第3話 霧の街と彼女の居場所(4)
その怪しさと対照的に、最近の向岸はやけに明るい。
今までの彼女は極度の人見知りで、知らない人に声を掛けられればおどおどして、隙あらば逃げ出そうとばかり考えている風だった。まるで生まれてすぐに親から引き離された子ウサギみたいだったのだ。でも僕はそんな彼女を見ていて、決して「おかしい」なんて思ったりはしなかった。
僕だって立派な大人だって、心の底では人に心を預けるのを恐がっているものではないのか。自分から心を開いておいて、相手も心を開いてくれなければ、何か重大な損失をしたと感じるだろう。そういう寂しさを抱えて生きている人がほとんどではないのか。
ただ僕らは少なくとも犬くらいの牙と足があるから、うまく自分のテリトリーを守れるようになっているだけなのだ。牙と足が無かったらすぐに気弱になって怯えだすのだから、根本的には生まれたての子ウサギと変わらない。
それに比べたら、彼女の変貌ぶりは、洗脳されたかのようだった。彼女の根本的な何かが動かされてしまった風な印象を受ける。
まず、彼女は他人を恐れなくなった。
僕に会った時も、まぶしいくらいに純粋な笑顔で笑いかけてくる。完全に心を開け放したような勢いで僕に接してくる。周りの人も最初はそれに驚いたようだったが、彼女はこの病院では年少者ということもあって、特に高齢者にはよく可愛がられるようになった。
先日も、僕はB棟の休憩所に行った。そこにはテレビが設置されていて、例の如く高齢の方々が懐かしい時代劇の再放送を見ていらっしゃった。
僕は彼らに、
「こんにちは」とだけ声を掛けた。その時は七〇以上のおじいちゃんおばあちゃんが五人くらい座っていたが、手前のおばあちゃん二名が、
「ああ、こんにちは」
と答えた。ここで会話は終わる。向こうにいる男性陣はテレビの方に目を向けていて、こちらに気づいているかさえ分からなかった。いつものことなので、僕はテレビからちょっと離れたところに並べられた背もたれ付きの椅子に座ると、さっき掴んだ新聞を一面からじろじろと眺め出した。
一応社会の動きを知っておこうと言う向学心から、毎日新聞を手に取るようしている。しかし大抵は内容が頭に入って来ず、見出しの文字だけ眺めて、今日も自分が難しいことにトライしたことを自賛して返却するのだった。
僕がそんな殊勝な取り組みをしていると、休憩所の一五畳分くらいの空間に、
「こんにちは!」
という切れの良い声が響いた。
僕は新聞から目を上げて声の方向を見ると、向岸がいて、真っ直ぐな目をご老人方に向けていた。
休憩所にいたご老人方はそれがうれしかったらしい。
「こんにちは、ねねちゃん。今日も元気ね」とか、「外はまだ冬空ね。早く春、来てほしいね」とか、僕とは質的に異なった返答が彼女に返ってきた。僕があいさつした時はテレビを見ていたおじい様方三名も、「おう」、「こんにちは、ねねちゃん」と言ったような返事をした。
―まてまて、あなた達、僕の声聞こえてたよな?
とにかく、彼らにとって向う岸は、孫みたいに映るらしい。この病院に閉じ込められていてはそう孫たちとも自由に会えないから、よけい向岸が可愛いらしいのかもしれない。その後もご老人方と、天気の話だったり、いつ診療があるのかだったり、世間話みたいなことを彼女は愛想よくしていた。
しばらくして会話が終わり、向岸が僕の座っている椅子の辺りに来た。彼女も毎回、ここで雑誌を読んでいたのだ。
「あ、おにいちゃん。いたんだね」
彼女は今まで、僕がいることに気づかなかったらしい。
「ああ、いるよ。お前が来る、ちょっと前からいるよ」
僕は彼女に対して、ぶっきらぼうに答えた。彼女は僕の態度を大して気にしないらしく、「ふうん」とだけ答えて漫画雑誌を引っ張ってきて、また座った。
僕としては、なんだかおもしろくない。この不満をどこにぶつけて良いものやら、さっぱりわからない。結局、僕はこれから休憩所に行く回数を減らし、時間も今までとちょっとずらそうと決めた。彼女とご老人方が一緒にいる空間では、僕だけがあぶれている感じがして仕方ないのだ。
二月に入った。もうじき冬の峠を超えるという月になったが、外はまだ一日おきくらいに雪が降っていて、窓を眺める僕の気を萎えさせていた。
僕は秋と冬の晴れた空が好きだった。
空気が澄んでいて、空が高くて、どこかに大切なものを置き忘れてきたことを感づかせてくれそうな気がするのだ。大切なものが何で、それをどこに置いてきたのか僕には思い浮かぶものはない。ただ、自分のセンチメンタルな気分をもてあそんで、楽しんでいるだけかもしれない。
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