第4話 両親と僕(3)
それからすぐに事務室に誰かが入ってくる音が聞こえた。足音は,事務室を一通り回った後,さっきの叫び声は何だったのかという風にしばらく悩んでいるようだった。しかし直に事務室のドアを開き,通路の向こうに消えていった。
僕たちがいたのは,中根のデスクの向こうの窓の外にある,非常階段の踊り場だった。
実は火災等が起きた場合に備えて東棟の東端には非常階段が設置されている。事務室の窓から下に降りると,すぐ脇に非常階段の踊り場があるのだ。
「ふう,危機は去った・・・」
山村老人が額の汗を拭った。なんであんたはこんなことを知っているんだと聞きたかったが,よく考えれば彼が若い女性の看護師に粗相を働くのは,今回に始まったことではない。
とにかく発見されるという事態を回避できたことだけでもラッキーだったが,なんとか僕の個人情報の入ったファイルを見ることができるわけだ。
僕は,中根のデスクの脇の鍵を取り出し,おそるおそる棚を解錠した。そして,僕の情報を探すと,案の定,アイウエオ順の最初の方に「荒巻大介」と書かれたファイルを発見した。
気分はもう犯罪者か敵国中枢に忍び込んだCIAの特派員だった。まるで国家機密でも暴くかのような気分でファイルをめくる。
過去一年分のカルテには,藪川の字で何かがひたすら書き込まれていた。病室に備え付けられていた懐中電灯では詳細な内容については読み取れなかった。
次々とめくっていくと,藪川が言っていた国の補助金についての書類が挟まっていた。それをさらにめくると,出てきたのは僕の住民票だった。
そこに書かれた住所は,意外にもこの病院と同じ市内だった。その事実に少し驚きつつ,他に関連する書類はないかとページをめくった。しかしそれ以外手がかりになりそうな情報は何一つ無かった。
僕は急いで住所をメモし,成人誌を中根のデスクから取り戻した山村老人とともに,事務室を後にした。
その次の日,僕は病院前のバス停からバスに乗り込み,南里病院のある小さな山の麓にある街の住宅に向かった。
その日は、晴れて気温も15度近くと比較的温かい日だった。
病院を出て以前僕が住んでいた場所に向かうことは,誰にも伝えなかった。もし誰かに行き先を伝えたならば,きっと止められるだろうと思われたからだ。
自分が昔住んでいた場所を尋ねるだけなのに,僕の胸には後ろめたさと緊張が渦を巻いていた。この先に,僕が求めていた僕自身の過去の人生がある。僕はそれを取り戻して,もう一度やり直したい。
今の僕にとって,病院での生活はあまりにも退屈だった。苦痛は特にないが,自分がなぜこの場所にいるのか,理由が全く分からない。その理由を聞いても,誰も正面から答えてくれない。
誰も教えてくれないなら,自分で思い出しに行くしかなかった。過去の自分の人生の目的を。自分が何のために生きていたのか,その理由を。
バスに揺られて40分ほど過ぎたところで,目的の場所の近くのバス停に辿り着いた。そこは,大きな国道沿いの道だった。そこを一本裏道に入ると,アパートや一軒家が密集している地区に入る。以前僕が住んでいた場所は,まさにその一角だった。
ごく普通の一軒家。僕が最初に抱いた感想は、それだけだった。そもそもここは一軒家が建ち並ぶ住宅街である。僕が昔住んでいた場所も、おそらく一軒家であるということは予想していた。その家は、2階建てであった。家の敷地の入り口にある門柱に、木製のプレートに「荒巻」と書かれている。
門柱を潜った左手には車一台分のスペースの車庫があった。しかし、車は止まっていない。左手には小さな庭があったが、雑草が伸びている。近づいて見てみると、家の白い壁は全体的に黒ずんでいて、少し古い印象を受ける。僕たちが住む前にも、誰かが住んでいた家なのかもしれない。庭の雑草のツタが、壁を這うように伸びていた。
玄関の前に立ってみて、僕には2つの不安が頭をよぎった。
そういえば、僕はこの家の鍵を持っていない。鍵が掛かっていたら、中に入れない。その時は、裏口を探してみようかと考えた。
もう一つは、もしかしたらこの家には、まだ誰かが住んでいるかもしれないという不安だった。もしそれが僕の親なり兄弟なりだったら、どうしよう。彼らは、僕がいきなり尋ねてきて、驚くだろうか。
ちなみに、この一年間、僕の元へは家族も含め一切の親類から連絡が来ていない。
それがそもそも不可解で仕方なかった。常識的に考えて、入院している僕のもとへ家族がお見舞いに来てくれてもいいはずだ。しかし、実際は僕のお見舞いに一度でも来てくれた人は、白織葉菜と、楓さんとアルバイトをした時に知り合った居酒屋の店主のみだった。
僕は、ごくりと生唾を飲んで、ドアノブを捻った。
ドアは、あっさりと開いた。中は、電気が切れていて、薄暗い。家の玄関の突き当たりに2階に続く階段があった。
「お邪魔します」
僕は、自分の家だというのに奇妙な後ろめたさを感じながら玄関で靴を脱ぎ、中に入った。
玄関を上がってすぐ左手が茶の間だった。その奥がキッチンである。玄関近くの右手に、トイレがある。僕は茶の間に回り込んだ。
「ぐちゃぐちゃだ・・・」
座布団が辺りに散らかり、刃物で切りつけたような跡があって、中の綿毛が飛び出ている。随分古い型のテレビも、コードが引きちぎられた上にテレビ台から落とされて床に転がっていた。
キッチンはさらにひどく散らかされていた。
棚の食器がすべて床の上に粉々に砕け散っていた。冷蔵庫も開けっぱなしの上に中身が意図的に外に出されていた。いつのものか分からないようなウインナーや豆腐や野菜が干からびて干物のように萎れていた。
キッチン台の下の扉が開いていた。茶の間を散らかした犯人は、どうやらここにおいてあった包丁を使って座布団を切りつけ、テレビのコードを切ったらしい。包丁が一本もなかった。
僕は次に2階に上がった。階段を上がって左手の部屋は、どうやら誰かの寝室だったらしい。布団が床に2セット置かれたままとなっている。そこにも、包丁で切りつけた跡があり、羽毛が飛び出していた。壁に掛けてあった絵も、なぜか地面に叩き付けられたようで、ぱっくりと中央で2つに割れていた。
この家を荒らした犯人は,よほどこの家に恨みがあったらしい。棚の上や壁に掛けられていたであろう小物は、ことごとく床の上に散乱していた。
僕は、その部屋を出て、残る最後の部屋の前に立った。その部屋は、わずかにドアが開け放されていた。
僕は、その部屋の前に立った瞬間に、理由のない不安感に駆られた。
この先は、知ってはいけないものがある気がした。僕の心の声が、全力で最後の部屋に入ることを拒否している。やはり別の日にしようか、そう一瞬考えた。別に、今日でなければこの家に来られないことはない。また次回、この部屋に来ればいい。もう少しゆっくり時間を掛けてから、もう一度自分の過去と向き合えばいい。
僕は、自分の中のそう言った声を無理矢理押さえつけた。
恐くても、行くんだ。僕は、この先のことを知って、また未来に向けて歩き出す。もう、過去にとらわれて生きるのはうんざりだった。
ドアを引いて、中に入った。部屋の中には、簡素なベッドと本棚、勉強机があった。誰かが昔、住んでいた部屋だ。本棚に並べられたコミック本は、見覚えのあるものばかりだった。
そうだ、この部屋は僕の部屋だ。
記憶は戻ってこないが、僕の肌がそのことを感じていた。記憶はないけれど、僕は確かにこの部屋で生活していた。この椅子の位置も、ベッドの向きも、すべて僕が昔過ごしていた時のままだ。記憶は無くとも、身体がそれぞれの位置をはっきりと覚えていた。
僕の胸に、懐かしさが湧き上がってきた。それは、1年間の病院生活では決して味わうことのないものだった。
しかし、その感情も、僕が部屋に入って後ろを振り向いた時には一瞬にして吹き飛びことになった。
僕は、部屋の中央から後ろを振り返った。
クローゼットの上から、一本のヒモが垂れ下がっていた。
「なんだ、これは?」
そう思った瞬間、僕の腹の底から、やり場の無い怒りや不安が沸き起こってきた。僕は、自分でも制御できないその感情に、戸惑った。
ちらっと机の上を見てみると、長方形に折りたたまれた手紙が机の上に置かれたままになっている。僕は、湧き上がってくる不安の正体を知るために、飛びつくようにその手紙を取り上げ、中を開いた。
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