第4話 両親と僕(2)
それから3日がたった。今日は,週に一度,僕の主治医の藪川医師から,僕の病気の進捗状況について30分ほど説明を受ける日だ。
「えーっと,これは君の膵臓をさっきエコーで探った結果なんだが・・・」
藪川医師は,そう言ってさっき僕の内臓をエコーで検査した写真を見せながら,いろいろと説明をしていた。彼のふくよかな体型にしてはやや骨張った指で,延々と説明を続けていた。
以前はそんなに気にしなかったが,僕に対する彼の説明は,よく考えればつじつまの合わない点がいくつかあった。
1つは,僕がどんな病気なのか,彼は一向に僕に説明しようとしないのだ。「精神的な病だよ」とは言っていたが,具体的な病名や症状については何も教えてくれあい。
もう1つは,彼は毎回僕を検査する度に,違う箇所を診断するのだ。
一番最初はX線で脳をスキャンした。精神的な病気なのだから,脳の一部に異常な反応が見られたりするのかな,と思って,彼の診断内容が何を言いたいのか理解できないことを見逃した。
次の診断では,ストレスの度合いを調べるのだ,という主旨の説明を受けて,いくつかの彼の質問に答えたりした。その結果,「現在の君には,あまりストレス要因はないようだね」なんていう説明を受けた。
この病院では,学校や職場のように対人関係で悩むような場面はほとんど無いし,勉強や仕事,家事や子育てといった社会的な義務も今の僕にはない。この状況でストレスで悩む方がおかしいのではないか,と思った。
その次からは,いよいよ僕の身体の臓器に異常が無いか調べたり,聴覚や色覚に異常が無いかという診断に内容が変わっていった。
毎回「異常なし」の診断を言われるのだが,さすがの僕も彼の診察に不信感を抱いてきていた。
「ここを早く出たい」という気持ちは,葉菜と分かれた後も日増しに強まっていった。そして,彼が延々と的を得ない診断を繰り返す理由と,記憶を失う前の僕がここにいる理由は,おそらく繋がっているのではないかと思うようになっていた。
「本日も異常なし。荒巻くん,何か質問は?」
いつもの事務的な説明の後,藪川が尋ねてきた。
「1つ,いいですか?」
「なんだね?」
いつも「質問は特にありません」という僕が初めて自分から質問をしてきたので,藪川は少し驚いた様子だった。
「僕がここにいる理由を,教えていただけませんか?」
「ここにいる理由?君が病気だからだよ」
「その,病名を教えて欲しいんです」
僕がそう言うと,藪川は「ついに来たか」という表情で頭を掻いた・
「精神的な病気だが,病名は教えられない」
「なんでですか?僕に知られたら,困ることでもあるんですか?」
「君の病気には,病名が無いんだよ」
僕が初めて知る情報を藪川は口にした。
「病名が,無い?」
「うん。君の病気は,広い意味でなら,統合失調症に該当するかな。でも,精神的な病気は,専門家でも意見の食い違いが少なくないからね」
「でも,僕はもう元気です。毎日,運動もしています。僕は,もうここを出てもいいはずです」
僕は,藪川医師をまっすぐ見てそう言った。
本心からの言葉だった。最近,体力を付けるため,毎日この病院の周囲を一時間程度かけて走っていた。長くベッドの上で自堕落に寝ていたせいで,腕もひどく細くなってしまった。最近,腕立て伏せを構内でしたりもしている。
「そんなに,外に出たいかい?」
藪川医師は,なぜか僕を少し威圧するような雰囲気でそう聞いてきた。それでも,僕の決意は揺るがなかった。
「はい」
僕がきっぱりと答えると,しばらく二人の間に沈黙が流れた。藪川は,必死に何かを考えているようだった。しばらくして,また口を開いた。
「分かった。一度,他の先生と相談して,早急に結果を教えるよ」
「なんで,そんなに僕に,もったいぶるんですか?」
僕の人生は,僕自身のもののはずだ。記憶を失ったからといって,ここの医師や権威のある人が,勝手に決めていいものでは無いはず。医師が責任を持つのは、人の病気だけのはずだ。
「それだけ,君に教えることにリスクがあることだからだ。悪いが,もう少し待ってくれ」
「それって,僕の人権の侵害ではないですか?」
僕は,毒を含んだ語気で彼にった。しかし彼の態度は,極めて冷静で,かつ事務的だった。
「侵害では無い。これは,君の安全を確保するための君の主治医としての私の責任ある判断だ。それに,君がここにいることで使われているお金は,実は国の補助金なんだ。君の財布が傷むわけでは無い。もう少し,待っていなさい」
そう言うと,彼は話は終わりだとばかりに退室を促した。
納得できない。彼の判断は,医師としての領分を超えている。それなのに彼は,悪びれもせず,自分も立ち上がって別の部屋へと消えて言ってしまった。
僕はその日の夜,22時を過ぎた頃に,部屋をこっそりと抜け出した。
最近の病室はプライバシーに配慮して,監視カメラを設置していたりすることはない。よくドラマやアニメであるような,ぬいぐるみや他の人を布団の中に入れてベッドを脱出するようなことはしなくてよかったわけだ。
それでも,消灯後の病室を抜け出すのは(夜中にトイレに行くときと,飲料を買いに行く時以外)初めてで,ベッドを抜けた直後から僕の胸は不安で少しどきどきしていた。
日中藪川医師に話を躱されてしまってから,どうしようかとずっと頭の中で考えていた。そして,そういえば病院3階の事務室の棚に,患者の個人情報が保管されていることに思い至ったのだ。
当然,個人情報の収納された棚の病室には,鍵が掛けられている。しかしその鍵が,その事務室内の看護師長のデスクの脇に引っかけられているのを僕は知っていた。
なぜそんな細かい情報を知っているかと問われれば,それが楓さんの件でわずかに親しくなった中根が,看護師長だからであり,彼女が楓さんの余命について事務室に僕を呼び出して詳しく説魅してくれたことがあったからなのだ。
頭が切れて,バリバリに仕事ができる中根だが,自分が教えてしまった情報がまさかこんな形で僕に利用されようとは,きっと思わなかっただろう。後ろめたい気持ちが無いわけでは無いが,僕は目的のためにすでに手段を選ぶような心のゆとりが無くなっていた。
通路を通って,僕の病室のある西棟から事務室のある東棟へと向かった。
消灯時間を過ぎた直後だからか,見回りをする夜勤の看護師の姿もない。そのまま,誰にも会わないまま薄暗い廊下を歩き,東棟3階の奥にある事務室にいよいよ辿り着いた。
僕は,少し緊張して事務室のドアノブを捻った。
ガチャリという音と主に,事務室のドアが開かれた。この部屋は,あくまで補助的な位置付けで,正式なナースセンターは1階のロビーの脇にある。常勤の社員もそこにいるため,ここは日中しか使われていない。しかも,棚に患者の一部の情報が保管されている以外は重要な情報が置かれていないため,基本的に開け放しているのだ。
今や,時代は情報社会だ。大切な情報は,病院が業者に頼んでPDF化し,電子データ保管庫にパスワードを何重にも掛けて保存している。アナログな紙データは,地下の金庫に錠を掛けて保管されている。
しかし,厳重すぎる管理は,実務面ではかえって不便だった。
紙媒体は地下に保管されており,鍵は院長室におかれている。電子データにも閲覧にパスワードが必要で,閲覧部分に制限があるとなれば,困るのは現場で実務に当たる医師達や看護師達だった。
そういうわけで彼らは,公にこそしないが,直近で診断をしなければいけない患者の情報をこうやって事務室に移した上で,鍵を掛けて自分たちで管理しているのだ。時代がもっと進めば,個人情報の取り扱いに関する規制ももう少し緩くなるのかもしれない。どっちにしろ,今の僕にとっては好都合だったわけだが。
僕は,しゃがみ込んで,物音を立てないようにこっそり事務室の中に入り,机の陰に隠れながら足音を立てないように移動した。幸い,この部屋には誰もいないようだった。
あと少しで中根のデスクに辿り着く,という体ミンヅデ,急に僕が近づく反対側の中根のデスクの端で,ガタン!という音がした。
僕は,一瞬,心臓が飛び上がるほど驚いた。
鼠かな,と思ったが,それから向こうもしんと静まりかえって,何も音がしない。今の音は,なんだったんだ?
消灯時間を過ぎて,電気の付かない事務室にいる人間なんて,いないはずだ。病院は衛生面には気を遣われているから,地下やボイラー室は別として,鼠が出るなんて話もきいたことがない。すると,夜間の事務室には僕以外,何もいないはずだということになる。
僕はそこまで考えて,まだ寒い季節なのに,背筋に冷たい汗が流れていくのに気付いた。
この病院はホスピスだ。
普通の患者の診断も行うが,特にこの東棟と僕のいる西棟は,直る見込みの無い患者の治療を行っている。瑠璃川さんも楓さんも,すでに余命わずかな状態だった。
ここの患者の中には,交通事故で脳の一部が破損し,寝たきりの人もいる。若くして不治の病で徐々に筋肉が動かなくなって寝たきり担ってしまっている人や,工場で粉塵を吸い続けて肺を病んでしまい,速く歩いたり階段を昇ることすら困難な人なんかもいるのだ。彼らの多くは,志半ばで,人生に名残を残して死んでいく。そう言った人たちの魂が,成仏できずこの病院を彷徨っていても,何の不思議もない。
僕は,このまま引き返そうと考えた。この先には,何かよからぬものがある。
しかし,今日を逃せば,僕はここで僕自身の情報を得るチャンスを失うことになる。この機会を逃せば,僕は自分に関する情報を得るチャンスをまた当分失うことになる。
そんな僕の気持ちが,僕を突き動かした。
さっきまでとは別の恐怖感をいだきながら,中根のデスクの東側に手を掛け,向こうに何があるか,こっそりのぞき見た。
そこには,頭のはげ上がった,目の落ちくぼんだしわくちゃの骸骨が,口を開けて僕をのぞき込んでいた。
「う,うわあああああっ!」
「お,おわーっ!」
深夜の病棟にも関わらず,僕は思わず大声を上げてしまった。そのまま動くことができず,その場で尻餅をついてしまった。
「静かにせい!なんで,貴様がこんな時間にここにおる!」
骸骨が流ちょうにしゃべり出した!
しかしそのしゃべり方にどこか心当たりがある。目を凝らして見てみれば,同じ病室の山村老人だった。
「な,なんであなたこそここにいるんです!」
「若い看護婦に昼間,粗相をしてしまって,中根のばあさんに大切なコレクションを取り上げられてしまったから,取り返しに来た」
「そんなことでここまでするのか!」
思わず声が大きくなってしまった。というか,3日前の感動を返せよ。
「お前こそ,こんな時間に何しとる」
「僕は,前にもお話ししたとおり,記憶を失ってまして。以前の記憶を思い出すために,ここの僕の情報を確認に来ました」
「ふん,そんな青臭い理由か」
あんたの理由よりはましだよ,と言いたかった。
さっき声を張り上げてしまったせいで,事務室の外から誰かがこちらに歩いてくる声が聞こえた。
「!!
まずい,おい,荒巻」
「はい,何ですか」
「東通路の向こうから,職員が近づいてきておる。逃げるぞ」
しかし,この事務室の入り口は1つだけだ。今から入り口に行くと,ちょうど駆けつけてきた夜勤の職員と鉢合わせする可能性がある。
どうしようかと葛藤していると,山村老人は中根のデスクの奥の壁の窓をそっと開けた。事務室はこの東棟の東の端で,中根のデスクの向こうは窓になっている。
何をするのかと思ったら,山村老人は慣れた手つきで窓に手を掛け,勢いよく飛び降りた!
「えっ!ここは三階ですよ」
そういって窓の外をのぞき込もうとすると,窓の向こうから手が伸びてきて,僕を勢いよく引っ張った。
「うわっ!」
今日何度目かの悲鳴を上げ,僕は窓の外に放り出された。
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