第3話 霧の街と彼女の居場所(1)

 僕の前には、向う岸が立っていた。僕には、彼女以外真っ暗で何も見えない。

ここは暗い密室で、締め切ってあって外の音は一切聞こえない。空調らしい、ゴォーッという空気の激しくかき回される音が、部屋中に響いている。部屋の隅のステレオから、昭和の雰囲気の漂う聞き慣れない音楽がガンガン鳴り響いている。

僕はその一種異様な空間で、頭の神経細胞の堰が壊されてしまったような、強い興奮状態に陥っていた。冷静に深く考えることが、甘い匂いと空間、音楽に阻まれて上手くできない。この空間自体が、それをボクにさせないよう仕向けているみたいだった。

僕は目の前の向う岸を見た。彼女は、押し黙って目を閉じていた。唇の端は不自然に下がり、歯を食いしばっていることが分かった。たまに瞼と、眉がぴくぴくと微動した。

 彼女は必死で戦っているんだ。自分の中の、両親の虚像と。そして自分の弱い部分と。そして父親と母親から自立しようとしている。父と母と言う、人間にとってとてつもなく大きな存在に、一人の人間として向き合おうとしている。

一四歳の少女にとって、それはあまりにも過酷だと思われた。

歯を食いしばり、顔をしかめている向う岸の頬から涙が一筋、ツーっと流れて、それは地面に消えて行った。彼女は、徐々にしゃくりあげ始めた。今までせき止められていた心のダムが一気に崩されたようで、涙がボロボロと溢れ出し、彼女は声を上げて泣いていた。僕は、その声をとても寂しいものだと思った。

自分が彼女にしたことが、果たして正しかったのか分からない。もしかしたら良いも悪いも無かったのかもしれない。

人間は何かを信じているから、勇気が出る。自分の枠を超えて、何かに挑もうと思える。澄んだ目をして、相手の目を純粋に見つめられる。素直にもなれる。

向岸ねねは、虚像の両親を信じていた。この世とあの世の狭間で、父親と母親の代わりをしてくれる存在にずっとすがって生きてきた。虚像の両親がいなければ、彼女は過酷な病院生活で心をぽっきり折られてしまっていたのかもしれない。

でも、彼女がこれ以上あの世界にいることは、彼女の心を現実に向けることを阻んでしまう。彼女は「霧の街」にいなければ何もできない、依存症の人間になってしまう。実は彼女がいつまであの世界にいられるかも、大いに疑問である。

居心地の良い仲間同士で集まって、互いを肯定しあうことも必要なのかもしれない。でも傍から見れば、互いの思想を互いに縛りあって、洗脳しあっているようにしか見えない。そうやって仲間同士で絶対的なものを掲げて、それを信じる自分たちを肯定しあって、気持ち良くなっているようだ。互いに互いを縛り付けあって、一緒に地中深くに沈み込んでいくようだ。

そんなことをしていたら、彼女の弱さはちっとも解決されない。彼女の心は結局、自立できないまま現実と「霧の街」を彷徨うことになる。

僕は彼女に、現実に目を向けて欲しかった。自分自身を信じれば、必然的に孤独に陥っていくことは知っている。現実で辛い思いをしたからこそ、彼女が「霧の街」に迷い込んだことも知っている。でも、そこに逃げ込むことは彼女をもっと救いようのない状況に追い込んでしまう。他人の言葉に従って生きていくことは、自分自身の内面に対して何か重大な敗北をもたらすことになると思う。何か自分でないものと同居し続けていかなくてはならなくなる。他の何かが、彼女の心に巣食ってしまう。彼女は自分で自分の人生を歩めなくなるだろう。

戻って来るんだ、皆孤独を抱えて生きている世界に。

戻って来るんだ、たとえこっちは孤独でも、生きることに十分に値する世界だから。

戻って来るんだ、見えないだけで、彼女の中の新芽がきっと芽吹くはずの世界に。

やるせない日が続いても、退屈な日が続いても、明日すら不安な日でも、今日を生きることが辛い日でも、僕はこの世界で生き続ける価値を信じている。まだよく分からない未来の自分とこの世界の価値を信じている。

だから、向う岸、戻って来るんだ。世界に救いがないのなら、君が木を植え豊かにしていけばいいじゃないか。

 僕は、今までの彼女のことをぼんやりと回想していた。

 向岸(むこうぎし)ねねは変わった少女だ。

 まず、名前が変わっている。「向岸」とは、どの岸のことだろう? 名前は地名や家系を表すことが多いから、彼女は川岸にでも住んでいたのかもしれない。ならばこっちの岸にいた人は、なんという名前なのだろう?

「ねね」という平仮名の単調な響きの名前も、そんなに多くないはずだ。女の子にしては、ちょっと古臭くて単調だ。彼女の両親は、どんな思いで彼女に名前を与えたのか?

彼女は、性格も同世代の子たちとは違っている。

超が付く程人見知りで、知らない人が近づくと我を忘れて騒ぎ出す。僕も彼女と当初知り合った時は、まともに会話すらできなかった。彼女と少し仲良くなった今なら、彼女も多少僕の会話に付き合ってくれる。

 彼女の目は、純粋な目をしている。彼女は僕と話すとき、僕の瞳を真っ直ぐ見つめるのだ。普段からそういう習慣がついているらしい。僕は彼女にまっすぐ視線向けられると、心のどこかがざわついてしまう。無意識的に恐怖を感じてしまう。目は心の窓と言うが、彼女の真っ黒で大きな真珠のような目を見ていると、彼女の中の何かが僕の中に流れ込んでくるような感じがする。

 僕はそれが恐いのだ。彼女の純粋さが僕の胸に流れ込んで来れば、僕と言う存在が変えられてしまうような気がする。現実を悲観する卑屈な自分を否定されているような気持ちになる。無理やり人生の表舞台に引っ張り出されはしないか、という恐怖を感じる。だから居心地が悪いのだ。

 彼女の瞳は、僕の心の「陰」の部分に光を当てようとする。別に彼女が意図的にそうしているわけではなくて、彼女の目つきや存在が、僕の心の中の陰気な部分を照らし出してしまうような感じがする。そして、僕はそんな彼女と真正面から目を合わせられるほど、立派な精神など持ってはいないのだろう。

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