第3話 霧の街と彼女の居場所(6)

 午後九時過ぎ、僕は病室のベッドに一人で寝ころがっていた。頭の中では、ずっと向う岸のことを考えている。

 最初、彼女にあった時、僕は彼女に不審者扱いされて大騒ぎされた。次にあった時も多少会話をしただけで、彼女は消えてしまった。それが何回か会ううちに少しずつ彼女は心を開いてくれた。

 そうして、僕が悩んだり、不安を抱えている時に僕に助言をくれた。白織優が僕にとって病院で最初の友達なら、彼女は二番目の友達だ。瑠璃川さんや楓さんももちろんそうだと信じているが、彼らは僕らとは立場や考え方が違っている。僕自身の悩みを一緒に分かち合ってくれたのは、同世代の向う岸だけだ。その彼女が今、危機に陥っている。

 でも僕は彼女が心を寄せている「霧の街」を否定するだけの勇気が無かった。否、否定して良いものか、そもそも分からなかった。

学校で友達が出来ないと言っていた彼女が、ようやく見つけた居場所なんだ。僕はそれを否定して良いのだろうか? 彼女は精神的にひどく落ち込んでしまうかもしれない。僕の言葉に耳を貸してくれないかもしれない。

彼女の信じているものを否定したとして、結果として僕のように卑屈にぐちぐち悩むようになるかもしれない。それで果たして良いものだろうか? 現在の彼女くらい、勢いがあった方が結果として生きやすいような気もする。少なくとも僕のように立ち止まって、いつまでも頭であれこれ考えなくなるのではないか。

 は頭の中で、彼女の年ごろの女性の日常を想像してみる。

どこにでもいる普通の女の子がいる。部活は吹奏部でサックスを担当している。勉強は好きではないが、将来はまだ遠いのであまり悩まないようにしている。

彼女は思春期の真っ盛りで、自分の容姿や性格について四六時中心配している。友達からのちょっとした批評で、すぐに悩んだり舞い上がったり、忙しい。クラスに一人くらい勉強も運動も出来る奴がいて、そいつを周りの友達がきゃーきゃーと騒ぎ立てて追い回している。自分がそいつを果たして好きなのかは自分では分からないが、なんとなくその箔付きの奴が良いような気がしてくる。気が付けば、授業中にもそいつの背中を目で追っている。一か月くらいたったころからはいよいよ夢にまで出てくる始末だ。

僕はそれ以上、思春期の女の子の考えていることを想像したくない。取り敢えず、僕にとってその男は仇敵である。そしてこれ以上想像力を働かせていくと、急に悲しい気分に襲われる。少々間違いはあるかもしれないが、僕の想像する中学生女子なんてそんなものだ。

向う岸は、その対極を行く女の子だ。それも生い立ち上、そうならざるを得なかった女の子だ。

友だちの批評で一喜一憂しようにも、批評をくれる友達がなかなかできない。好きな男子を見つけようとするも、たまにしか学校に行かないせいで誰が運動をできて誰が勉強をできる優等生なのか、よく分からない。女の子は休み時間に集まって、キャーキャー騒いでいるが、今更自分が入っていける雰囲気ではないので、結局自分の席でいつまでも沈黙している。そんな学校生活は、多感な少女にとって砂漠での生活に等しいのではないか。彼女の日常と一般の学生の日常が、圧倒的断絶の壁を隔てて成り立っている。同じ年頃の女の子が、些細な(彼女たちにとっては重要な)話題に気を取られているうちに、彼女は自分の身体の病気や傷、そして心の弱さと孤独に向き合っている。

そんな生活をしていたら、僕だって嫌になって他に救いを求める。いくら彼女の行いが目を引いても、それは結局彼女が人間らしく生きた結果で、彼女に罪はまったく無い。

説得のメリットはゼロ。デメリットは、測定不能。なのに僕は、どうしても彼女を諦めきれなかった。

このまま彼女を放置して、この病院を後にしてよい心持が全くしなかった。彼女の生き方が、何か決定的な敗北につながっていくような気がする。どこがどう敗北なのか、彼女の境遇をどうすれば解決に導けるのか、自分でもよく分からない。

ただ、彼女が「霧の街」を信仰している以上、彼女はそれにずっと振りまわされ続けるだろう。事あるごとにそこに立ち返って、依存しながら生きていくだろう。それは果たして、向う岸自身の人生と言えるだろうか?

僕はベッドから起き上がると、一つの決心をした。

こうなれば、彼女に自分の気持ちを素直にぶつけてみよう。彼女を説得したり、導いたりするつもりは、これっぽちいもない。彼女を救いたいとか助けたいとか、そんな高尚なことを考えているわけでもない。彼女に、僕のありのままの気持ちをぶつけよう。僕が「霧の街」を疑っていること、勇気を持って素直に話せば良い。

人生は、「まし」な方を選ぶことも多いのかもしれない。「好き」という理由で選ぶ道より、「まし」という気持ちで選択することが、これからの僕の人生でずっと続いていくかもしれない。

だけど、僕が向う岸を友達に選んだ気持ちは、「まし」だからなんて理由じゃないはずだ。

 僕はとにもかくにも、彼女に接近しようと考えた。彼女と話をしないまま一人で考えても、何も始まらない。取り敢えず、動かなくてはいけない。彼女に向けて運動を開始しなければならない。僕の頭は単純なその思考の一点張りだった。

 休憩所に彼女がいる時、僕は彼女に切り出した。

「あのさ、向う岸。『霧の街』について、教えてくれないか? 」

 彼女はちょっと不審そうな目を向けた。

「何のために? 」

「別に、何のためでもないけど。ちょっと興味あったから、教えて欲しいと思ってさ」

「ふうん。『霧の街』は、さっきも言ったけど、自分の望みをかなえる場所よ」

「いや……もっと、こう、具体的に説明してくれ」

「うーん、」

 向う岸は腕を組んで考え出した。しばらくして、また口を開いた。

「不思議な街。パパとママがいる」

「へえ……」

 僕はまったくそこについて分からない。しかし本題に入ろうと考えた。

「なあ、向う岸。あまり言いたくはないけど、その街、ちょっと怪しいと思うぜ」

 向う岸はきょとんとした顔をした。

「え? 何で? 」

「だって、そんな風に変なこと教え込んだり、同じ仲間同士で毎日話し込んだり、なんだか怪しい宗教みたいじゃないか」

「まあ、よくそう言われるね。

うん、確かにちょっと変に見えるかも。だけど、別に怪しい宗教じゃないから、大丈夫よ。向うには本当に、いろんな人がいる。政治家も学者も、社長さんも人気ロックバンドもいるのよ? 」

「ふうん……」

  僕はそこで言葉を切って、ちょっと考えた。どうやら向う岸自身も、そこが怪しく見えることは承知らしい。僕の中ではそれが、ちょっと意外だった。

  そしてあまり言いたくないが、素直に僕が考えたことを話した。

「あまり言いたくないんだけど、そこって、人の心の隙間に付け込んでいるんじゃないのか? お前の仲のいい新川さんだって、何か現実に問題を抱えているんじゃないか? 」

 すると向う岸は、僕のことを信じられないとでも言わんばかりに見た。

「おにいちゃん……何言ってるの? 」

「いや、別にお前らを悪く言うわけじゃないんだ。それはその……」

「そんな風に卑屈だから、おにいちゃんはいつまでたっても流されてるんだよ」

 彼女がぴしゃりと言った。

「だから、まず疑わないといけないだろ? 怪しいかもしれないし」

「そうやって、いつまでも何にも信じられないから、おにいちゃんはおにいちゃんのままなんだよ」

 容赦ない言葉が飛んできた。

「だから、僕の話を聞けって! 」

  僕は思わず大声で言った。そして、しまったと思って即座に口に手を当てた。

 しまった。年下の女の子相手に、怒鳴ってしまった。

しかし向う岸は逆に冷静な顔つきを崩さなかった。そうして、僕に見切りをつけたみたいにさっさと部屋に戻ってしまった。僕は後味の悪い気分のまま、立ち尽くしていた。

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