第3話 霧の街と彼女の居場所(5)

「困ったねえ……」

 藪川は診察室で、僕の前でそう愚痴をこぼした。机に頬杖をついて、眠たげな初老の目をぼんやりさせている。

 今日は毎週の診断で、例の如く藪川の診察室に来ていた。今日の診察室は明かりがついている。白塗りの壁に、入口から見て右側に簡易ベッドが置かれている。その反対側がデスクになっていて、藪川は背もたれの付いた椅子に座っている。僕は回転式の丸椅子に腰かけていた。デスクの上の壁にはレントゲンに使うX線撮影の写真が貼りだされていた。

横から見ると彼のはげかけた白髪交じりの頭髪の、防衛ラインの後退具合が著しいのが分かった。眉毛も白く変色している。

「どうしたんですか? 」

 振られた世間話に付き合わないわけにはいかず、僕は彼に尋ねた。

「いや、最近さ、僕の患者さんがさ、調子がやけに悪いんだ。本当はもうじき退院していいはずだったんだけど、肉体的にも精神的にも変調をきたし始めて」

「何か、事故とか病気の悪化じゃないんですか? 」

「それだったら僕らでどうにかできるんだけど、どうにも原因が分からないから大変なんだよ。今のところ分かっているのは、彼女の変調の原因が精神的なストレスから来るもので、まるで絶えず緊張状態に陥っている風なんだ」

 僕はこの病院に入ってから身に付けた(というか身についてしまった)病気に関する知識を総動員して考えた。病名はすぐに出た。

「それって、神経衰弱ですか? 」

 藪川はそれを聞くと、小さくてパッチリした目を何度か瞬かせた。そして言った。

「きみ、よく知ってるね」

「いや、そういう人って多いみたいじゃないですか。一種の現代病みたいな感じ? 病院以外にもたくさんいるイメージがあります」

「そうだね、そうそう。この病院はそういうのが専門じゃないけど、C棟にはそれの常勤の先生もいるよ。

現代はストレス社会って言われるくらいだから、社会人にもいっぱいいるね。

まあ、現代病ではないかな。明治時代の文豪の夏目漱石なんか、留学先の英国で神経衰弱を発症したくらいだし。

ちなみに、僕も以前罹ってしまったんだ。十年くらい前かな? この病院の管理職を任されたんだけど、普段の業務だけで手一杯で、それでも頑張ってたら、半年後くらいから休んでも全然気分が上がって来なくなってしまったんだ」

「え……それは……」

 僕がとっさにした顔があまりに深刻だったからだろう。藪川は僕を気遣って、手で僕の肩をポンポンと叩いて、なだめてくれた。僕は彼の目を見つめた。彼の心は閉じてしまっているみたいで、瞳は薄く濁って感情は読み取れなかった。

「君が気にすることじゃない。僕は結局、精神の問題で管理職を下ろされたんだ。今はやっと、回復期にさしかかったところだよ。

僕にはやっぱり、患者さんと交流する業務が一番合ってるよ。肌に合わないことを無理にしたのも、神経症の原因だろうね。君は何も心配しなくていい。もうすぐ退院するんだ。今は退院に向けた生活と心の準備をしておきなさい」

 僕は、気にしなくていいと言われると余計に気になると思った。僕の知る藪川は、笑えない冗談を飛ばす、のんきと言える人だった。僕はこの人の心の闇を知ってしまったような気持ちになった。複雑な気持ちになり、彼のことをこれ以上詮索したいと言う気持ちと恐怖心が両方入り混じって、僕の口をふさいでしまった。

 藪川は僕が複雑な顔をしているのを察してか、話題を別に逸らした。

「それで、その患者さんのことだけど、」

 藪川は言葉をつないだ。

「個人情報だから誰がどう、とは言えないけど、似た症状を訴える人がこの病院に何名か確認されたんだ。君の近くにもそうした人がいるかもしれない。もし怪しいと思ったら……」

 そこまで言って藪川は黙った。そうして右手で剃り残しのある、白と黒でまだらの顎髭をじょりじょりと撫でている。どうやら自分の病気のことを言ったのは迂闊だったらしい。他の患者のこともむやみやたらに言うことが出来ず、次の言葉が出てこないようだ。

「まあ、ほどほどに仲良くしておいてくれ」

「仲良くしていいんですか? 」

 僕は、気を付けろとか、変な薬を進められても飲むな、という言葉を予想していた。だから彼の言葉が意外だったのだ。

 藪川は、僕の言葉にさらに返答に困ってしまった。なら無難なこと言っとけよ! と僕は心の中で彼に言った。

「まあ、何を信じるかは人の自由だし、ね。考え方とか信じるものが違うからって、仲間外れにするのは、なんかかわいそうだしね……」

 藪川は本当に困っていた。本人もその患者のことをどう扱えばよいのか分からないようだった。

 僕はここで、なんとなく「なにを信じるか」という言葉が気になった。彼の言葉から推測するに、患者の神経症の原因が本人の考え方にあるようだ。僕はさっきからなんとなく当たりを付けていたことが、自分の中で確信に変わっていくのを感じた。しかも藪川が「かわいそう」なんて言う言葉を使う対象年齢は、かなり限定していいと思う。ちょっと深読みし過ぎかもしれないけれど。

「分かりましたよ、先生」

 僕はそう藪川に答えた。藪川は、自分の曖昧な言葉が通じたのが少し意外だったらしい。

「ああ、分かったの? 本当に? 」

「ええ。それって、……」

 僕は当たりを付けた人物の名前を出すことを止めようかとちょっと考えた。でも見当違いで今後のことを考えるより、ここで素直に言ってしまった方が良いように感じた。言って個人情報云々と言われたら、それはその時考えよう。

「向岸のことじゃないですか? 」

 藪川は僕の言葉を聞いて黙っていた。そしてじっとこちらを見つめている。普段の呑気にも見える彼の表情から考えれば、僕は彼の別の部分を見ているような心持になり、少しだけ勇気を振り絞って見つめ返した。


「『のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。』」

 葉菜さんは、急にそんな言葉を言いだした。棒読みで、機械的に言っている。この言葉が好きではないらしい。

「なに、その言葉? 」

 そう僕は聞き返した。

 僕は藪川の診断を一五時に受けてから、病室にまっすぐ戻っていた。今日は水曜日だ。水曜日の夕方は民放で時代劇の再放送がやっている。本当は夕飯まで雑誌を読んでいたいが、老人たちが休憩所に集結する時間だった。向岸もこの時間は何度か休憩所に来ていたから、僕としては居場所がない。無理に居座って、いちいち雑誌を読んでいられるほど神経も太くない。それくらい神経が太かったら、アルバイトの精神的ストレスで吐いたりはしなかったかもしれない。

 仕方なく戻った僕の病室で、最近地下の購買で買ったちょっといかがわしい雑誌をじっくり読んでみようという気を起こしていたが、先客がいた。

葉菜さんだった。

 僕は、なぜか少し残念な気持ちが湧いたが、いちいち考えないことに決めた。そうして、こうして僕の部屋をこまめに訪ねてくれることに感謝しなくてはいけないという義務感のようなものが発生してきたのだ。

 僕は葉菜さんからまた焼いたケーキを受け取った。ケーキ屋で貰うような紙の箱に入っていた。僕が蓋を少し開けて中を覗き込むと、中には茶色い生地のスポンジがトローチみたいな輪型になっていた。

「バームクーヘンよ」

 と彼女は教えてくれた。僕はそれに感謝の言葉を述べて、とても一人では食べ飽きてしまうから、いっそ休憩所に置いておこうかと頭の片隅で考えていた。交友関係を広げると言う点から考えたら、向岸やご老人方に配って回って、話すチャンスを作るのも良いかもしれない。結構、勇気がいるのだけれど。

 今日の葉菜さんは、茶色のダッフルコートを着込んで、下は膝丈の紺のフレアスカートを履いている。そこから、冬用の紺野タイツが伸びていて、足にはぺたんこの茶色の冬用ブーツが履かれている。首にはベージュをベースにしたチェックのマフラーを巻いて、後ろで縛っていた。


 僕は自分の果物ナイフを取り出して直径三〇センチちかいバームクーヘンをナイフで一部切り分けた。そして一つを紙皿に乗っけて、金属製のフォークを引出しから出して葉菜さんの前に出した。僕はもう片方を皿に取ると、手で掴んだままむしゃむしゃと噛付いた。

 口の中が異様にパサパサする。スポンジは口の中で、ボロッと崩れてそのまま唾液のほとんどを口から奪い去っていった。僕は水が飲みたくなって、ベッドわきに置かれた簡易冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、紙コップを出してきて葉菜さんに水を渡した。その後自分もコップでごくごくと一気に飲み干した。バームクーヘンはボロッと崩れて細かい粒になった後、喉の奥に流れて行った。

「うん、甘いね」

 素直な感想だった。

「そうね、甘いわね」

 葉菜さんはフォークでスポンジを小さく切り分けて、それを細かく口へ運んでいた。

 僕は「甘い」以外に何か言わねばならない気がして、頭でそれを考えていた。浮かんできた言葉は、「乾いている」「ぱさぱさしている」「弱い甘味だ」「口に入れるとボロッとする」などで、どうにも口に出すにははばかられるものばかりだ。僕はそれを一まとめにして、こう言った。

「おいしいね」

 そういうと、葉菜の口元がふっと緩んだ。

「そう。ありがとう」

 そう言って、彼女はもうそれ以上何も言わなかった。しばらく沈黙が流れた。

 僕はそこで、さっき藪川から聞いた話を葉菜にしようという気になった。何か特別な目的は無かったが、彼女なら何か鋭い意見を言ってくれるような気がしていたからだ。


 僕は、僕の担当医である藪川がうつ病だということを葉菜に言った。普段彼は非常に呑気そうであり、またつまらない冗談を言うのだから、とてもそんな神経の細いようには思われないことも話した。そして、あんな呑気な男も神経がやられるわけだから、ああいう人を見ていると自分の先行きまで不安になるようだと話した。

 葉菜はいつものように、眉一つ動かさないまま僕の話を真顔で聞いていた。そして僕が話し終えると、こんな言葉を話した。

「『のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。』」

 僕はその言葉を聞いて、しばらくきょとんとしていた。何か解答めいたことを彼女が言ってくれることを期待したが、彼女はこの話題に興味がないのか、あまり話したがらない。僕は待ちくたびれて、彼女に聞いた。

「それって、どういう意味? 」

「呑気に見える人でも、心の中はそうでもないって意味よ」

「……へえ」

 そんな言葉があったのか。誰だか知らないが、うまいこと言う奴がいるもんだな。

「なるほど。誰の言葉? 」

「さあ、ね」

 葉菜さんは本当に知らないし、その言葉に興味も無いらしい。

「じゃあ、なんで知ってるんだよ? 」

「うちの英文科の教師がたまに言ってるのよ」

「へえ。なんだかうまいな。てか、葉菜さんって、英文科なの? 」

 僕は、そういえば彼女の大学生活についてほとんど知らなかった。彼女が文系か理系なのか、何を専攻しているのか、さっぱり知らなかった。

「私は理学部よ。物理学を専攻していて、量子物理学専攻なの」

「じゃあ、なんで英文科の先生のこと、知ってるの? 」

「大学一年の頃に一般教養って、みんな文系理系問わずに受ける授業があるの。その時に英語と第二外国語、人文科学と社会科学が理系の必修になってる。私たちのクラスを受け持った担任が、その言葉を言ってたの」

「へえ」

 僕は大学に行ったことが無いし、実は大学からきている資料も放置して目を通していない。なんだか三月に入ってからそれを開けても大丈夫な気持ちになって、開ける気にならない。

「でも、さすが大学教授だよなー。なんか、響きがかっこいい」

 簡単なことを難しい表現で言うところが、僕のイメージする学者なのだ。

「あいつ自身は、全然かっこよくないけどね。小男で鼻の下にちょび髭生やしてて。頑固者で、生徒の欠席連絡に証明書類提出を命じたり、図書館で私語している生徒を外に呼び出して叱りつけたり。うちの大学の名物先生なの。昔はあんなでもなかったらしいんだけど、三年くらい前にロンドンに留学に行っていて、神経衰弱になったらしいのよ」

「ああ、それからおかしくなっちゃったの? 」

「らしいわね。ただ、たまに妙な言葉をボソッと言って、それがなんとなく耳に残るのよ。君の話聞いてたら、そう思ったってだけ。

ああ、私たち、何の話してたっけ? 」

「藪川先生が、ノイローゼだったいう話だよ」

「ああ、そうそう。つまりね、藪川先生って、医師でしょ。上級のインテリよ? 呑気に見えたって、呑気でいられない部分があると思うわ。頭の良い人って、けっこう悲劇的かもね。この前だって、荒巻くん、そういう人に手こずってたし」

「ああ、楓さんね」

 僕はそういうと、なぜか少し可笑しいような気がした。僕は、楓さんについては悲劇とは思えないでいた。

「大人は大人で、胸に抱え込んだり畳み込んだりしたものがいっぱいあるのよ」

 葉菜さんはそう言った。

「へえ……。今の言葉、なんか葉菜さんらしくないな」

 僕が考えている葉菜は、生半可な同情の言葉なんて言わない人だった。常に冷静で、相手にとって都合の悪いことでもきっぱりと言い切ってしまう。

「え? 私らしくない? 」

 自分の自分らしさなんて知らないわよ、と葉菜さんは言った。

「まあ、私の両親がそうだっったからね。お父さん、優(ゆう)の病気が悪化にしてから全然仕事の愚痴言わなくなったの。言っちゃだめだ、って思ってたみたい。息子がこんなつらいんだからって。

 でも、アメリカの金融破たん以降、仕事が大変なことなんて見てて丸わかりだったわ。帰ったってろくに話さない。私やお母さんともろくに話さないまま自分の部屋に入っちゃって。あの時のあの人見てたら、なんだか哀れな気持ちになったわ。大人って、めんどくさいんだなって」

「そっか……。葉菜さんのお父さんも大変だったね」

 僕は彼女の父親にいささか同情してしまった。僕もアルバイトでため込んで、もどしたことがあったからだ。白織のお父さんは、自分の息子が全身管だらけになったり、投薬されたりするのをずっと見てきたわけだ。僕だって、そんな息子を見ていたら、愚痴を言うのにも罪の意識が芽生えてきそうだ。

「だからかな。楓さんを説得するよう君に言ってきたのも、半分は自分の思い入れのせいだったのかもしれない。

でもあの人だって、正直に本音を吐いてしまったら、なんてことなかったでしょ? 」

「まあ……。たしかに」

 僕は彼女の言葉に頷きながら、頭の片隅ではなんだか結果論ではないかと思った。

「私んとこのお父さんもそうだったからね。ただ、吐かせるまでが大変だったけど」

 葉菜のその言葉は、なんだか疲れたような濁りがあった。

「なんか葉菜さんってすごいな。なんか、こう、人を見ぬくと言うか言い当てると言うか……」

 僕の少ない語彙力では彼女のことを適切に表現する言葉が見当たらなかった。葉菜さんは僕の褒め言葉に興味がないみたいで、話をまとめてしまった。

「まあ、そういうことなの」

「は、はあ」

 僕と葉菜さんはそうして少し黙っていた。僕は、これ以上さっきの話題に触れることは彼女の振る舞いからしてタブーな気がしていた。

僕はもう一つの話をしようと考えた。葉菜からアドバイスを貰いたい気持ちと、自分の言い分を正当化したい気持ち両方があった。

「あのさ、向岸って知ってる? 」

 葉菜は目をぱちくりさせていた。

「知らない。変わった名前ね。人の名前? 」

「うん、そうそう。昔お見舞いに来てくれた時、中学生くらいの女の子いたでしょ? 」

 僕がそういうと、葉菜は考え込んでしまった。いつまでも返答が無いので、さらに何か言おうとした。

「ほら、葉菜さんが僕をロリコン扱いしたじゃん」

「ああ! 」

 葉菜は名案を閃いた時のごとく頷いた。僕が誰かと話してたことは覚えていなくても、僕の失態については覚えているらしい。それだけ彼女にとって印象的だったのだろうか?

「あの、君がからんでた女の子か」

「いや、別にからんではいないけどね」

 僕は彼女に、故意によって彼女と接触したのではないと弁解したかった。

 僕が向岸と初めて出会った時、実は葉菜もそこに同席していた。それはもう去年の一〇月のことだから、あれから四か月の月日が流れた。

 僕が時間を持て余して休憩所に行った時のことだ。雑誌を読もうとしていたのか、何か考え事をしていたのかはもう覚えていないが、とにかく背もたれ付きの椅子に座って腕を横に伸ばした。その時、僕が気づかなかった少女に腕が当たった。僕は彼女に腕が当たってしまったことを謝るのが筋だろうとしてそうしかけたが、彼女が僕をまるでケダモノ扱いして恐がり出した。僕はなんとか誤解を解こうと説得を試みようとしたところ、葉菜が偶然僕を訪ねてやってきたのだ。

 僕は、今度は葉菜に言い訳をしようとして、頭でいろいろと考えてみた。しかし葉菜が僕が病室に隠し持っていた成人向け雑誌を僕に見せたところで、僕はいよいよ何も言えなくなってしまった。

「彼女、向う岸っていう名前なんだ。なんか、変わった名前ね」

「ああ、まあ。僕もそう思ってたんだ。あの子、結構人見知りでさ。人付き合いとか、苦手みたい。でも最近、ちょっと変なんだ」

 そうして僕は、彼女の性格が最近、頭のねじが吹き飛んでしまったように変わったことを話した。変わったのは彼女だけではなく、気づけばここの患者さんたちにも同じように変貌した人がいることを話した。そうして彼女たちは皆、「霧の街」と彼らの呼ぶ場所に行っている。彼らの言葉遣い、振舞にはそこで植え付けられてきたとしか思えない部分がとても多い。

 最後に、彼女が神経症を患いかけていることを話した。藪川と言う担当医をはじめ何人もの医療従事者が彼女を説得しようとしても、一向に彼女が折れないことも話した。そうして、藪川医師によれば過去にも彼女に酷似したケースがあり、その患者は、しまいにはどこかに失踪して行方不明になったことも伝えた。

 葉菜は話を、例のごとく無表情で聞いていた。そして最後にこう言った。

「洗脳ね」

 その言葉は、僕の腹の底に予想外の重さで沈んでいった。そうか、こういうのを洗脳っていうのか。葉菜は言葉を続けた。

「それにしても相当深刻な話ね。相手は誰か分からないけど、そうやって人の心の隙間に上手く付け込んでるわ」

「つ、付け込んでる? 」

「だって君の話を聞く限り、その街に行った人って、みんな現状に問題を抱えた人ばかりよ? その女の子も、この病院にいる人も。その子が仲良くしてる、っていうおじいさんだって、もしかしたら何か問題をかかえているんじゃない? 」

 僕は彼女の話を聞きながら、確かにそうだなと思った。しかし腑に落ちない部分もある。

「でも、僕たちみたいな社会経験のない人とか、身寄りの居ないご老人ならそういうのに染まっちゃうかもしれないよ。だけど、その新川さんって人、ちゃんと家族もいて息子さん夫婦と一緒に生活できてる、って、彼女が言ってた。向う岸が言うには、そこにはいろんな世代の人がいるらしい。社長さんもいれば、国を動かす事業に携わる人もいたり、保育士も有名な画家さんとかも。

そんないろんな人たちを巻き込んでいくなんて、普通無理な気がするんだけど」

 葉菜は、僕の言葉を聞くとしばらく黙っていた。思案顔になって、部屋の隅をじっと眺めている。いつか見た、弟の姿と瓜二つだ。

「私にも、そこがなんなのか全く予想が付かない。ただ、すごく邪推だけど……新川さんって、外見こそ普通の家庭だけど、どっかで息子たちと溝が合ったり、孤独を感じていたりしないのかしら? その街に出入りするって人たちも、みんなどこか孤独を感じたり優しすぎたり、世間ずれして疲れ切ってしまったり」

「なんで、そう思うの? 」

「弟の優がね、画家になるって言い出したの、小学生高学年で、最初に手術した時の直前だったの。で、それから計五回手術をしたけど、あの子、手術の前になると余計に絵を描いてた」

「え? それって、どういう話? 」

「はっきり言いたくないけど、あの子にとって画家になるって夢が心のよりどころだった。

だからあそこまで生きられたと思う」

「じゃあ、『霧の街』は人の心の支えになっているってこと? 」

「綺麗に言えばそういうこと。でも教義みたいなのを教え込むなんて、どっちかというと心の隙間に付け込んでいるに近いけど」

 僕はいままでそこにいる人たちの悪い点ばかりに目が行っていたから、心の支えになっているという見方は思いつかなかった。そうか、あれが心の支えなのか。

葉菜はさらに言った。

「人が何を信じるかなんて、まあ人それぞれだし、いいんじゃない? 」

「そ、そうかな」

 僕はいまいち納得できないまま頷いた。僕の中での結論は、彼女を説得して連れ戻すべきだと言うところに落ち着いていたからだ。なんか、納得できないな。

「でも、彼女はノイローゼ気味なんだぜ? 僕から見れば、洗脳された教義と現実のキャップに苦しんでるように見えるんだけど」

「板につかない教えも守り続ければ自然と守れるようになるわ。一番大変なのは、それにちゃんと適応するまでなのよ。君が気にすることじゃないわよ」

 葉菜さんは、肩まで伸ばした自分の髪の毛を右手の指にくるくる絡めながら言った。目線は僕の方を向かず、髪の毛を見つめている。

 僕はそんな彼女を見て、つぶやくようにポツンと言った。

「……冷たいね、葉菜さん」

 彼女はその言葉を対して、気に掛けていないふうに真顔で言った。

「別に、冷たくないわよ。君が考えていることがおせっかいだと思うから、そう言ってるだけ。大輔くん、彼女を救いたいって思ってるでしょ? 」

「ま、そりゃあそうだ。だって、現に彼女は神経をすり減らしているんだし。その『霧の街』から足を洗えば、きっと症状も良くなって、以前の彼女に戻れるんじゃない? 」

「……でも、その子、もともとすごい人見知りなんでしょ? 戻ってきて救いはあるの? どうしようもないから、彼女にとってはその仲間たちとつるんだ方がまだましなんじゃない? 」

「そ、そんな……それじゃ救いなんて、ないじゃないか」

「そうね。難しいわね。

 例えばなんだけど、私たちは子供の時にはスポーツ選手でも看護師でもアイドルでもいいけど、何かに憧れるわね。でも歳を取るごとに裏の事情がだんだん見えて来て、ああ……現実ってあまり面白くないなって。そこで改めて自分の夢の道を進む人もいるけど、ほとんどの人は現実と今後のことを見据えて、大してやりたくないことの中から、一番お金になりそうだったり安定してそうだったりする道を選ぶわ。

それは、なんでだと思う? 」

「まあ、その方がまだましだから? 」

「そ。そういうこと。全力を出してぶつかって取り返しのつかない失敗をしでかすよりは、居心地が悪くっても明日が約束されててちゃんとご飯が食べられる道の方がいいの。彼らにとっては、いえ、私たちにとってはその方が良い道なの。

 その女の子にとっては、人見知りで友達が出来ない今の居場所より、たとえ洗脳に近いことをされても、いつか自分は救われると教えてくれるその道に留まった方が、ずっとマシに見えるんじゃないかしら」

「うーん……」

 僕は腕組みして考えた。いまいち、納得がいかなかった。

「だから……きゃー! 」

 急に葉菜が叫び声を上げたので、僕はびっくりして何事かと思った。彼女は僕のベッドの下を凝視したまま丸椅子から立ち上がって、僕の部屋のカーテンから消えて行った。

 僕は何事かと思ってベッドの下を見たが、何もいない。スリッパを履いて葉菜を見に行った。

 彼女は病室の入口のドアから顔を半分出しながら、僕の方をじろじろと見ていた。あれ、僕また何かやってしまっただろうか? 

「葉菜さん、どうしたの? 」

 葉菜は口を開かず、不審そうな顔をしながら僕をじろじろと見ている。またエロ本でも見つかったか? おかしい。最近は買っていないはずだ。

 葉菜はドアに身体を隠して言った。

「……いた」 

「いた? 何が? 」

「大輔くんのベッドの下、黒くて小さい奴が、カサカサーって! 」

「へ? まさかゴキブリ? 」

 葉菜は黙って首を縦に振った。

 実はこの病院は山の中にあるせいだろう、よく虫が窓に張り付いている。冬だから虫はそんな多くないはずだけど、ゴキブリならいるかもしれない。

「葉菜さん、ゴキブリ嫌いなの? 」

「嫌いよ! 人類の敵よ! 」

 彼女にとってゴキブリは人類の敵だそうだ。よほどゴキブリが嫌いらしい。彼女があんな叫び声を上げて取り乱したのを、僕は見たことがなかった。

 僕は自分のスリッパの片方を手に持つと、ゴキブリを退治しようとベッドの中にごそごそと入っていった。

 頭の中ではぼんやりと、向う岸のことを考える。結局、僕はどうすればいいんだろう?

―のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。

 そんなの、誰だってそうだ。それが癒されるのなら、僕だって「霧の街」に行きたいや。

 その日、結局ゴキブリは見つからなかった。

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