第3話 霧の街と彼女の居場所(7)
部屋に帰った僕は、一人きりで落ち込んでいた。彼女に大声を上げてしまったこともあるけれど、彼女の言葉のやりが、僕の中にいちいち突き刺さった。胸が少し痛い。
しかしこの痛みは、僕が何か真実に近づこうとしている証なのだ、と自分に言い聞かせた。諦めてしまえば、何も感じなくなる。見て見ぬふりも無関心も、僕には出来る。でも、彼女に対してそうしたごまかしはしないと決めたのだ。こんなところで、終わってたまるかよ。
数日後、僕は又休憩所に近づいた。そして手前の通路の柱の陰に隠れて、様子をうかがった。
―向う岸は、また漫画を読んでいる。
僕は、「ハア」と息を吐いて、深呼吸をした。そして向う岸の方へずんずんと近づいていく。足音に気づいて、向う岸が振り向いた。彼女の平常の顔は、僕を見たことでこわばった。しかし僕はここで引き下がるわけにはいかなかった。
「よお、向う岸」
「う、うん……」
「何の漫画を読んでるんだ? 」
「これ……」
彼女は雑誌の表紙を少し上げて見せた。前回呼んでいたものと同じ、青年誌のヒーローものだった。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど? 」
彼女は僕から視線をずらして言った。
「なに? 」
「『霧の街』のことだ。この前の話、せめて理由だけでも聞いてくれないか? 」
「……なに? 」
彼女の語気が強まった。僕は彼女の言葉に恐怖を覚えた。今まで人と口論を極力避けてきたからだろうか。腹の底に空気が通り抜けていくような、スース―とした感じがした。それを、出ない力で無理に踏ん張って、何とか誤魔化した。
「あのさ、まず言いたいのは、別にお前の信じているものを否定したいわけじゃないんだ。お前は、そこに言って、明るくなった。今まで以上に自分のこと話してくれて、僕はうれしいよ。最近のお前は、僕にとってまぶしいくらいだ。
だけど、もう一方の見方も出来るんだ。」
彼女は、ぶっきらぼうに「うん、うん」としか答えない。彼女の中では僕の意見は否定すべきものと端から決まっているらしい。僕はかまわず続けた。
「お前が言ってた『霧の街』のルールって、なんなんだ? お前が体験したことのないようなものを、理屈だけで教え込まれてる。それって、お前らを悪用することだって出来るんだぜ?
それに、考え方がみんな一緒って、普通に考えて怪しくないか? 一人一人違う考え方を持っているのが普通なのに、そんな、みんな同じ考え方なんて……危険だよ」
「うん……」
向う岸はうなずいただけだった。僕の意見を一応、まともに聞いてくれた。
「で、おにいちゃんは何が言いたいわけ? 」
「なにって、そこが怪しいから、あんまり染まらない方が良いんじゃないかと思うんだけど……」
「そう。
おにいちゃんみたいに言う人、実は他にもいるんだよね。でも、それこそ私たちそれぞれ考え方違うから。おにいちゃんと私たちは別。それでいいんじゃない? 」
しまった。上げ足を取られてしまった。たしかに、僕の言う理屈は彼女の考え方にも当てはまる。
「私はね、おにいちゃんにわざわざあの街のルールを教えなくても良かった。それを教えたのは、おにいちゃんが私の友達だから。私と同じ悩みをかかえていると思ったからなんだよ」
「悩みって、なんだよ? 」
「未来への不安感。自分自身の至らなさに悩んでいるところ。先に進みたいのに、どう行けばいいのか分からなくなっているところ」
「はあ、まあそりゃ……」
僕は向う岸に直接そういう悩みを打ち明けたことはなかったはずだ。とすると、彼女は僕の振る舞いや言葉の端々からそういうものを感じていたのだろう。僕は、内心で彼女の洞察力の鋭さに舌を巻いた。
「『霧の街』を別に信じなくても、それはおにいちゃんの自由。ただし、それで私やおにいちゃんの抱えている悩みが解決するとは、あんまり思えないけど」
「……」
僕はすっかり黙り込んでしまった。僕の弱みを俎上に載せられてしまった。それを解決するのが、「霧の街」か。それは、大層な街だ。
「じゃあ、私はこれで行くから」
向う岸はそう言うと、さっさと部屋へ戻っていった。僕はちょっと下を見て悩んでいた。自分の悩みを見事に指摘されてしまったからだ。
僕は部屋に戻って、一人で天井を眺めていた。ぼーっと眺めながら、また考えた。
―わたしと同じ悩みをかかえていると思ったからなんだよ。
この言葉が僕の脳裏にこびり付いて離れなかった。彼女が僕に説教していた理由は、自分が優越感に浸りたいからとか、自分が特別だと考えていたからではなかった。純粋に、僕を助けたいと思ってくれていた。彼女なりのその方法が、「霧の街」のことを話すことだった。僕は、勘違いしていた自分が今更ながら恥ずかしかった。
「くっそ……ずるいよ」
誰に言うでもなく、呟いた。
ずるいよ。人の心の善意を利用しやがって。人の心の隙間に忍び込みやがって。
僕はいよいよ、自分も「霧の街」に行ってしまいたいような気分になってきた。それで自分の心のもやが晴れるのなら、それも良い。僕は楽になりたい。
楓さんのように、すべてを失って嘆くような未来は、僕は欲しくない。瑠璃川さんのように、昔失くした恋人をいつまでも大切に胸の中にしまっておきたくもない。かといって、常識的なレールにも乗りたくない。普通に生きていくだけでも、それなりに大変だ。待てよ、じゃあ僕は一体どうしたいんだろう?ああ、それが分からないからいつまでも悩んでるんだった。
僕の頭の中はぐるぐると似たようなことを反芻している。思考が堂々巡りを繰り返して、もうどこにも行きつけなくなっている。
僕は、これ以上考えても無駄と判断して、他のことを考えようとした。真っ先に思い浮かんだのは大学のことだった。しかし恥ずかしながら、まだ所在地くらいしか知らない、資料も読んでいない。却下だ。
次に浮かんだことは、葉菜だった。
彼女は可愛らしい女性だと思う。
思ったことを直ぐいうしサディストっぽいが、根はやさしい女性だった。彼女ともっと仲良くなりたい。なれたらどれだけ楽しいだろうか。僕は未来に何か求めているわけじゃない。単純に、彼女みたいな女性の、温もりが欲しい。それさえあれば、「霧の街」も必要ない。いつかみたいに、彼女に抱きしめて欲しい。彼女に抱きしめてもらえるなら、僕は喜んでもう一度、嘔吐するだろう。彼女の潤いが僕の錆びついた血を一新させてくれるなら、何だってする。僕は未来も分からなければ、現実にも飢えを感じだしている。しかし自分の数々の欲求は、満たされてしまえば意識しなくなるだろう。満たされていることを忘れてしまうだろう。それなら、最初から少々不満なくらいが丁度良い気がする。
「お前、何かよからぬことを考えておるな」
急に僕の上から声が降ってきた。
「え? 」
僕はふりかえると、カーテンの向こうから誰かが顔を出している。
「う、うわっ! 」
僕は驚いた拍子にベッドからずり落ちて、窓とベッドの隙間の床に激突した。タイルの床に背中を打って、「ぐえっ」と情けない悲鳴が漏れた。
がばっと起き上がると、山村老人だった。
小柄な身体に禿げあがった頭、白髪の多い眉と豊富なあご髭をしている。身体はひょろひょろとしているが、体の骨格はしっかりしている。山村老人は、あごひげをじょりじょり撫でながら僕のカーテンに入ってきた。
「お、お久しぶりです」
「おう。しばらく」
山村老人と僕が会うのは、本当に久しぶりだった。僕は正直、この人のことが頭に浮かぶことはほとんどなかった。この人はしばらく病室に居なかったのだ。
「てか、山村さん、しばらくお会いしてなかったですよね? 」
「おう。年末から実家の家族のところに戻っておったからな。実は今日から、また治療のためにここに来ることになった」
「そんな、しばらく家にいても大丈夫なんですか? 」
「実家では簡単な治療しか出来んからな。時期が来たから仕方なしにここに来たんじゃ。お前は相変わらず、ずっとここにおるな」
「まあ、もう来月で退院ですけどね」
「そうか。まあ、若いもんがこんな人生の墓場みたいなとこにおってもしかたなかろう」
山村さんはそういうと、僕のベッドの上に勝手に座り込んで腕を組んだ。どうやら、退屈しているらしい。
僕と山村さんは、世間話のような取るに足らないことをちょっと喋った。僕と山村さんは成人雑誌の貸し借りをする仲だったが、こんな風にじっくり話し合ったのは今回が初めての気がした。
彼は、実家に戻っているうちに元気をある程度回復したらしい。機嫌が良いのだろう。
「そう言えばお前、あの娘とはどうなっとる? 」
「あの娘? 誰ですか? 」
「しらばっくれるな。お前のところに毎週来ていた、あのねえちゃんだ」
「ああ、葉菜さんですか」
「できてるのか? 」
「別に、できてませんよ」
「なんで近づかん? 他に男でもいるのか? 」
「あんまりそういう話、しないですよ。でも、あの人ちょっと変わってるから、そういうのあんま好きじゃなさそう……」
「なにいっとる。あの娘っこ、お前のとこに通い詰めじゃないか。口説けば、いちころじゃよ」
「いや、あの人の弟が僕の友達なんですよ」
「それだけであんなに通うか? まったく、惜しいことをしよる。さっさと攻略してしまえ」
僕は、山村さんの言葉に半分呆れた。葉菜は僕に心を許してくれているかもしれないが、別にそう言うのを期待している感じではない。あとの半分は、そうだったらいいな、と思ってしまったのだった。
「わしは文学とは無縁だがな、昔、寄合で大学の偉い先生の講義を聞いたことがある。あれは確か、『文学と女性』とかいうタイトルだった。
偉い先生が言うには、かの有名な一九世紀のなんとかいうドイツの文豪は、男の魂は女によって救済されると考えておった。だから奴の代表作のなんとかいう話では、貞操を守らず殺された女の魂が天使となって、元恋人の男の魂を救い出した。
一方で、女の魅力に取りつかれた男の話も神話から現代文学まで多岐にわたって登場する。遡れば、ギリシャ神話の最高の美女・ヘーレナも正式な子供ではなかった。ギリシャの女神ネメシスが何とか河とかいうギリシャの川で水浴びをしているところを、武勇の神ゼウスの目に止まった。ゼウスは自らを白鳥に変えて彼女に近づき、ついに交わった。それがかの有名なヘーレナを生むことになった」
「なんですか、その話? 」
「わしが女に救いを求めるのは、それと同じ理由からだということじゃ」
「勝手に大義名分を立てないでください」
「そうか」
山村さんは、何やら言いながらへらへらとした態度を取っている。頭の方は砂漠に近いが、この人は波にゆらゆらしているコンブみたいな人柄だ。この人の考えていることを僕はあまり理解できなかった。
僕はふと、彼に向う岸のことを話して意見を貰ったらどうかと考え出した。葉菜はどこか割り切ったところがあるし、藪川も医師と言う立場がある。僕は向う岸の友人だから、情が移ってしまっている。一方、この人はその誰ともつながりが薄い。その分、客観的な視点から意見をくれるだろうと思いついたのだ。
僕は、山村さんに向う岸の話をしてみた。山村さんは特に何も感じないようで、「ふんふん」と相槌だけ打って聞いていた。そして僕が、事態がかなり深刻であることを伝えても、大して深刻そうにはしなかった。
「それは、あれだ。洗脳だな。別に珍しいことじゃない。ここ、二、三十年ずっとある問題じゃ」
「そうなんですか? 」
「ああ。一部の会社は外部委託して、社員研修の一環でそういうことをしたりするしの。話を聞く限り、その娘っこ、まんまとはめられたな」
「何か救い出す方法、知りませんか? 」
僕は身を乗り出して山村さんに聞いた。今は、藁にでもすがりたい気持ちだった。
「無いではない。昔からそういうものの対策法は決まっておる。それをやればいいんじゃ」
「僕にその方法、教えて下さい。彼女を救いたいんです! 」
山村さんは僕の方をじっと見た。そして言った。
「ああ、いいとも。ただしお前がやろうとするなら、一人じゃだめだ。最低でも二人欲しい。わしがやってやる。わしらでその娘っこを救い出すぞ」
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