第3話 霧の街と彼女の居場所(2)
僕は、まっくらな藪川の診療室で丸椅子に腰かけていた。ときどき退屈そうに椅子を左右に振ってみた。
目の前には藪川が座っていて、左側のスクリーンに映し出された僕の脳のレントゲンを見ながら、いろいろと説明していた。話の内容は大抵、二度三度と繰り返したものなので、僕は退屈して椅子を廻しているのだった。
「ところで、荒巻くん、一週間前だっけ。大変だったらしいじゃないの? 」
僕は彼の話を半分聞いていなかったので、どういう会話の流れでそんな発言がされたのか分からなかった。
「たいへん? 何が大変なんですか? 」
「C棟の患者さんと大喧嘩して、暴力沙汰になったって? 僕は君の担当医なのに、誰もそのことを僕に報告しなかったんだよ」
藪川は、心配と不機嫌が入り混じった顔で僕の方を見ていた。
楓さんとの一件は、あの夜僕の周りにいた看護師たちによって揉み消されたらしい。僕にも楓さんにも外傷は残っていたが、ケンカに至った経緯やその後の処理は、一部の関係者によって隠された。そうしなければ、僕は楓さんと二度と対面できなかっただろう。
「大丈夫です。ちょっとした意見の対立がエスカレートしちゃいまして。二、三発お互いにやりあったんです」
僕はそう言って、一〇ラウンドを戦い抜いたボクサーのように腫れ上がった頬をさすってみた。
「いでっ! 」
頬に鋭い痛みが走ったせいで、僕は自分の頬に触れるのを止めた。あの夜から一週間たち、顔はところどころ青あざになり、腫れも大きくなってきた。
藪川は、そんな僕をじっと見つめていた。
何か言いたいのだろう。そりゃそうだ。とても、二、三発の殴り合いでここまでの腫れにはならない。しかし僕が明らかなごまかしをしていることを気に掛けているらしい。僕が、本音を言いたくないことを察しているのだ。
「……もう二度と、こんな騒動は起こさないでね。君の退院を遅らすことになるし、病院のたくさんの人にも迷惑をかけることになる。ついでに僕も、担当医として、君が事実を言ってくれない限り助けようもない。くれぐれも、僕の仕事と心配を量産するのを止めるように」
「はい、そうします」
藪川の口ぶりでは、僕が騒動を起こしたのは今回だけではないような言い方だ。
以前、僕は楓さんの病室に直接訪ねたことがある。その時、看護師に止められた。もっとさかのぼれば、瑠璃川の病室にもいきなり訪問したし、彼女の場合は飲酒までさせた。もしかたら藪川は、そのうちのいくつかを知っているのかもしれない。それを承知の上で、あえて僕を咎めずにいるのかもしれない。
僕はそう思うと、腹の下あたりにスース―と風が通っているような感じになった。
僕はこの医師に、頭を下げても下げきれないような気持ちになった。もっとも、彼に事実がばれていないのならば、それに越したことはないのであるが。
毎週ある藪川との面談が終わったのは、二〇時過ぎだった。
僕は、これから診療所のあるC棟の三階から僕の部屋のあるB棟の四階まで戻らねばならない。この病院は田舎の山を開いて建てた病院だけに、無駄な広さである。僕の部屋まで一五分程度も歩かねばならない。
僕は階段を使って病棟間の通路のある二階まで階段で降り、通路を使ってB棟へ移動した。しかし途中で缶コーヒーが飲みたくなって、B棟一階のロビーまで階段を使って降りた。
消灯二時間前のこの時間は、各々の棟に設置された休憩所を除いては通路にほとんど人がいない。患者はそれぞれの部屋に戻って、夕食後のひと時を思い思いに過ごしている。
少し広めの通路を歩いていてすれ違うのは、夜勤の看護師か仕事終わりにお見舞いに来た訪問者くらいだ。
通路を歩きながら外を見ても、見えるのは春を待つ裸の樹木だけだった。一部には葉っぱがちゃんとついていて、夜間に外の畦道を歩くとカサカサと不気味な音を立てる。しかしその葉っぱ達がどんな種類の樹木なのかは、とんと検討が付かない。僕は、病院の畦道を夜間に一人で歩こうなどと言う気にはとてもならなかった。
僕は一階ロビーに下りた。ここはこの病院の正面玄関に当たる場所で、正面玄関から入った先にたくさんの腰掛け椅子が備え付けられている。その下には赤色を基調とした絨毯が敷かれており、空間は幾つもの石材の支柱によって支えられていた。
無数の椅子の奥には、僕が街で見かけたこともあるチェーンの喫茶店があり、簡単な飲食が楽しめるようになっている。僕はここのコーヒーも好きなのだが、価格が缶コーヒーの約三倍であるため、買うのに気が引けるのだ。僕は無意識に小銭をケチるくせがあるため、ここでコーヒーを買うと言う選択肢は持ち合わせていない。
喫茶店の奥に受付があり、病院の事務職員たちが来客の問診から会計までの事務処理を行っている。病院で働く人間には医師と看護師のほかに事務職員たちがいて、彼らはときどきスーツ姿で通路を歩いている。どうやら受付の奥や病院の裏方に彼らの職場があるらしいが、彼らが普段何をやっている人たちなのか僕はよく知らなかったし、知ろうとすることもなかった。
夜のロビーは日中と打って変わって人がおらず、照明も非常用の粗末なのが光っているくらいなので物寂しい感じがした。もしかしたら夜の学校もこんな感じがするのかもしれない。無駄に広い来賓用の空間が、誰も人がいないまま横たわっている感じだ。隅に置かれた自販機のゴウゴウという、日中なら気にもかけない音がやけに大きく聞こえてくる。ちなみに自販機の白色照明は、この物寂しい空間に一種の人工的なにぎやかさを与えているようだ。
僕は自販機のスイッチを押した。ゴトッという音がして、缶コーヒーが吐き出される。僕はそれを引っ掴んで、B棟へ戻ろうとした。
すると、誰かの話し声が聞こえる。僕は、もしかしたらもしかするかもしれない、と一瞬思ったが、事実は僕の予想に反していた。
ロビーの受付近くのB棟への連絡通路の近くで、一人の少女がスマートフォンを耳にあてて誰かと話していた。他の患者もいる部屋では勝手が悪いので、ここで話しているのだ。超余談だが、僕は未だに灰色のガラパゴスケータイを使っている。僕はガラケーで事足りるし、記憶を無くす前の僕は機種変更する気がなかったらしい。
電話する少女は、同じ場所を行ったり来たりしながら話をしていた。小柄で細身の身体に、日本人形のようにまっすぐに肩まで伸ばされた髪の毛。僕は、このシルエットに見覚えがあった。
暗闇と非常用蛍光灯の黄色い光の間を行き来している少女が、こちらへ向けて歩いたと思うと、また向うへ向き直った。その時、スマートフォンの明かりが彼女の横顔を暗闇から照らし出した。
―向岸だ。
僕は、自分が自販機の照明を離れた暗い場所に立っていることをいいことに、彼女の様子をしばらく見ていた。それは好奇心だった。この病院内でも指折りの人見知りの少女が一体誰と話しているのか、知りたかったのだ。
彼女の話し声は、途切れ途切れにこちらに聞こえてきた。僕はその言葉の端々を拾い集めるように聞いた。
「……ばあちゃん……だから、大丈夫だって。え? おと……かあ……、いないって? そんなわけないじゃない。え? 何言ってるの、て? 私の方が……」
どうやら友人と仲良くお話しているという感じではないらしい。以前彼女は、学校にたまに行ってもほとんど友達が出来ないのだと言っていた。口ぶりからして、かなり親しい間柄の人のようだ。親族かな?
彼女は水玉柄のパジャマを着て、ピンクの生地に動物のプリントされたスリッパを履いていた。寝る前に、親族に連絡でもしているのだろうか?
「……じゃ、私は寝るね。うん、おやすみ」
彼女はそういうと、耳から画面を話した、ふう、という彼女のため息が聞こえた。
彼女は決して楽しい話をしていたわけではないようだ。難しそうな顔をしている。何か口論でもしたのであろうか。
僕が即座に思い浮かべたのは、家族の手厚すぎる心配だった。家族、とくに母親や祖母には、子供の面倒を見るのが生きがいというような人がいる。なんでもいちいち気を廻して、とくに病気や怪我の時はそれがさらにエスカレートする。身体の不調くらい、いちいち聞かれなくても自分でちゃんと分かっているつもりなのだが、人を心配することが一種の生きがいになっているのだから仕方ない。もっとも、そういう存在はいなくなって初めてありがたみが分かるのかもしれないが。とにかく、僕は、向岸が家族の過度な心配に晒されて、ちょっと疲れているのではないかと察したのだ。
彼女はちょっと視線を遠いところにやっていたが、直に僕が自販機の横に突っ立っていることに気づいた。
「あ、おにいちゃん」
「や、やあ……」
しまった、立ち聞きしたことがばれただろうか? 僕は、瞬時に上手い言い逃れの方法がないかを頭で考えた。こういう時だけは、僕の頭は抜群に機転がきくみたいだった。
「いやー、さっき診療室に行っててさ。それで、今、ここでコーヒー飲もうと思ってきたわけよ。それで、買ってB棟戻ろうとしたら、ちょうどお前がいてさ。あれー、何してるんだろーって……」
「立ち聞きしてたんだ」とは口が滑っても言えない。
「声かけようと思って、電話が終わるの、待ってたんだよ」
僕は苦し紛れにそう言った。
すると彼女は、立ち聞きされたことを大して気にしていないと言う風に答えた。
「そ。今、おばあちゃんと電話してたの」
そう言って、視線を僕から横に向けた。
「ああ、おばあちゃんとか。なんか、結構込み入って話してたなあ」
立ち聞きしていたことがばれるのを承知で言ってみた。少し勇気が言ったが、この機会を逃したらもう聞けないだろうという予感がしていた。
「うん。おばあちゃんたら、もうお父さんとお母さんは戻ってこないって、私に言うの」
「お父さんとお母さん? 」
そう言えば、彼女は最近、両親が久しぶりに会いに来てくれるのだと言っていた。彼女はそれを、結構楽しみにしているふうでもあった。おばあちゃんが、それを戻ってこないと言うなんて、どういう意味だろうか?
「お前のお父さんとお母さん、離れた場所にでも住んでいるのか? 」
「うん、まあね。今は一緒に住めないって、この前逢った時に言ってたわ。でももう少しの辛抱だって、お父さんが」
彼女はそう言って、僕の目を見た。彼女の目は、黒くて大きな真珠のような澄んだ瞳だった。その瞳が、非常用陽明の黄色の光を反射して、鈍く光っている。
僕の心の奥底に、わずかに恐れの気持ちが走った。
そもそも彼女は、どうしてこんなに両親が好きなのだろうか。母親はともかく、年頃の女の子なら父親を嫌ったりするものではないだろうか? 離れて暮らせば両親のありがたみが分かるのは事実かもしれない。しかし彼女みたいな多感な時期の少女が、全面的に両親を受け入れるだろうか? 少なくとも僕は、こうも全面的に受け入れられないという話なのだが……。
「でも、おばあちゃんは、お父さんにもお母さんにも二度と会えないはずって。いつもその話になるとね、私たち会話がかみ合わなくて」
喧嘩になっちゃうの、と彼女は言った。
僕は彼女の言葉を聞いて、何かあるな、と感じた。
もしかしたら彼女は、家庭の複雑な事情に巻き込まれているかもしれない。言いたくはないが、祖母が認知症で、過去の記憶に捕らわれているのかもしれない。僕は彼女の病気を知らないから、もしかしたら彼女の病気と関係しているのかもしれない。
僕は、これ以上彼女の事情に踏み込んでよいのか、分からなかった。人には基本的に踏み入ってほしくない領域がある。特に家族や親族の話題は相当デリケートな話になってくる。僕みたいな第三者が、彼女の事情に突っ込んでみてもよいものか、またそれにふさわしい資格を有しているのか。普通に考えれば「否」だ。
ただ、僕は彼女の見せた目が気になっていた。あまりにも真っ直ぐで、世間に出れば一瞬で壊されてしまいそうな危うさを感じたからだ。
向岸ねねは変わった少女だ。
以前はかなりの人見知りで、自分の素性や心の状態を積極的に明かそうとするような人ではなかった。しかし最近になって、急に自分の気持ちの状態や将来への夢をことあるごとに持ち出すようになった。
彼女は最近、「霧の街」というところに行ったらしい。(僕は彼女からそれを聞いたとき、彼女の気がおかしくなったのかと思ってしまった。)
彼女曰く、そこは一種の楽園で、そこに行きさえすれば、自分と同じように希望を持った人たちと知り合えるし、みんな年齢や立場を越えて繋がりあうことが出来るらしい。性別も年齢も国籍も越えて、互いの熱い情熱を認め合い、お互いに高め合える場所なんだと言う。自分の熱い思いを発見するために、その場所はあるのだとも言う。彼女にとっては、そこにこそ、この世界の真実があり、今いる病院を含めて世間とはそこで培ったり習ったりするものを実践していく実験場に過ぎないのだという。
僕は、毎日休憩所に立ち寄って雑誌や新聞を見ていて、毎週のように彼女と出会う。当然彼女と会話になるわけであるが、彼女はそこで必ず僕のことをあれこれ聞きたがった。
昔はどんな夢を持っていたのか、遊びは何が好きだったのか、辛い時はどんな時で、そんな時はどんなふうに思うのか。将来に夢はあるのか、東京に行きたいのか、地方で就職するのか。
僕は将来について纏まった考えなんてないものだから、大抵は返答に困って、漠然としたことを単語だけ羅列して伝えることになった。すると彼女は、僕のそういうところを糾弾したいらしく、「霧の街」で習ってきたことを僕の前に並べ立てて、僕を質問攻めにした。
僕が、
「将来の夢か。まあ、それを探すために大学四年間があると思うよ」
と話すと、
「それって、問題は時間が解決してくれる、って考えじゃない? 私はそう思わないな。自分がどうなりたいのか、まず、決めないとね」
と十四歳のくせに! 僕に説教を垂れるようになった。そういって、僕がいかにいままで流されてきたが、またこれからも流されていくという話を散々してくれた。
彼女曰く、人生はいつ終わるか分からない。もしかしたら明日、自動車に乗っていて事故に遭うかもしれない。あるいは、飛行機に搭乗して移動中、海に不時着して、海に沈んでいくかもしれない。鮫の餌になるかもしれない。
だから僕のように流されて生きていく生き方は一刻も早く辞めるべきで、早く自分はどうなりたいのか、どんな自分でありたいのかを決めて、今すぐできることに挑戦していかなくてはならない、らしい。
僕はその話を聞かされているうちに、一部もっともな部分もあるが、ところどころでおかしな話をされているとしか思えない部分を発見した。彼女の言うような考え方ももちろんあるかもしれない。しかしそもそも人によって考え方は違うわけだし、別に未来に希望を持っていなければ生きていかれないかといえば、そうではない。
そして同時に、彼女の言葉が、彼女の具体的な経験から話されているものではなく、どこかの誰かに教え込まれた知識を鵜呑みにしているとしか思えない、上滑りな印象を与えずにはおかなかった。
僕は以上の話を聞かされたあと、思い切って彼女に聞いてみた。彼女が、「漫画研究」と言う名分で漫画雑誌を開いたところだった。
「向う岸、説教ありがとう。僕も自分が卑屈なことは知ってるんだよ。これまでもこれからも、きっと大した考えなんて持たずに生きていくんだろうと自分で思ってる。
ところで、お前はどこからそんな知識を拾ってきたんだ? 」
向う岸は平然とした顔で言った。
「『霧の街』のルールなの。私たちが、現実を変えて夢をかなえるための方法なのよ」
「そこって、なんだかすごい場所なんだなあ。それって、本かセミナーなのか? そういうことをやる」
それ以上、彼女は答えようとしなかった。彼女は、一瞬の沈黙の後、また雑誌に目をやって、一コマを指差しながら別の話を始めた。
「おにいちゃん、この漫画のこの女の子、最近登場シーンがどんどん増えているの、気づいてる? この調子なら、今のヒロインの子と人気で肩を並べる日も遠くないと思うなあ。だってね、作者さんだって、彼女の方が好きって、この前インタビューで言ってたもん。だけど、特殊能力が『巨大化』なのはダメだよねえ。だって、巨大化する女の子の行き着く先なんて、自分のコンプレックスで悩み続ける日々だもん。
自分を好きになれない女の子は、ヒロインには成れないよ。
この能力はダメだね。きっと最後は、もとの女の子にヒロインの座を取られて終わりなんだろうなあ」
「なあ……向う岸……」
話を聞いてくれよ、僕はそう言いたかった。しかし彼女の振る舞いから、言うことがはばかられてしまった。
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