるはず。必ず何かしてあげられることがあるはず。俺に出来ること。なにかやれることが……。


ーーそこまで考えたところである可能性に気がついた。


 ああ、そうか。俺に出来ることが一つあった。俺だけが出来ること。結果を知っている俺だけが可能なこと。まだ今は物語が始まったばかり。

 もう一人のヒロインも好きだが、幸いもう一人のヒロインはまだ主人公を好きになっていない。いまならすべてを変えられる。誰も悲しませることなく、誰も泣かない結末に。


 俺が安達さんを勝ちヒロインにすれば良い。


 彼女の笑顔を守れる可能性がある。そのことに気がつけば、一気に頭が冴え渡っていく。ぐるぐると思考が加速していく。


 彼女を勝ちヒロインにする。それはいい。だが、そのためにはなにをすればいいのだろうか?


 これまでの経験から考える。これから起こる出来事から逆算して最もいい方向に傾かせるために。


 第一の条件としてすべては主人公の周りでイベントが起こる。これは当然だろう。イベントは主人公とヒロインが仲を深めるためにあるのだから。


 これらのイベントに干渉するためには、彼らのグループと親しくなるのが一番だろう。これなら、俺のこれまでの人間関係を相手にした立ち回りも生かせるし、ヒロインや主人公たちともつながりを持てる。


 とすると、一番のネックはこの外見とクラスでの立場か。どう頑張っても今のままでは彼らのグループには入れないだろう。主人公たちの集団はクラスでも明らかにトップカーストに位置しているので、今の陰キャオタクの自分では不可能に近い。


 なら、どうするか? 簡単だ。自分を変えればいい。やり方はもうわかっている。前世の俺がやったこと。あれをもう一度やればいいだけだ。


 きっと今の状況のために前世はあったのかもしれない。ラブコメに憧れてリア充を目指して、多くの人たちと関わる中で立ち回りを磨いて、上手く誘導できるようになって。


 意味があるなら頑張れる。大好きなラブコメ、それも一番お気に入りの作品に転生なんて、ラブコメファンにとって最高の状況だ。


――さあ、始めようか。負けヒロインを勝ちヒロインにするために。

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