1×15=「きっちり“賭け”に勝ったんだ」
忌々しい、と吐き捨てるが如く。
男の瞳が見開かれて。
刃が、銀に煌めく。
そして諦観が脳裏を覆い尽くした、その瞬間だった。
────────
『やると決めたのでしょう? ならば、諦めることは許しません。────貫いてご覧なさい』
わたくしが、援けるから。
淑やかで艶やか、しかし何処までも叡智と怜悧に張り巡らされた声が凛と響く。
複雑精緻を描く魔紋によって、その切っ先は肌を抉り取ることなく────あたしの頭上間一髪のところ、中空で押し留められていた。床に彫り込まれた術式など児戯に思えるくらい、緻密に緻密を重ねて織り込まれた紋が星の色に光り……その向こう側で、状況を読み込めていない男がぽかん、という顔を晒している。
チャンスだった。今を逃せばもう後は無い。すぐさま右手に握りしめたペンを振り上げ、一字一句違わずに覚えた祝詞を紡ぎ上げる。
「天に在り、地を引き裂く緑白の爪ッ! 眼に均し、手に平らげ、其は真を量る無窮の天秤────傾きたるは、報いを以て侍るべしッ!」
ペン先が、眩い光の中に突き立つ。刻まれた文字の一辺を確実に引っ掻いたそれが、「バヂリ」と火花を散らして。
────────
天と地を橋渡すが如く、紫色の稲光が空間を縦に奔る。極光を置いて一拍した轟音が室内を劈き、ぐらぐらと揺れる視界の中で、しかしあたしは闇の解き放たれる瞬間を垣間見た。
術式によってこの周囲に束ねられていた暗闇が、引き付ける力を失ったことで一気に拡散し始めたのだ。ある種整然と秩序だった流れのままに物凄い力で収束させられていたものが、前触れも無くいきなり解放されればどうなるか。
蓄積されていた熱量が我先にと飛び出して、やたらめったらな放物線を描いて散っていくさまは、まるで小さな子供が癇癪をあげて泣いているようにさえ思われた。
────否、他人事のように眺めている場合ではない!
「まずッ、……艫居さんッ!」
「手前の心配してろッ! ────エーデルシュタット!」
『アクベンスよりタルフ、繋いでボレアリスへ。来りて佇め、星の城塞────《
矢継ぎ早に滑らかに、妖精の小さな唇が祝福を紡ぎあげる。差し迫った闇の奔流が、先と同じように瞬く魔紋に弾かれて……しかし今度はそれだけでなく、あたしと、倒れ伏す客たちと、腰を抜かして呆然としている黒衣の男さえも竜巻く暴威から守るようにして、星色が半球状に展開される。覆い尽くすに留まらず、それは見る間に形を変容させ、そのもの城が如き結界へと転幻していた。
まさしくが「城塞」。襲い来る猛波を軒並み弾き返し、何人たりとも通すには能わぬと威容をしろしめす聖なる砦だ。星空のようなそれは、清らかな黒の中に無数の小さな輝きを湛えて光り輝いている。
「────しゃらくせえッ!」
鋭い一喝が飛んできたのは、未だ暴威が渦巻いているはずの星城の外だった。艫居さんの姿を確認しようにも吹き荒ぶ嵐が酷すぎてそもそも何処にいるのかどうかすら分からない。かといって探そうにも、この城を出た瞬間にあたしの体は呆気なく粉微塵になることだろう。歯痒さに唇を噛んだ────その時だった。
「《波濤》ッ!!」
ざあッ
裂帛の声が響いた瞬間、闇が押し退けられた。
まるで津波だ。目に痛いほどの極光が、束となり流線を描いて巣食う黒を軒並み打ち据えた。それはこの星城だけを器用にも避け、白の鏡面から淡く緑の焔さえ立ち昇らせて空間を席巻する。耳を澄ませれば柔らかな漣の音さえ聞こえてきそうなそれは、よく目を凝らせば虹に輝く千々の星粒をゆらゆらと揺らめかせていた。
砂粒のような、あるいは星屑のような波間が、焔となって闇を掬い取って彼方へと攫って行く────それだけの現象を引き起こせる者など、この場においてはもう、字鳴艫居その人しかいない。
「わ、ぁ……」
思わず、感嘆が零れた。呆けているような場合ではないことは承知しているけれども、その曇りなき光の鮮やかさは、あまりにも眼に眩しくて。
……光が解けていく。ほぐされた波はやがて糸となって散り散りに、大気の中に融けていくようにして、あえかな燐光だけを散らして消えていった。後には、ただ静寂だけが宙に浮かぶ、電灯が無いだけの穏やかな夜が残される。
ほう、と息を衝く。前後して、あたしたちを守るようにして展開されていた星の城が輝きを失い、まるで砂のように静かに姿を崩していった。もう守る必要はない、レオさんのその判断だろう。
「(どうにか……上手く、いった)」
今更ながらに緊張がぶり返して、せり上がってきた心臓のざわつきを意識的に呼吸を深くすることでどうにか宥める。張り詰めていた体から力が抜けて、とす、とへたりこんでしまえば、離れたところから艫居さんが歩いてくるのが見えた。
黒い影が、闇の中からぼうと浮かび上がる。
「艫居さん……その、傷、」
「あ? ああ、これか。大した傷じゃねえ」
軍服に包まれた痩身には、暗闇ゆえ見難いだけで確かに鮮血が滲んでいた。捲った裾の下、あらわになった腕には痛々しい切り傷が刻まれ、滴った血が黒い手袋に包まれた指先へと滲み込んでいく。だというのに、当の本人はけろりとした顔だ。
「俺はエーデルシュタットほど防御は得意じゃない。彼奴らも全部まとめて守るには、多少の無茶が必要だったってだけだ。唾でもつけときゃ治る」
彼奴、とその親指が示したのは、離れたところに倒れ伏す黒衣の男たちだった。守る、という言葉から察するに、死んでいるのではなく意識を喪っているだけなのだろう。自分に容赦なく襲い掛かり、世界の終末を目論んだ人間たちでさえ見捨てることなく、助けるための行動を取ったのは……一体どんな感情が彼をそうさせたのか、あたしには推測することすら難しい。
ただ、その怪我の度合いを見るに、口に出して問えるような状況ではなく。妖精があたしの元をふわりと離れ、艫居さんの頭の上に戻れば、その小さな唇がやや呆れたような声を零した。
『貴方も仲良く、彼の《医院》行きですわね。この子と一緒に診てもらいなさいな』
「……、……俺はい『そう言う怪我人を見逃してくれるような方ではなくってよ。諦めなさい』……チッ」
どうやら、彼はその《医院》とやらに行くのがあまり気が進まないらしい。舌打ちを一つ、忌々し気に零してのち、へたりこんだままのあたしに向かって差し出される手。
滴った血で暗がりでも湿っているのが分かる右手とは反対、黒手袋の左手がずい、と突き出されて。
「……おい」
「えっあっ、あっごめんなさい!」
見上げたところにある緑青が不機嫌そうに歪む前に慌てて両手で掴めば、ぐい、と強い力で引き起こされた。鮮ちゃんとは違う、手袋越しにでも感じられる少し骨ばった掌────しかし思った以上に疲弊していた体は上手く体勢を立て直せず、頭の上の帽子が落ちかけたのに慌てて手を伸ばしたせいで、今度は前のめりになってしまう。
「(あ、まず、)」
踏ん張ろうとした足は見事にもつれて、ああしかし、せめて怪我人の艫居さんに向かって倒れ込むことだけは避けようと思って体を捻ろうとした────その時だった。
……ぽすりと、受け止められる感覚。視界を覆う黒と、意匠と共に随所に引かれた緑、そして毛先を覆う翠の色が同時に目に飛び込む。布越しの温度はその性格からは裏腹にやや高く、鼻先を掠めたのは鉄錆めいた濃い匂いと、その奥に薄らと薫る香水のような香り。擦れた頬に少しだけ濡れた感触を覚えて仰向けば、そこには案の定、艫居さんのむっすりとした顔があった。
「……大丈夫か。すまん、血がついたな」
暗闇の中でも不思議と冴えた目が、その細面を自然となぞる。高く通った鼻梁、口元は薄くも赤を描いていて、それが浮かべる笑みはいやに挑戦的で挑発的なのをあたしは知っていた。青と緑が入り混じりまるで光り輝く湖面の如き瞳が、しかし今は吊り目がちに整えられた眼窩で静かな感情を湛えている。流麗な輪郭は顎先の一点で結ばれて、その下、白い首筋を辿って左腕の先、しっかりとした造りの掌がすり、あたしの右頬を拭った。
その手つきは、思った以上に優しいもので。一拍遅れて、あたしは結局倒れ込んでしまったのだと気付き────ああこれではまるで、抱き寄せられているようではないかと思考が至ってしまえば。
「艫居さっ、ご、ごめんなひゃ、!」
「おい、慌てて動くな。手前も怪我してんだ。あんな無茶したんだから、ろくに動けなくて当然だろ」
怪我、と言われて初めて、ずっと忘れていた右肩の痛みがじくじくと主張を再開する。艫居さんの頭の上の妖精が放つ淡い燐光だけを頼りに恐る恐る己の肩を見やれば、そこにはうっすらと青痣ができているのが見えた。……思ったよりも、酷い。
でも。でも、あたしのこんな怪我より────艫居さんのほうが、重傷だ。彼は気丈に立ってこそいるものの、体のあちこちに切り傷を作り、下げた右手からはぽた、ぽた、と血を滴らせている。負傷だけでなく、これまでの計四回に渡る術式の破壊までの間、彼は黒衣の男たちの攻撃を一手に引き受けてくれていたのだ。闇という視界の悪い中で、かつ、たった一人で、五人以上の殺意をいなし、躱し、抑え続ける。
それが一体、どれだけの労力と能力で成されることなのか────あたしには、正確に推し測る術はない。せめてあたしが、もっと早く、もっと早くあの「隙間」を見出して、術式を破壊することができていれば。
慌てて離れようとした体が、倦怠感と無力感に囚われかける。申し訳なさに視線を下げようとしたら、……くしゃ、と掌が、あたしの髪を掻き混ぜた。
「俺も手前もやることやって、きっちり“賭け”に勝ったんだ。上出来だよ。……んなしょぼくれた顔すんなって、しゃんとしろしゃんと」
「わ、わ、」
ぐしゃぐしゃぐしゃ、と帽子ごと巻き込むようにして、その大きな掌があたしの黒髪を搔き乱す。ぐらぐらと揺れる視界の中で、その端正な唇がにっと笑みを浮かべているのが目に映った。
“賭け”に、勝った。そう、過日の視界を再現して、一か八かを強引に掴み取り、レオさんの助けを借りてでも突破してみせたのだ。やることを全うして、死力を尽くして、そうして大惨事を回避した────紛れもなく、これは「勝ち」なのだ。
何も知らぬあたしでも奪い取れた、守り切れた、これが世界の「明日」だった。
手が離れる。顔を上げる。にっと笑えば、同じように笑む緑青と目が合う。
「……ありがと、艫居さん」
「応」
────その後、あたしたちは無事ビルを脱出し、外で待っていたレオさんと合流した。そこには遥さんと鮮ちゃんの二人もいて、話を伺うにどうやらその二人が黒衣の男たちの本拠地を壊滅させたらしい。二人がかりとはいえ、決して長いとは言えないこの時間で本陣を抑え制圧せしめたなどと、にわかには信じられなかったが……鮮ちゃんが「夕飯の仕込みがまだある」と不機嫌そうに姿を消したことからして、嘘というわけではなさそうだった。
すっかり日の沈んでしまった街を歩いて、あたしたちは彼らの家へと向かっていく。
***
「何突っ立ってんだよ、エーデルシュタット。帰るんじゃねえのか」
「ん……いえ。少し気になったことがありまして。御津のこと」
「彼奴のこと? ……視界借りてた時か」
「ご明察。最後の術式を破壊する直前、竜巻に飛び込んだでしょう。その『隙』を見出した時……常人では、まず処理できないであろう情報量が雪崩れ込んできましたの。わたくしでも目眩で動けなくなるほどの、ね」
「……突っ立ってたんじゃなくて、動けなかっただけか。今は」
「今は大丈夫よ、ありがとう。慣れていますもの。でも、あれだけの情報量を目にしておいて、けろっとしているあの子は……やはり、体質以外にも何かあるのかもしれません」
「それを確かめに、あの医者のとこに行くんだろ。まあ分かるとも限んねえが……俺が見てた分には、少し星力が多いだけの小娘って感じだったがな」
「……あの子に使わせた術式、本当はね。あんな派手な雷なんて、発生しないはずのものなんですのよ。攻撃性のない妨害用の術式ですから。それがあれだけの威力を発揮したのは、純粋に、彼女の持つ星力の量が抜きんでいたからです」
「それは……、……まぐれ、とも言えねえな。四回やって、四回当ててんだ。それが運であるものか」
「ええ。とにかく、今は様子見しかありませんわね。アスクレピオスに診てもらって、その上で決めましょう」
「……彼奴の保護を続けるか、か?」
「あら、それは決定事項ですのよ。引き受けたのに途中で放り出すなどと、誰が認めてもわたくしが認めません。……それより、艫居貴方」
「何だよ。説教は聞かねえぞ、俺もくたびれたんだ。とっとと飯食って寝てえ」
「乙女の初恋キラーはいい加減にお止めなさいな……鮮の時もやったでしょう」
「は? 初恋キラー……なんだそれ、っておい! 言い捨てていくんじゃねえよ手前、────おい!」
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