第3話 霧の街と彼女の居場所(12)
その時、僕の脳裏に電撃が走った。否、そんな感覚が走ったのだ。僕は、彼女の味方を知っていた。彼女と知り合った直後に、知り合っていた。彼女の心を救える存在を、たった一人だけ、知っていた。
僕は、その瞬間、うれしくなった。心のどこかが、ポッと温かくなった。そうして、同時に、ワクワクした暖かな気持ちになった。そうだ、知っていたんだ。心に孤独を抱え、それでも最後に自分の世界を見つけた人を。孤独ではあったかもしれないが、それを突き抜けた希望を手に入れた男の存在を。自分の孤独を最後にはすべてエネルギーに変えてしまった人を。
「向う岸、聞いてくれ」
僕は、懐で泣いている彼女を引き離し、両手をポンっと両肩に置いた。そうして、少し落ち着いてきてべそをかいている彼女に、話し始めた。
「きみに伝えたいことがあるんだ。僕の友達で、面白い人がいるんだ、いや、いたんだよ。
その人はね……」
彼女と僕はその後、電車に乗って南里病院に戻った。
不思議なことに、僕の話を聞き終えた彼女は、とても素直に僕の指示に従った。
次の日、僕と向う岸は藪川のところに行った。そして、精神科医の先生を紹介してもらった。医師はもう準備は出来ているが、すぐに治療をするか、と聞いてきた。
向う岸は、少したじろいだが、強い決意を直ぐに固めて、首を縦に振った。すると医師は、病院の一室に案内してくれた。治療は、事前に内容を話すと効果が無くなってしまうらしい。だから、この部屋に入って、あとはアナウンスに従うようにとのお達しだ。
彼女は、この部屋に入るのを恐れていた。当たり前だろう。自分の信じていたものが、彼女の中で壊れかかっているのだ。それを更に何かで上塗りしようとしている。もしくは、築きかけた価値観を徹底的に壊そうとしている。洗脳の暴力だ。彼女はただでさえ、事故や治療で傷ついている。そして今、彼女の心の支えだったものすら、壊れかけようとしているのだ。
彼女の足は、わずかに震えていた。顔には表情が無い。僕は、彼女からひどい不安感と不信感を感じた。
僕は、思わず彼女の手を握っていた。いつか葉菜が自分にしてくれたように、今度は僕が彼女を助ける番だ。助けにならないなら、せめて救いの足しくらいにはならないだろうか。
「向う岸、安心しろ。僕が一緒に中に入ってやる。大丈夫、ここを抜け出したら、きっと楽になる。あとひと踏ん張りだから」
彼女は、無表情に僕の方を見て頷いた。少しだけ、彼女の表情が緩んでいた。
「それはね、一種の幻想世界だ。三途の川とか、地獄とか、日本には古くからそういうものの信仰があるだろう? きっと彼女も、そういった世界に行ったんだ」
「あの世って、やつですか? 」
僕がそういうと、藪川は自分の座る背もたれ付きの椅子を左右に回転させた。顔には、困った表情が張り付いている。
「非科学的だねえ。僕は医師だから、そういうものは、どうも」
「でも、それ以外に説明する手段なんて、ないじゃないですか? 」
僕がそう言うと、藪川はしぶしぶ言った。
「まあ、脳が衝撃を受けて、海馬の働きに変調をきたしたんだろうね」
「藪川さん、本気で言ってますか? 」
僕はそう言って、藪川の表情を見た。科学と言う自分の本拠地は明け渡さないぞ、という顔をしている。藪川にも意外と頑固な部分はあるらしい。
僕は気を取り直して、藪川に聞いた。
「でも、彼女は向うで両親に会ったって。それも、動物のような姿の」
「例えば夢を見る時、普段の生活ではおかしいと思う部分を受け入れられることはないかい? 」
「ああ、あります」
「きっと、彼女も、一種の陶酔状態に陥っていたんじゃないかな。アルコールで酔っぱらうのとは、少し違うけどね。だから、普段ならおかしいと思うことにも、全然気づかない、いや、気づかないふりが出来たんだと思う」
「そうなんですかね? 」
「これは、医学的でもない、あくまで僕個人の予測なんだけどね、例えばカルトの洗脳の手法として、相手に深く考え込ませたり、体力を付けさせる余地を与えないというのがある。そうして、相手に余裕を失わせることが、典型的な向うのやり口なんだ。
彼女はその、『霧の街』という場所に行ってすぐ、両親を探し出したね。きっと精神的な余裕はほとんどなかったんじゃないかな。その空いた心の隙間に、誰かがまたは何かがスポッと収まった。
はい、これで調理は完了しました、ってね」
藪川は、両手を上げて、オーバーアクションを取ってみた。
「ふうん……」
僕は右手であごを押えて、考えていた。その「霧の街」とは、どういう場所なのだろうか。あの世なのか、それともカルト集団なのか。
「だから、きっと彼女が向こうで一緒にいた者は、本当の両親じゃないね。向うにも何か考えがあって、彼女と一緒にいたはずだ。命を奪われても、仕方のない状況だったんだよ?
そうやって、社会生活を営めなくなっていった人もいるわけだし。
それでも不思議だね。その両親を語る奴らは、結局彼女に、何一つ危害を加えなかったんだろう? 彼らから、彼女をそこに住まわせようともしなかったみたいだし。彼女は、彼らの意のままに出来たはずだ。もしかしたら本当に、子供が欲しいと思ってた連中なのかもね」
「うーん……」
僕は相変わらず考えていた。結局、いくら考えても結論は出ない。
それより、彼女が無事正常に戻ってきてくれたことを喜ぶべきだろう。人生では、解決する問題と同じくらい、解決しない問題も多いのだから。
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