第3話 霧の街と彼女の居場所(11)

「私の心の中に巣食った罪の意識は、学校に行くようになってまたぶり返してきた。病院に居ても手術の前とかになると、心の底から声が響くの。『この痛みは、愚かな自分への罰なんだ』って。

過去の失敗は許されるって言うけど、私はそうは思わない。いつだってもう一人の自分が自分を見ていて、表面で誤魔化しても心の底では罪を背負っていく。過去に背負った罪を背負いながら私たちは生き続けてる。だから、『今がすべて』なの。今の自分の形は、過去の自分が作ってきたもの。今の自分は過去の全部を引き継いでいるし、そのままの形で未来を生きていくことになる。現実で何か『壁』にぶつかった時、そのずっと深いところには同じ問題が消えずに残っている。私たちの深い根底には、過去から引き継いできた『壁』がそのままでそびえ立っている。私たちは、まず自分自身を許さなくては、そこから抜け出せないの。

自分で自分を許すには、罪を告白するしかない。自分の罪を謝って、自分に許してもらうしかない。私は勇気を振り絞って、両親に謝らなくちゃいけない。そうして、愚かな自分をみんなに認めてもらわなくちゃいけない。私が本当に救われるためには、それしかない。

「私は、心の底からもう一度あの場所に行くことを願った。そうして自分のおかした罪をみんなに伝えて許されたい。パパママに必死に謝らなくちゃいけない。

そう強く願っていたら、一か月過ぎた頃、病院で眠っているうちにもう一度、そこへ行くことができたの。

「私は今度こそ、みんなに私の罪を告白した。

最初はすごく勇気が要った。こんな愚かな私、皆に受け入れられないだろうって思った。でも私の心はもう限界だった。心の奥に罪を抱えてあの孤独な世界に戻ったら、今度こそ私の心は壊れてしまう。誰にも何も言い出せないまま、私は一人、罪を抱え込んだまま壊れてしまう。……そんなの、絶対にいや!

 私はパパとママ、皆の前で私の罪を告白した。言う前は、喉がカラカラに乾いて、足が小さく震えていた。口を開いた時には、内臓を全部吐き出すみたいだった。泣きながら何度も謝った。こんな愚かな私なら、皆は見下してくれてもいい。でもどうか、こんな私も知ってください。もう私は耐えきれないから。

 みんな、私が話し終えるとしばらく無言だった。私は頭を下げながら思った。『ああ、私はみんなに見放されてしまったんだな』って思った。

 でも、誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。その音はみるみる増えていく。私はおかしいな、って思って顔を上げた。するとみんな、涙を流しながら私を見ていた。パパとママが私のところに走ってきて、強く強く私を抱いてくれたの。そうして、皆が言ってくれた。『おめでとう、あなたの罪は許されました!』って。

 私はうれしくって悲しくって楽しくって、踊りだしたくって、何にだってなれそうだしなんだって出来そうだし、もう訳が分からない気分になった。みんなとならなんだって出来るし、何にだってなれると思った。可能性は無限だった。私たちの心は一つだった。未来への期待が膨らんで、とってもいい気持ちだった。私はその時初めて、私の全てがこの世界に受け入れられたんだと確信した。」

「私たちはみんなでお互いのこと話し合った。辛かったことも楽しかったことも、悲しかったことも、罪の意識のあることも。

 するとあるお友達がね、この街のルールを教えてくれるって言ったんだ。『あなたは自分の罪を許されたから、この街に住むことができます。どうしますか?』って聞いた。

私はもちろん、この街に住みたいと言った。どうか私をここに置いて欲しい。あんな箱に詰められた居心地の悪い世界じゃない。この世界に住みたかった。

 するとパパとママが来て、この街のルールを教えてくれると言った。ルールはね、この街で培った希望をもう一つの世界で実践していくためのいくつかのハウツーなの。それをもう一つの世界でしばらく実践すれば、私は最後はこの街の永住権を与えてもらえるというの。

 ルールは八つ。

自分の希望を具体的に決める。

自分にも相手にも真実を……」

 彼女は、そこで習ったルールを八つ、一呼吸に言った。それら八つは今まで自己啓発本の類で読んだことがあるものばかりだった。ただ他にもいろいろな秘訣めいたものが紹介されているから、どうしてこの組み合わせなのかは分からなかった。

 向う岸は話を続けた。

「それをかたくなに守れば、私はこの街に住める。それだけじゃない。箱に詰められたもう一つの世界でだって、自分の願望をかなえることが出来る。たくさんの人を豊かにできるはずだったの。

 私はそれから、またこっちの世界に戻った。そしてこのルールを守って生活を始めた。最初は、私は生まれ変わったような気持ちになっていた。『何だって出来る、何にだってなれる!』そう思った。根拠は無いけど、そう思うことで未来は変わるに違いない。『私にだってみんなを巻き込んで、たくさんの人を豊かにすることができるんだ、自分だって、幸せになれるんだ! 』ってね。

私のほかにも『霧の街』に行ったことのある人はいっぱいいて、そういう人たちは一目見て分かった。みんな、目を輝かして、皆を幸せにしよう、豊かにしようとして、輝いている。

私はそういう人たちに声を掛けて、次々と友達になった。毎晩みんなで集まって、自分の背負った罪、今まで辛かったこと、将来への夢、今の自分の思いを語り合って、みんなで熱くなった。私もそんなかけがえのない仲間を持って、本当に力強かった。

でもね、この世界は所詮は、箱の中の世界なの。大切な自分の思いや世界の真実は、すぐに余計なものに埋もれて行ってしまう。私はこの世界では、みんな優しくないし、思った通りになんて全然いかないんだって気づき出した。でも私は『霧の街』のルールを守らなきゃならない。この世界を変えるために、願望を具体的に決めて自分にも他の人にも真実を言って、冒険し続けなきゃならない。

「それで、どうなったんだ? 」

 僕は、思わず聞いた。彼女の妄想とも受け取れた体験談が、いよいよ彼女の奇行の原因へと徐々に近づいてきていることを感じていた。そうして、やっと彼女がなぜあんなにも不自然な振る舞いをしているかの理由が掴めてきたように思えてきた。彼女は、僕の質問に、

「しばらくして気付けば私は上手くいかない現実と仲間たちの理想の間に挟まれて、身動きが取れなくなっていた。上手くいかない現実に自分の気持ちが変化してきて、徐々に現実の重力で地面に引き戻されかけるようになった。私は、心の支えだった『霧の街』に、どう弁明して良いのか分からない気持ちになった。自分の口で言ってることとやってることが、どんどんバラバラになってきた。

ようやく私は、この上手くいかない世界をかわいそうなものだって気づいてきたの。

この世界は、かわいそう。何にも思い通りにいかなくて、みんな心が冷たくて。

私には、そんな冷たい世界より、温かい現実がある。私はそれを頼りに生きていくの。私はそれから、病院の人もお医者さんも看護師さんも、クラスメイトもおにいちゃんも、皆『かわいそう』って思うことにした。そうしてそんな人たちより、居心地のいい仲間たちと一緒にいるようになった。そういう話をすると、みんなまた私の話に頷いてくれた。新川のおじいちゃんは、家庭内で息子さんやお嫁さんに冷たくされるって言うの。声を掛けても無視されて、子供の面倒も見させてくれない。でも、それは二人がかわいそうな人たちだからだろうって。

みんなで集まっていつものように語り合うと、現実世界の問題は何も解決しないけど、とにかく、『生まれ変わった! 未来は自分で変えられる! 』って気分になったの。

おにいちゃんは、『霧の街』が危ない場所だって言うね。確かにそうかもしれない。でも『霧の街』には何でも話せる友達がたくさんいる。自分を受け入れてくれる人がいる。自分を生まれ変わらせてくれるものがある。みんなで、素直な気持ちを分かち合える。何より、パパとママがいる。

『霧の街』の人は南里病院にもこの街にもたくさんいる。私が今、抜けたいって止めてもきっとまた誰かが私を呼び戻しに来る、そう、私を『助ける』ために。私がこっちの世界に戻って来るのは、簡単なようで、結構難しいんだ」

僕はその話を聞いて、頭の奥に鈍痛が走るような気分になった。

僕が想像していたより、事態はずっと深淵かつ不可思議だった。向う岸だけじゃない。彼女も含めて、その街の人はたくさんいるんだ。相当、社会に根付いたもののようだ。いや、これを問題と言っていいかすら、今の僕には分からなかった。

「向う岸、質問なんだけどさ。そのパパとママって、結局、本当のパパとママなのか? 」

夕日は完全に沈み切り、海上を常闇が支配するようになった。水平線の向うからごうごうと冷たい風がまた吹き出した。波が堤防を打つ単調な音だけが、強く耳に残る。

いつの間にか、僕の身体はかなり冷えてしまった。その暗闇の中で、向う岸はこっちを向いた。その顔は、悲しみは含まないが、感情の起伏のない顔だった

「わかんない」

「へ? 分かんない? そんな、だって、顔を見たんだろう? 」

「うん。でも、パパとママはあっちではまじないに掛かっているから。顔は毛むくじゃらで、目は真ん丸で、くちばしが付いている」

「……ちょっと、どういうことだよ」

向う岸は何も答えない。それ以上語りたくないようだった。

僕は彼女の話に付いていけない部分が多々あった。それをいちいち上げていけばきりがないけれど、妄想にしてはあまりに具体的な気もする。彼女の話を聞いていると、まるで自分の知る世界ともう一つ別の世界が存在していて、僕は片方の世界しか知らないと言う気分になる。そして彼女はもう一つの世界を知っていて、そことここ、両方を行き来できるみたいだ。

もう僕は彼女を諭したらいいのか、話を聞くだけでいいのか、その世界について聞き込んだらいいのか、まったく分からなくなっていた。それでも一つだけ、分かったことがある。僕にとっても『霧の街』は、この世界よりずっと素晴らしい世界に違いなかった。


「ね、おにいちゃんも分かったでしょう? 私が別に、このまま『霧の街』にいてもいい理由が? 」

「いいわけないだろう」

 僕は、彼女の言葉を即座に打ち消した。彼女は、今まで感情的に自分の体験を話していたために、僕が同情してくれると思ったのかもしれない。その顔に、一瞬にして驚愕の稲妻が落ちたようだった。僕は、彼女のやせ細った、小柄で骨の浮き出た肩を、コート越しに両腕で強く掴んだ。

「いいわけないだろう、そんなこと。お前、そこにいつまで居る気なんだ? そこがお前をどうしてくれるんだ? 結局、空回りしているんだろう。そんなこと、いつまでも続けていたら、お前の夢が叶う前に、お前の心が死んじゃうじゃないか! 」

 そうなのだ。「霧の街」の教えは、結局どこまでも現実と矛盾している。彼女がその教えを信じているかぎり、どこまでも彼女は現実世界に馴染めない。

 たとえそれが、自分自身に対して正直に生きることが出来る教えであっても、だ。

「向う岸、気づくんだ。この世界の真理は、信念でも理論でも理想でも、神でもないんだ!

僕たちは神じゃない。理想や罪を背負っているわけでもない。僕らは、人間なんだ。生物なんだ。生き物として、この世界に存在しているんだよ? 

 お前が、窮地の中で、自分の生きることだけを祈ってしまったことは分かったよ。その結果、そんな自分がずっと嫌だった気持ちも、分かった。僕らは、普段はそんな体験するわけないもんな。僕だって、仮に自分が誰かに殺されかけたとしたら、自分を守るためだったら、相手だって、もしかしたら無関係の人間まで、殺してしまうかもしれない。普段の仮面を剥がされた自分の姿なんて、出来れば一生、見たくないよ。

 でも、でも、僕らはそれでも、人間なんだよ? そういういやしい気持ちも全部含めて、人間なんだよ? どんなに汚れたって、どんなに落ちぶれたって、それでも生き延びなきゃいけないのが、僕らが生まれてきた瞬間から背負わされた、運命なんだ。戦火の下で生まれたって、冷たい路地裏でずっと誰にも目を掛けられずに凍えたって、夢が無くたって、誰かに迷惑を掛けたって、それでも僕らは生きなきゃいけないんだ! 綺麗な自分でいたいからって、そんな弱い世界に留まろうなんて、するな! 」

 僕は、話していくうちにどんどん語気が荒くなっていってしまい、しまいには向う岸に対して怒鳴っていた。彼女は、熱くなる僕をずっと、冷や水を浴びせかけられたように聞いていた。もしかしたら、彼女は僕の同情を求めていたのかもしれない。そう、「霧の街」の仲間がいつも彼女に対してしてくれているように。

 彼女の表情は、稲妻に撃たれたような驚愕から、徐々に信じられない極悪人でも見るかのようなものに変わっていった。まるで、彼女の中の一番犯してはいけないルールを、僕が破ったようだった。

「あなた、なに言ってるの……」

 彼女は、途端に僕から一歩、引き下がった。彼女的には、僕への期待はゼロ、むしろ激しい勢いでマイナス値を更新していっている。でも、僕はここで引き下がるわけにはいかない。思いやることは、傷付けないこととは違うからだ。

「逃げるなよ。僕がお前を、甘やかすとでも思ったのか! 居心地のいい世界に居たって、君の中の何ものも、実現することはないんだぞ! まず、現実を見るんだ。事実を見るんだ。それを受け入れて、初めて、何かを成し遂げられるんだぞ! 」

「いいかげんなこと言わないで! あんた、何にも分かってないくせに! 女の子に病院に来させておいて、他の患者とも仲良くなって、そんなあんたに私の気持ちはなにも分からない。何も……」

 少女の大きな瞳からは、大きな涙の粒が溢れていた。上の歯は、期待を裏切られた憎しみで、きつく下唇に食い込んでいた。それはつまり、彼女自身が意識のどこかで、自分の方が常識を逸していることに気付いていた紛れもない証拠だった。

「分からないよ、そんなもの」

 僕がそう言った瞬間、心のどこかでえぐい感じがした。それは、おそらく強いものが弱いものをいたぶって感じる快感だろう。実際、僕は彼女にとって優位に立っていた。一方の向う岸は、僕に弱みを見せておいて、それに付け込まれたのだ。

 向う岸は、涙を滲ませて僕に対して憎しみの言葉を吐いた。この段になって、もう僕を論破するなんて、無理だと分かっているはずなのに……。

「わたし達、みんな孤独なのよ! 忘れているふり、してるだけなの! 私の痛みを、誰も分かってくれない。みんな、学校の勉強とか、注射の痛みは分かってくれるのに、私の夢は誰も応援してくれなかった、共感してくれなかった……。

 ねえ、どうして? みんな、ただ生きてて苦しいことはみんなで分かち合えるのに、それぞれが本当に心の底で悩んでることは、誰とも分かち合えない。ねえ、どうして? わたし、分からない。私、くやしい。みんなが分かってくれれば、わたし、もっとがんばるのに。漫画を描く練習が学校の勉強と同じくらいだいじで、先生やお父さん達応援してくれたら、わたし、もっと一生懸命になれるのに。学校のみんなに親が居なかったら、わたし、みんなと友達になれるのに。なれるのに……。なれるのに……。いや、このままじゃ、いや!

どうして自分のやりたいことをやることがいけないの? どうして、そう、じゃあお互いがんばろ、って、ならないの? 学校の勉強が出来ない奴はダメな奴で落ちこぼれで、漫画を描いてることはただの自己満足なの? 親が居なくて寂しい子は、育ちが悪くて付き合っちゃいけないの? ねえ、ねえ、教えてよ、おにいちゃん! こんな世界おかしいよ! わたし、もう、生きるのつらいよ……」

 彼女はそういうと、瞳からぽろぽろと涙をこぼし始めた。そうして、さっきまで憎んでいたはずの僕の方に駆け寄ってきて、僕のコートに顔を埋めた。そうして、声を上げて、まるで五歳児みたく泣いていた。彼女の喉のふるえる振動が、僕の服の中にまで伝わってきた。

向う岸は、自分を理解してくれない僕の懐で泣いている。ずっと、いつまでも泣いている。誰も分かってくれずに倒れそうな彼女は、僕みたいなやつの懐でだって、平気で泣く。彼女のことを本当は何も理解してやれない、こんな男の懐で泣く。いつまでだって、泣いている。もう彼女には行く場所なんてないから、結局、ここで泣いている。親のことを思って泣いている。自分の夢に、結局孤独に挑むしかないから、泣く。いつまでも、泣いている。つまり、彼女自身の弱さのために、彼女は、泣く。

 僕はこの時、彼女の背中に手を回そうか、実は大いに躊躇っていた。彼女の背中に手を回すことは、彼女の苦しみの一部でも分かち合ってやれる人間でなくてはいけない気がした。そうでなければ、彼女と僕の心に対して、申し訳ない気がしていた。しかし彼女の苦しみを分かち合ってやれる人間は、少なくとも彼女の周囲には皆無だった。彼女と夢や希望、心の葛藤を共有してやれる人間も、皆無だった。その次に彼女の心の砦になってくれるはずの両親も、もうこの世界にはいなかった。彼女は、どこまでも孤独だった。どこまでも一人で生きなくてはいけないし、どこまでも一人きりで夢に向かって、いな、唯一残された生きる希望にすがらなくてはいけなかった。人の数だけ希望の数は存在するかもしれないが、彼女のすがった生きる希望は、彼女自身の心を孤独にしていた。僕はもういたたまれなくなってきた。彼女のことを、哀れにしか思えなくなっていた。もう、彼女にはほんとの救いは無いのかもしれない……。


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