第3話 霧の街と彼女の居場所(3)

 ある時、向う岸は僕と休憩所で出会った時、こんなことを話した。

人間が充実した一生を過ごし夢を実現させていくためには、何が大切なのか? 知識の量や行っていること・背負っているものの責任の重さではない。突き詰めていけば、実は「在り方」が根本なのだ。彼女はどうやらこれらの知識を、「霧の街」のお父さんとお母さんに教えてもらったという。

そもそも人間の在り方一つで人生が変わるとしたら、僕だっていちいち現実的な視点を持って考えたりはしないだろう。自分の意志と努力を超越したところに自分の理想があるからこそ、誰もが現実と理想のジレンマで苦しんでいるわけだ。それをえらく理論ぶって話されることはあまりいい気分ではない。

 そして僕がさらに驚いたことは、この病院内にもその「霧の街」に行ったことのある人が何人もいて、その人たちが異様に仲良く固まって、不定期に話し込んでいることだった。その頻度は週数回、というペースではない。ほぼ毎日のように、らんらんと目を輝かせたおじいさんであったり、中年女性であったり、若い男性であったりが通路やロビーに集まって、熱く何かを話し込んでいる。この病院は、上は九〇代のおばあちゃんから下は幼稚園児までいるのだが、一般的に世代を超えたつながりは同世代同士に比べれば緩かった。しかし「霧の街」を行き来する者たちは、同世代以上に緊密な関係を築いていて、病院内を歩いていれば一目で気づくことが出来た。向う岸もその一員であり、彼女はよく休憩所で、電話越しに「霧の街」の関係者と話し込んでいた。

相手はなんでもこの病院の外にいる社会人で、七〇代のおじいちゃんだと言う。このおじいちゃんとは「霧の街」で偶然知り合ったという。向う岸はこのおじいちゃんを「新川のじいじ」と呼んで、僕が見かけただけでも毎週三回以上は電話していた。

 僕は一度、彼女の電話時間を知りたいと思い、彼女が電話を掛けてから休憩所に戻って来るまでの時間を計測したことがある。すると三〇分程度も話し込んでいる。週に三日も、三〇分も何を話しているのか、はなはだ疑問だ。僕と葉菜さんだって、会話は持って一五分くらいだ。(彼女ともっと話し込めるようになるのなら、僕は「霧の街」に行ってみたいのだが、それは今回は蛇足だろう。)

彼女は大抵、新川のじいじと話し込んだ後は、一種の達成感を得たような顔をしていた。彼女が語る、人生の目標にまた一歩進んだような気持ちになっているらしい。

 しかし僕から見れば、お互いに自分の理想を語り合って、うんうんとうなずいているだけでは、望みには半歩たりとも近づいてはいないだろう。自分たちで自分たちを気持ちよくしているだけじゃないのだろうか。下品な言い方が許されるなら、マスター○―ションだ。そんな暇があるなら、向う岸、漫画書け!(彼女は将来、絵の専門学校に行って漫画家になりたいらしい。彼女は青年誌を中心に読んでいるから、僕としては彼女の漫画の方向性も心配だった。)

僕が彼女と雑談する時、彼女は僕の言葉の端々を取り上げて、「これは運命なんだよ」とか「私はきっと、素晴らしい奇跡に繋がる出会いだと思うな」とか、「今がすべてなんだよ」という言葉を放った。

僕が、どんな経緯かは忘れたが、たらこと明太子について彼女と会話した時もそうだった。

「たらこと明太子って、どう違うんだろう。味付けかな? 僕は、別の魚から取れたものだと信じてるよ。

だって明太子って、皇族の祖先みたいだし」

と他愛のないことを話した時だった。向岸はこういった。

「そう思うおにいちゃんの気持ちって、どんな気持ちなの? 」

「え? どうもこうも、たらこと明太子について考えたい気分だ」

「ふうん。でも、それって、たらこを見下している気がするな。誰が勝ったとか、誰が偉いとか、関係ないのよ。たらこも明太子も、この世界に生まれたってことは、生き物の命と、職人さんの情熱があってこそなの。運命であり、素晴らしい奇跡なのよ」

「……」

 僕はそれきり、閉口してしまった。たらこと明太子が、こんな壮大な話につながるとは思わなかったからだ。そして彼女はそれを切り口に、僕の将来についての話を始めた。

「おにいちゃんも、この世界に生まれたこと自体、奇跡なんだよ。運命なの。だから、今を全力で生きていく必要があるの」

「なんでお前、最近そんなことばっか言うようになったんだ? お前はまだ、将来を考えるような年齢じゃないだろう? 」

「人間は明日死ぬかもしれないのよ。将来とか、そんなの関係ないの。今できることは、すぐやるの。今を全力で生きるの。今がすべてよ」

「は、はあ……」

彼女は、僕と会話する時いくつかのキーワードを必ず出す。それはどうやら、「霧の街」に行ったことのある人全員が口に出す言葉らしい。主なキーワードを、僕の覚えている限り挙げてみる。「運命」「素晴らしい奇跡」「いまがすべて」「いまに全力」「明日死ぬかもしれない」などである。僕が見る限りそれらの言葉は、患者たちが語るのに、いまいち説得力が無い。まるで誰かに教え込まれた理屈みたいだった。

 しかし彼らはそれを本気で信じていて、僕が彼らに食い下がろうとしても大抵言葉の端を取られて相手のペースに持ち込まれてしまった。彼らを説得することは、非常に困難なように思われた。

そしてもう一つ気に掛かることは、僕が「霧の街」のことや彼らの教えを批判すると、彼らがムキになって突っかかってくることだ。そうして、上記した「専門用語」を並べて、僕が克服されるべき存在だと言うことを説き伏せにかかる。

人によって考え方、信じるものは違うはずで、日本と言う国は憲法でそれを保障している。ファシズム国家や独裁政治が行われていない限りは、人によって考え方が違う方がむしろ健全であり、彼らの教えが絶対と言うこともないはずだ。世の中の優等生に比べて頭の足りない所の僕だが、それくらいのことはちゃんとわきまえている自負がある。

 しかし彼らは他人の考え方、とくに現実主義の対局を行くような考え方を貫いている。それを批判されると、神を冒涜された一神教の信者みたく感情的になった。僕は彼らに、わずかでない恐怖を感じていた。

そしてその信者たちは皆、「きらきら」と評していいのか、「ぎらぎら」と評した方が良いのか分からない、真っ直ぐすぎる目を他者に向けた。彼らが真っ直ぐ僕を見つめるものだから、僕も彼らと目を合わせずにはいられなくなる。するとその純粋な、ガラス細工みたいな目の輝きが、僕には危ういものに思えて仕方なくなる。

僕は、決まって居心地悪くなった。僕のこころの卑屈な部分が、彼らには無いみたいだった。それで、かえって僕の方がみじめな気分になってしまうのだ。もしかしたら僕は本当に克服されるべきある存在なのかもしれない。

僕は以前、こうして誰かと目線をじっと合わせたことがあった。今まで忘れていたのに、向う岸と目を合わせて、ふとその記憶が甦ってきた。ぼくがまだこの病院に入って間もない頃、白織優のいたずらにひっかけられた時だった。

彼も純粋な目をしていた。まっすぐで、ガラスみたいに脆くて、でも強い意志があって、痛みをこらえる我慢があって、ちょっとした絶望があったような感じだった。そして最後には、自分の運命全てへの開き直りがあった。

彼と会話した言葉はいちいち覚えちゃいないのに、彼と見つめ合った時の目の印象だけはやたら鮮明に思い出された。白織優の人柄は、もしかしたら言葉の端々よりもあの目つきに現れていたのかもしれない。僕は、そればかり記憶しているんだから。

 瑠璃川とは、見つめ合ったことはないけど、目を合わせたことは何度かある。それは何時だったかは、はっきり覚えていない。たぶん、彼女の死期に気づいてからだったと思う。

彼女の目には、陽気さがあり、何かを我慢している風があり、何やら悲しさがあり、ちょっと悲観したところ(何かを諦めているふうでもあった)があり、女性らしい優しさ(母性、といえば良いのだろうか? )があり、やはり白織のように開き直りがあったように思う。なぜ僕が彼女の瞳から、多分にネガティブな感情を読み取ったかと問われれば、彼女の黒目は絶えず少し下を向いていたからだろう。

 僕が人を目を見ただけで決めつけてしまうのはよくないから、これはあくまで僕の先入観での話ということを断っておこう。

一方、向岸をはじめ「霧の街」の人たちには、純粋さと意志に加えて、狂気があった。

 白織と瑠璃川には、どこか現実に対して開き直ってしまったところがあるのに、彼らにはそれが無い。まるで意志の力だけですべてを変えてしまえると考えている風な、現実離れした印象を受けた。そして心の中で、現実とぶつかる自分の意志を必死に支えているようにも見えた。自分たちがいざ窮地に立たされたら、志のためなら自分を壊しながらでも突き進むことを辞さない程の、固い決意を感じさせた。それだからかもしれない、その目はまるで人をにらみつけているような感じさえした。

 頭のいまいち足りない僕だが、こういうのをどう言い表せばいいのかは知っている。他の人の言葉を借りれば、「酔狂」なのだ。

彼らは酔っている。それも、酔いから醒めるのを恐がりながら、酔っている。だから仲間同士で毎日、お互いに酔わせ合っているのだ。健全な身体なら、二、三日も経てばアルコールが抜けてしまうのを知っているにもかかわらず、である。

僕は、彼らの言っている「霧の街」と言うのが気になった。そこには一体なにがあるのだろう。そこにある何が、こんなにも彼ら彼女らを突き動かしているのだろう。何が彼らの目を、こんなにも狂わせているのだろう。

僕は一度、彼らが外部の、少なくとも病院とは繋がりの無いであろう、カルト集団や宗教団体に彼らが乗せられたのだろう、と予測したことがあった。今考えてみれば、いかにも単純な発想である。しかし彼らの陥っている精神状態や異様な結束力を見れば、そして病院と言う日常から切り離されたある種の特殊空間では、僕がそう予測するに至ったのも仕方ないことだったと思う。病院は人が自由に出入りできる公共の場であるため、何か怪しい勢力が秘密裏に忍び寄ってきていても防ぐ手立てはないだろう、と僕は予測した。しかし、その予測は呆気なく断ち切られることとなった。

 南里病院はサナトリウムの役割を兼ねている(都市部から離れた山中にあるのはそのせいだ)。当然、自分の死期を告知された人たちも少なくない数がいるわけで、そう言った人が宗教等に魅入られやすい性質を帯びていることは誰の目にも明らかだった。そのせいで、外部の者が自由に出入りできるのは一階の大ホールと必要最低限の通路に限られている。また病院関係者と入院患者の目に見える場所に、いくつもの宗教勧誘取締りのポスターが貼りつけられていた(僕は今まで病院で過ごしていて、そう言った部分に注意を払ったことがほとんどなかったのだ。以前、葉菜がこの病院のそういった部分を指して「うちの大学みたい」と話していたことを最近になって思い出した)。食事を運んでくる看護師に尋ねたところ、病院関係者すべてにその手の団体についての対策マニュアルが配布されており、以前そういう意識が無い時代に一度、宗教団体がある年配の女性を勧誘したことがあり、大問題となったらしい。それからこの病院に限らず、サナトリウムの役割を兼ねる病院はカルトや宗教に対して非常に厳重に警戒をするようになったのだという。

看護師の話では、ここにいる患者が集団でごっそり外出するような出来事は今まで全くなかったし、外部から来る人間も明確な身分証明が無くては中には入れないという。つまり、カルトや勧誘にありがちな、人を物理的に逃げることのできない状況に追い込んでしまうという手法は、ここでは全く通用しないのだ。他にもカルトには別で会員を集める方法があるのかもしれないが、この病院の至る所で信者を獲得するに至るためには、どんな手法を持ってしても難しいのではないだろうか。そう考えると、カルトや宗教はあくまで可能性の一つではあっても、確実性は決して高くないと結論付けざるを得ない。

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