第3話 霧の街と彼女の居場所(10)
気づけば夕日はもう落ちて、海の向こうに消えていた。海上に鈍いオレンジの光だけが残って、波に揺られてゆらゆらと動いている。
「お父さんとお母さんは、二人でこっちへ近づいてきてくれた。霧が一段と濃くなってきて、顔ははっきりと分からなかった。でも、私のところに来て、『寂しかったろ』って。『もう一人ぼっちにはしないから」って。これからは一緒に住もう、って。
私はね、パパとママの家に連れて行ってもらったんだ。それでその日はね、三人で一緒のベッドで寝たんだ。パパとママは、私のこと、辛かっただろうとか痛かっただろうってすごく心配してくれた。パパとママはあの後、どうやってここに来たのか知りたくて、私聞いたの。でもそれについては二人ともにこにこ笑って答えてくれなかった。私は、きっと二人も怖くて痛い思いをしたんだから、聞いちゃダメなんだなって思った。そんなこと聞かなくたって、二人がもう二度と戻らないんじゃないかって思ってた私にとって、二人がいてくれさえすればもう十分すぎる気がしたんだ。
次の日、パパとママは街のお友達を紹介してくれた。
アカバナで太っちょの押野さん、諸事情で一人で家を借りて暮らしている小学二年生のみーちゃん、言葉がつっかえちゃっておしゃべりが苦手なんだけど頭がよくって優しいコータくん、一週間前に居なくなった小学生のゆうきくんの帰りを待ってる宮のおばあちゃん、イギリスで人気のロックバンドのボーカリストで、変なお薬を飲まされてここで療養しているレノンさん、貧しい国の宗教家で、王様を政治から退陣させて新しい国を作ろうって計画しているジェンさん。
みんなね、私のことを心配してくれた。『痛かったろう、辛かったろう』って。でも、私は痛かったこともつらかったことも、すっかり忘れてみんなと遊んだ。コータくんはね、おしゃべりが下手であんまりお話しできないけど、家にはすごくいっぱい本があるの。コータくんはいっつも小さな一軒家の一階で真ん中のテーブルで分厚い本を読んでいるの。で、私とみーちゃんでコータくんが本を読んでいるうちにこっそり忍び込んで、テーブルの下に隠れるの。コータくん、全然気が付かないの。だからみーちゃんと『せーの』で、コータくんを驚かすの」
「ふうん」
僕は、黙ったまま彼女がひたすら話す言葉を聞いていた。彼女の話は、あまり現実的ではなかった。彼女は、自分の見てきた情報をなるべく正確に僕に伝えようとするために、延々と話し続けていた。彼女の体験を、僕は頭の中だけでも追いかけようとした。しかしその経験があまりに未知のために、想像に苦しんだ。
向う岸は、クスクスと笑いを漏らしていた。よほどその彼に仕掛けたいたずらが可笑しかったらしい。
「コータくんはいっつも声を上げないの。それで眼だけぱっちり開いて、こっちをぱちくりさせながら見るんだ。その顔がすっごくおかしくって、みーちゃんとまた笑ったんだ。
宮さんはね、孫のゆうきくんの写真をいっぱい持っていて、アルバムで私とみーちゃんにゆうき君のこと教えてくれた。赤ちゃんの時の写真から、小学校の写真までね。でも、小学校の写真を見せ終えて、ゆうきくんのことを心配してるって話してくれた。宮さんの家族はもうゆうきくんを探すのに疲れて、諦めちゃったんだって。でも宮さんは諦めきれなくって、この街のどこかにゆうき君がいるに違いないと思って探してるんだって。みーちゃんはいっつも話の途中で寝ちゃうんだけどね、私は宮さんの顔見て、この人は本当にゆうき君に会いたがってるんだなーって思ってた。ゆうき君の顔、宮さんの横顔によく似てた。
レノンさんの家に行くと、いっぱいレコードが置いてあって、私にロックバンドの音楽を聞かせてくれた。ジェンさんの話は難しくてよく分からないけれど、とにかくジョンさんの国の王様はみんなを苦しめる悪い奴で、そいつに変わってジョンさんたちがみんなを救うんだって。そう言ってジョンさんは、黒光りしてる、大きな鉄砲を見せてくれた」
ここで向う岸は一旦言葉を切った。ちょっと何かを考えている。僕は、彼女が淡々と話しながら、時々言葉に熱を加える様を、ずっと横から見ていた。
「そこでは、みんな形の無いものを大事にしている。思いやり、優しさ、夢、痛み、苦しさ、希望、友情とか。こっちの世界は、逆。テストの点数、貯金の残高、経費、資格の数、順位、家の広さ。みんな数字だね。
『霧の街』の人たちは、みんな『心』を大切にしていた。私がどんなことを言っても受け入れられた。許されたの。私は今までクラスでうまく打ち解けられなかったこと、私のお父さんとお母さんがお人よし過ぎて好きじゃなかったことをみんなに話したの。そうするとみんな、心の底から共感してくれた。『寂しかったろう、痛かったろう』って。
「へえ、そうなのか」
僕はそう言いながら、腹の中では別のことを考えていた。仮に彼女の話す内容の五〇パーセントでも真実だったとして、孫を失くしたり毒を飲まされたりした経験が、人付き合いが下手だったりどもったりすることと、果たして等しく語られてよいものだろうか。
「みんなもそれぞれ辛かったことを話してくれた。
みーちゃんは途中から泣き出しちゃってもう話せなくなっちゃった。コータくんは上手く話せないけど、涙を目にいっぱい溜めてた。宮さんはゆうきくんの名前を何度も呼びながらずっと泣いてた。レノンさんは悲しそうにギターを抱えて歌を歌ってた。ジョンさんは、分厚い本を胸に抱いて神様にお祈りをしていた。
その時、なぜか私は心の底から救われた気がした。ああ、ここが世界の真実だったんだって思った。今までの世界の方が、間違っていたんだ。私は、ここでなら、学校で感じているような孤独を感じなくて済む。みんな、私の気持ちを受け止めてくれて、悲しみを分かち合えるんだ。
「待てよ」
僕は、思わず彼女の話に口を挟んだ。その理由は、彼女の話が、あまりにセンチメンタルだったからというのもある。しかしそれ以上に、出会って日が浅い他人同士が、どうしてそこまでのことを互いに話してしまうのか、僕には不思議で仕方なかったからだ。
「お前の話、ところどころ分からないけれど、そんな素晴らしい世界なら、僕も行ってみたいと思う。でも、でもさ、どうしてそんな、小さな悩みまで喋っちゃうんだ? だって、出会ったばかりの他人だろ? 」
彼女は、さっき涙が数滴流れたばかりの少し腫れた瞳を僕の方に向けた。彼女の頬には、涙の筋がまだ濡れていた。彼女の瞳は、驚きとも嫌悪とも取れる強い眼光を発して僕を睨んだ。
「また、そうやって、嘘を付くんだね。自分にも他人にも、本当は寂しい気持ち、忘れたふりして、私たちだけを好奇の目で見下すんだね」
「み、見下してなんかないよ。ただ、そんなの世間じゃ……」
「こっちの世界のことは、関係ないの。そうやって外の世界のことばかり気にしてると、自分の気持ちも分からなくなるよ? 」
「……ご、ごめん」
僕は、彼女の語気の強さに思わず折れてしまった。彼女の話に反発を覚えることもあったが、とりあえず最後まで聞こうと決心した。
「私はそれから、自分の最大の罪をみんなに言おうと決心した。あの日雪の下で、私は他の人よりパパママより、自分が生きることを願った。愚かな自分の罪をみんなに許して欲しい。けど次の朝、わたしは南里病院の手術室で目覚めた。
最初は『おかしいな』って思った。私がいたのは『霧の街』だもん。でも周りの人たちはみんな喜んでた。『生還者が居た』って喜んでた。私は身体のあちこちが痛かった。腕は上がらないし足はぴくぴく痙攣してほとんど感覚が無い。顔の肌はやけどしたみたいにひりひりした。
私を見て、おじいちゃんとおばあちゃんは喜んだ。そうして、パパママは助からなかったって、私に言った。私とおじいちゃんおばあちゃんは、それからパパママのお通夜をやることになった。遺体は流雪に流されて、二人とも見つからなかった。おじいちゃんもおばあちゃんも、流れてくる涙を必死になってハンカチで隠そうとしていた。お通夜に来る人たちもみんな、おじいちゃんたちを見てなんて声を掛けたら良いのかも分からないみたいで、みんな気遣いの言葉を少し掛けて、帰っていった。お父さんの方のおじいちゃんたちはもう死んじゃっていないから、残された私を守らなきゃいけないって思ったみたい。車いすに座っている私の方に来て、『大丈夫だ、これからのことは全部おじいちゃんたちに任せなさい』って言ったの。そして、『お前だけでも生きていてくれて、本当にありがとう』って、目をショボショボして泣いていたわ。
「でも私にはそれが可笑しくて仕方なかった。パパもママもちゃんと生きてる。ただちょっと遠い場所にいるだけなのに。
病院からまた学校に通うようになったけど、そこはもとの間違った世界だった。
みんな表面的な薄っぺらな関係で、お互いのこと分かってるようで、何にも分かち合ってなんかいない。みんな、自分の気持ちの孤独を見なくて済むように、趣味や勉強や部活に没頭したふりをして、楽しいふりをして、充実したふりをして、孤独を見ないことが大人の美学とでも思ってるみたい、それがまさか一生続くなんてことも気遣いないまま、ね。みんな自分が小さな箱の中で『死ぬ』ってゴールまでレールに乗せられて運ばれてること、気づかないの。この人たちと一緒に居たら、また私はもとの箱に戻されてしまう」
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