第4話 両親と僕(1)
1月になった。
僕がこの南里病院に来て,もうすぐ1年が経とうとしている。
向岸の洗脳?事件があったのが2月だから,それから約1ヶ月が過ぎたことになる。
僕の周りこそ時折騒がしいイベントが発生するが,基本的にこの病院は静寂に包まれている。僕も病室にいて最も気になる騒音は,通路を通る医師や看護師の足音か,彼らが引いていく医療用のカートの音だ。
この病院は市街地から離れた小さな山の上に作られている。ここに入ったばかりの頃には気付かなかったが,明け方には野鳥たちが森の中から鳴き声を上げている。日本海側に面するこの病院は冬には非常に沢山の雪が降る。それでも真っ白になった森の奥から,決まって毎朝,小さな湧き水が岩肌から湧き出すように,ヒョロヒョロと声が聞こえてくる。
外は明け方には氷点下を下回っているはずだ。人間達が外に出たがらないそんな寒さ野中でも野鳥たちは歌っている。僕は,彼らはひょっとしたら人間より生命力という点で優れた生き物たちかもしれないと度々思うことがあった。
今日は,しばらく病院に来なかった葉菜が,久しぶりにやってきていた。
「久しぶり,葉菜さん」
「荒巻くん,久しぶりね。しばらくこれなくて,ごめんなさい」
「全然いいよ。いつも葉菜さんには気にかけてもらっていて,ありがたいと思っているよ」
「そう。今日は,これを持ってきたの」
葉菜は,いつもの私服姿ではなかった。黒いスーツに黒いパンツを着て,右腕には黒革のバッグを肩から提げている。左手には,白い紙包みを提げており,それを僕のベッドの上に置いて取り出した。
「今日の料理はこれ!
ジブリ映画『魔女の宅急便』より,ニシンのパイ包み焼き。味は塩こしょうをベースに,隠し味をこっそり入れてみました!」
「おお!」
彼女が取り出したのは,映画で作られていたものより二回りほど小さい,白い陶磁器に乗せられたパイだった。冷めてこそいるが,ちゃんとニシンが入っているであろう場所は魚マークのシルエットがパイ生地によって作られている。魚の目の部分には,レーズンがちょんと載せられている。
「今日はすごい,かつてなかったくらいに凝ってるね」
「ふふ,そうでしょう?
実は卒業論文を最近書かなくちゃいけなくってね。それに煮詰まってくると,こうして無心で料理を作っていると,いいアイデアが浮かんでくるの」
「へえ」
僕はよく分からないが,大学の勉強というのは大変らしい。ここに葉菜が来るたび,「来週発表がある」とか「レポートの締め切りがヤバイ」と度々愚痴を漏らしていた。
「そういえば葉菜さんは,学校でどんな勉強をしているの?」
内容を聞いて自分が分かるとは思えなかったが,なんとなく尋ねてみた。
「私は,大学の文学部にいてね。国際関係論を専攻しているわ」
「こくさいかんけいろん?」
「まあ,国際問題について研究するのね」
ざっくりしすぎていて,よく分からなかった。
「ちなみに葉菜さんは,どんな研究をしているの?」
「北欧の社会保障制度」
「へえ,なんだか難しそうだ」
「というわけで,このニシンのパイ包み焼きも,北欧の家庭料理なのね」
「そうなの?」
「ええ,そうよ。
ニシンって,寒い海で取れる魚だからね。ノルウェーとかフィンランドみたいな北の国で,よく食べる訳よね」
「なるほど。じゃあ,とりあえず一口,味見してみてもいい?」
「どうぞ」
僕は,ベッドの引き出しからフォークを取り出し,一口分切り分けて食べてみた。
口にパイ生地のしっとりとした感触が広がり,その奥から魚肉の食感とニシン独特の風味が広がった。
なるほど,面白い料理だな。それが正直な感想だった。これは,美味いものというより,ネタ料理の一種だ。まずくは無いが,美味いかと聞かれると,返答に困る。
そういえば,葉菜は1ホール分のケーキを焼いて持って来たり、牛肉の入った味噌汁を作ってきたり,料理の趣向が変わっている。彼女の趣味だという料理は,美味いものを作ると言うより,笑いのネタを作ることに注意が払われているような気がする。
口の中で噛んでいると,だんだん砂糖のような甘さが広がってきた。これが彼女の言っていた,隠し味のようだ。
「葉菜さん,なんか時々甘いものが入っているけど,これは何?」
「荒巻くんは,何だと思う?」
僕は,頭の中に瞬時に浮かんだ言葉を口に出した。
「この甘さは,チョコ?」
「正解!」
「うげー」
僕は,思わず口から吐き出しかけてしまった。
「あーっ,何よ!人がせっかく作ってきたのに!」
葉菜曰く,チョコのカカオの香りで,ニシン独特の臭みを消しているらしい。そして,全体的に塩味の聞いたパイにわずかな甘みをプラスすることで,味に深みを出すことが目的らしい。
しかし,カカオの香りはニシンの匂いを消すどころか,口の中で化学反応を起こして臭みを数倍に膨れ上がらせている。チョコの甘みは,素朴なパイ生地の塩気に完全に勝利し,もはや甘さがこのパイの味となっていた。
「前から思っていたけど,葉菜さんの料理って,ネタ要素が強くない?」
僕は,葉菜はネタ料理を作ることが趣味なのだと思っていた。
「私は,いつだって真面目においしいものを作ろうと考えているわ」
「そうですか」
これ以上追求するのはよそう。
すると「そういえば」とい葉菜が口を開いた。
「最近荒巻くん,以前よりちょっと元気になってきているみたいで,安心したわ。最初,優のお葬式で会った時なんか,今よりずっと痩せていて,青白い顔で,ずっと下を向いていたもの」
「そうだったっけ?」
僕が以前より元気そうだって?
あまり自覚が無いので気付かなかった。そう言われてみれば,最近の僕は以前より少しだけ,心に元気を取り戻しているような気はする。それは,この一年間で白織を始め,様々な人との交流を通して,それなりに充実した毎日を送っている証拠かもしれない。
「葉菜さん,僕はさ,優に出会った頃は,なぜだか分からないけど,自分が何のために生きているのか,しょっちゅう考えていたんだ。でも最近は,そんなこと滅多に考えなったんだ」
「君たちの年齢では,よくあることよね。それも,私たちみたいに就職活動を始める頃になると,考えなくなるものだけど」
「きっと,瑠璃川さんや楓さん,向岸や他の患者さん達,ここで交流した人たちを通して,自分なりの考えができあがってきたんだと思うんだ。
瑠璃川さんも楓さんも,もう死んでいなくなっちゃったけど,もう寿命が1ヶ月しかなくても,この病院の外にもう出られなくても,あの人たちはちゃんと,自分の人生を見つの目的を見つけ出せて死んでいったと思うんだ。
もちろん,あの人たちだってここに来るまでは思い通りの人生は歩いてくられなかったよ。現実から逃げ続けると,きっと前の向岸みたいに,怪しい幻想に捕まったり,怪しいカルト教団に捕まったりするのかもしれない」
「荒巻くん,相変わらず話が真面目よねえ」
葉菜がしみじみと言ってきた。
葉菜は普段,そんなことは考えないのだろうか?もしくは考えていても,他の人に話したりすることは無いのだろうか?そんな僕の話に,葉菜はいつもいやな顔をせずつきあってくれるわけなんだが。
「僕は,人生に生きる意味があるかは分からない。でも,人生は生きる価値はあるんだと思うんだ。自分の人生で欲しいものが分かれば,僕たちは苦しくても生きる価値のある人生を送れるんじゃないかな」
「それが,君がここで一年間過ごして,学んだことなのね」
「・・・うん」
僕は,一呼吸置いて,葉菜に答えた。
実は今日,葉菜が来ると連絡をくれた時から,彼女に尋ねたいことがあったのだ。しかしそれを彼女に聞くのは,少し勇気が必要だった。
僕は,唾を飲み込んで,葉菜に尋ねた。
「葉菜さん,お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「僕のこと,教えて欲しい。ここに来る前の僕がどんな人間で,どんな人生を送ってきたのか」
僕がそう言うと,葉菜は驚くんじゃないかと考えていた。
しかしそんなことはなかった。普段はつんとすまして冷静な彼女の顔の表情から,「ついに来たか」という感情が読み取れた。
「それを知って,どうするの?」
質問に答えず,葉菜は聞き返してきた。
「僕も,ここで出会った人たちのように,生きる価値のある人生を送りたいと思うようになったんだ。
だから,僕は思い出したいんだ。僕は記憶を失う前,どんなものを目指して生きていたのか。それを知って,またやり直したい。記憶を失う前の人生の続きを,もう一度始めたい」
それは,同時にこの病院にはこれ以上いるつもりはないという僕の決意表明だった。
実際,僕の行動への意欲は,日増しに強まるばかりだった。いつまでもこの退屈な病院のベッドの上で寝ていたくなかった。僕は,健康上は社会復帰に何の問題もない。あと必要な最後のピースは,社会に出た時の自分の目標だけだった。
葉菜は、僕の顔を真顔でじっと見つめてきた。
なぜか威圧感を感じるその視線に負けたくなくて,僕も彼女をじっと見つめ返した。彼女は,僕の何かを吟味しているようだった。
どれくらい時間が経ったのかは分からない。気まずい沈黙を破ったのは,葉菜だった。
「そんなに焦らなくてもいいんじゃないかしら。もう少しここでゆっくり過ごして,ゆっくり思い出せば」
僕は葉菜の言葉を聞いた瞬間,彼女に僕の質問をはぐらかされたのだと理解した。彼女は僕に,僕の過去について教える気はないようだ。
「葉菜さん,どうして・・・」
次の言葉がうまく出てこなかった。
いつも理知的でストレートに自分の気持ちを伝えられる葉菜が,僕の質問を誤魔化した。そのことに僕は,きっと彼女以上に動揺していた。
「荒巻くん,悪いけど,私は以前のあなたについて,聞きかじる程度にしか聞いていないし,それを君に伝えるのは,私の裁量を超えることなの。だから,きっといつかここの先生が教えてくれるわ」
僕は,急に責任の話など持ち出した葉菜に動揺した。
「そんな,別に少しくらい教えてくれてもいいじゃないか」
葉菜の態度が一変したことで,僕は自分が思っていた程葉菜との心理的な距離が近くはなかったことに少し面食らった。僕は彼女を親しい友人か,(ひょっとしたら)それ以上の何かだと思っていた。
しかし彼女は,僕との間に明らかな一線を引いていた。彼女にとっての僕は,保護者が面倒を見るべき子供のようなものだったようだ。その事実を感じ取った僕の心に,じわじわと失望とやり場の無い怒りのような感情がわき上がってきた。
「葉菜さん,これは僕の人生の話だ。人がどうこう言う問題じゃ無いんだ」
「だったら,申し訳ないけど,なおさら君には教えられない。君の人生の責任,私は負えないもの。しかるべき時に,先生が教えてくれるはず」
僕の人生は,僕の人生のはずだ。
それを,本人に教えら得ない?それは,僕が持つ人生の権利の侵害では無いのか?
「優だったら」
こみ上げてくる怒りにまかせて,しばらく口に出していなかった白織の名前がつい口をついた。
「優だったら,教えてくれたんじゃないかな」
弟の名前を聞いた葉菜は,表情をまったく変えることはなかった。
実は,優の話は極力,葉菜の前でしないことに決めていた。優が死んだのは,去年の4月中旬。あいつの通夜で,彼女が目を真っ赤にして涙を流していたのを,僕は目撃していた。
葉菜が弟の死を受け入れるのにも時間がいるはずだと思ったのだ。だから,彼女が切り出さない限り,僕から優の話をすることはほとんどなかった。しかし今,僕は個人的な怒りで葉菜のつらい記憶を呼び起こそうとしている。
心の底で「最低だな」と誰かが呟いた。
僕の予想に反して,葉菜は全く同様しなかった。僕はそれに,心の中でさらに面食らった。
「優でも,教えないわね」
「な,なんであんたにそんなことが分かるんだ!」
思わず怒鳴ってしまった。他のベッドにる患者が驚いて,シーツを触る音が聞こえてきた。
葉菜は,無機質な表情で,口を真一文字に結んでいた。普段の冷静な彼女の顔とも違う,少し意固地にも見えるような表情だった。
「私,この後企業訪問があるから,悪いけど今日はこれで失礼するわね」
葉菜はそう言うと,そそくさと立ち上がった。やがて,怒鳴り声を上げたまま固まっている僕を残して,通路に足音を響かせながら出て行ってしまった。
病室に残された僕を次に襲った感情は,後悔だった。
しまった,つい,怒鳴ってしまった。普段,お見舞いに来てくれるだけでもありがたいと思っているのに。そんな彼女に僕は,一方的に感情をぶつけてしまった。
ひょっとしたら,もう彼女はここに来てくれない。
彼女にとって,僕は単なる弟の友達。関係を続けるのも断ち切るのも,彼女にとってはたやすいこと。自分から連絡を絶てば,それで僕との関係は自然消滅するy。
彼女には,きっとここの外にも沢山の人との繋がりがある。僕一人がそこからいなくなっても,きっとさほど困らない。
でも,僕はどうだ?
瑠璃川さんも楓さんももういない。ここにいるわずかなつながりを除けば,僕の世間は彼女よりずっと狭い。自分にとって大切だった繋がりを,僕は自らのてで壊してしまった。
そんな後悔に苛まれていると,カーテンを開く音がした。
ちょっと前までエロ本を貸し借りしていた山村老人だった。
「朝からうるさいの。あのお嬢さんにお前,どなったのか」
「はい」
山村老人は,白織が死んだ直後に助けが必要ないかと尋ねた。しかしこの老人は「手は足り取る」と言って僕の志願を断った。それ以来,特に深い話はしていない。楓さんが死ぬ1月中旬まで購買で買った雑誌の貸し借りをしていたが,それを除けばただの隣人だった。
僕が動揺している様子を見て,痴話喧嘩をしたとでも思ったのかもしれない。
「お前は,あんなべっぴんに見舞いに来てもらえていいのお」なんて言ってきた。
「ええ,でも,ちょっと喧嘩してしまいまして。もう来てくれないかもしれないです」
「女はな,というか,友達はな,そういう時は素直にこっちから謝ったほうがいいぞ」
この老人にしては珍しく,真面目なアドバイスを送ってくれた。
「でも,今までこんなことなくって。どんな顔して謝っていいのか,分からないです」
「今日謝ることができないなら,一週間くらい経ってから謝ったらどうじゃ」
「一週間,ですか」
「わしも若い頃はよく,友達と喧嘩してな。そういう時は,自分から謝るに限るな」
「はあ」
「そうしないと,世間は慌ただしいからな。気付いたら,鳥かごの鳥みたいに,いつの間にか手元からいなくなってしまっていることもあるからな」
「・・・分かりました」
僕は,理屈ではそういったものの,感情面では納得していなかった。
いつも冗談ばかり言っている山村老人にしては珍しい,真面目なアドバイスだった。彼にしては珍しい?アドバイスに,素直に感謝した。
「気にかけてくださって,ありがとうございます」
「まあ,お前より3倍は長くいきておるからの」
山村老人はそう言った。僕のことを思って,真剣に言ってくれたようだった。
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