第2話 ゾンビと少女と預金通帳(11)

楓さんはもうかれこれ三日三晩自分の病室に閉じこもって娘への手紙を書いている。

 四〇〇字詰の原稿用紙では枚数が膨大になってしまうからと便箋に番号を振りながら、飽きることなくひたすら筆を走らせる。

 僕が昼時に彼のところを訪ねた時も、彼は相変わらず自分の作業に没頭していた。

書いては時たま筆を止めてちょっと考える。何かを思い出すかのようにまた筆を走らせていた。

 彼の書いた字はくせがなく流麗で、便箋で書くとその美しさがよく分かった。字が汚いことを自負している僕であるが、彼の字は習字の手本にしたいと思えるくらいだった。

鉛筆は使わず、病院のコンビニで買ってきた五〇〇円の安い万年筆もどきを使っている。楓さんはほとんど文字を書き損じることがない。そんな楓さんを見て、彼が間違ってももうやり直しがきかない、と自分に言い聞かせているように思えた。

 暖房が効いてはいるが、病室は決して温かくはない。しかし楓さんの額には時折、汗の雫が垂れた。

それを見て僕は悟った。楓さんは物を書くということに全精力を傾けている。命を削っている。体の上に何か空気が淀んでいるような気がする。彼のエネルギーが充満して、彼の上空で渦巻くような感じを与えている。彼から発せられる気が部屋を満たし、この部屋の空間を支配している。

「楓さん……」

 僕は、ひたすら筆を走らせる彼に呼び掛けてみた。

しかし反応はない。

しばらくして楓さんがちらとこちらを見て、僕に気づいた。。

「おお、荒巻か。どうだ、出来栄えは! 」

 そう言って僕に書き溜めた原稿を無造作に上から何枚か掴んで手渡した。

「……すごいですよ、楓さん! 

僕は本をあまり読まないけど、文章の一つ一つの表現がエネルギーに満ちている。こんな力の籠もった文章、普通じゃ絶対かけないですよ! 」

 僕はやや興奮気味にそう話した。

目の前の楓さんの、まるで志気に燃える武者のような力強い雰囲気も相まって、文章がイメージではなく実感として伝わってくるようだ。

「……わしはこうして筆を走らせている間にも、自分の身体が死に向かって重くなっていくのを感じる。わしはもうじき暗闇の世界に引きずり込まれるだろう。

……それなのに、わしの心の中の光はますます強くなっていく!

今までいろいろなものに埋もれた光が、今までの人生を伴ってわしを導いてくれる。わしは早くこの事業を終わらせよう。わしにとっては一つの命を懸けた事業を完成するのに、一本のボールペンと紙さえあれば十分なんだ! 」

 そう言って楓さんはまた視線を紙に落とした。

 ……かっけー! まじかっけー! 楓さんの言ってること、文学的で理解できないけど、とにかくかっけー!

僕はそう思った。

「わたしは今まで死んでいたのかもしれん。

 失うものの多さを恐れて、自分をさらけ出せずに生きてきた。

しかし今、わしは呼吸をし、自分の命である時間を使ってものを残していく。わしが作ったものが大層優れたものとは思わんよ。しかし伝える価値のあるものだ。わしと同じ過ちを繰り返すものがもう出ないように! もう目の前の愚かしいしがらみ達で来たる世代の若者たちが路頭に迷わなくて良いように! わたしは残すよ! この男の愚かしい一生を! 一抹の寂しさを残したわしの人生の記録を!

 この世にいかに本が溢れていても、この世にいかに情報が溢れていても、いくらかの人はわしの記録に目をやってくれるだろう。ますます混迷していく未来における、確かな方位磁針は我々の中にすでに備わっていることを悟ってくれるだろうよ。どれだけモノに溢れようと、どれだけ情報が行きかおうと、争いの中でさえも重要なものは太古の昔から何一つ変わらないさ! わずかなパンと、寝床と、身にまとう布、そして未来を展望する己の中の意志なのだ!

 こうして自分の中に生れ出たものを記録に残す、この作業によってわしの愚かな一生は救済される。わしの寂しさは何倍もの未来への希望として残る。それを展望して、わしは救済されるんだ! 」

 楓さんの力強い声が部屋に響く。

まるで政治家の演説のような、震える力強い語りだった。その力強さは僕を圧倒することなく、むしろ僕の中の情熱を奮い起こすようだった。

 白織が僕にやってほしかったことは、実はこういうことなのかもしれない。

誰かの限りある一生の中で与えられた本分を、本人に代わって気づかせてあげること。誰かの心の中にある、消えかかった蝋燭の火を見つけ出してあげること。その小さな火が大きくなるように大切にしてあげること。

 それができればたとえその人が志半ばに倒れても、その人は救われる。真に生きるということを実感できる。人生は、その輝きの瞬間を掴むためにあるんじゃないのかな?

 楓さんが危篤に陥る前夜は、楓さんにとっても僕にとっても、不思議と悲しさを感じさせない夜だった。

夜、静かになった病室で楓さんはベットに横になっていた。腕には注射針が打ち込まれ、点滴がされている。

楓さんの余命は明日にでも尽きるのに、楓さんにはある種の底ぬけた明るさがあった。楓さんは僕の前で、最後に話を聞かせてくれた。病室に駆けつけていた僕と葉菜は、二人で彼の話に耳を傾けた。

「荒巻、わしはもうすぐ、死ぬな」

「ええ、そうですね。……残念です」

「ああ、わしも死にたくない。

やっと……やっと、自分の本当の居場所を思い出せたのに。時間が許すなら、もっと、もっと、やりたいことをやりたかった。まだまだわしには、後の世代に伝えんと気が済まんことが残ってるのにな……」

 楓さんはそういうと、瞳から涙を滲ませた。それは筋となって、皺だらけの頬を流れて行った。楓さんは、鼻をずずっと啜って、点滴の付いた腕で僕の手をがっしり掴んだ。

その手はとても暖かかった。

「……ありがとう、荒巻、それと、おねえさん。わしはもう随分人生の迷路に迷い込んでいた。

若い頃の情熱は、確かに誰にでもあるのかもしれん。しかし歳を経るごとに社会から役割を与えられ、その役を務めよう務めようとするうちに、大切なものまで忘れてしまっていた。

それは誰だって同じなんだよ。

ある人は社長、ある人は部長、ある人は医者、ある人はお父さん、ある人はフリーター、ある人は母親。そうやって、皆何かを演じながら生きている。わしもそれを果たそうとし、それを果たすことで何者かに必要とされるように生きてきた。いつしか自分がそれを演じていることも忘れてしまっていた。

 しかしね、それは決して悲観するようなことじゃないんだぞ。お前は私の生き方を、憐れむか? そんな風に生きたくないと、そう思うか? もっと自由に生きたい、ありのままに生きたいと?

 子供の頃の自分を忘れなければ、人はいつだって昔に戻れる。社会の中で何者かを演じなくてはいけない時でも、少年時代のもう一人の自分を思い出すことができれば、私たちは決して一人ぼっちになったりなんかしないんだ。

 時代の波が、技術の革新が、人の意志が、世界を変えていったとしても、昔の自分を忘れなければ人はいつだって一人じゃない。たとえ社会から名誉を奪われようとも、大切な何者かに裏切られようとも、『型』にはめられていく時でもそうなのさ。

 わしももう随分と世間からの要請に応え続けてきた。それは生き方として、至極もっともさね。でも、それが自分の全てだとは思わないことだ。ありのままの自分こそ、本当の自分だと知っているべきさ」

 楓さんはそう言うと、にやっと笑った。

僕は、六〇近くのおじさんがこんな表情をするのを、初めて見た。まるで小学生が、いたずらをする時のような笑い方だった。視線はまっすぐ僕を見つめ、何か悪くて楽しいことを企んでいるみたいだ。

「心配するな、若者たち。

わしの生きてきた四〇年間より、お前たちの生きる四〇年間の方が、ずっと良くなる。わしが保証する。科学技術が世界の発展を急速に進め、世界は今までの方向から新しい方向へ模索をしている。人は今の世を、混迷しているというな。

 しかし、困った時は笑うんだ。困ったら、できるだけ大きな声で笑うんだ。辛ければ、力なく笑えばいい。困った状況を、笑って、笑って、そうやっておれば道は開けてくる。こんな便利な世の中なんだ、いちいち目の前のことに絶望していたら埒が明かないぞ?

いいか、笑うんだ。そうやって毎日、楽しく生きろ。悲しい時だって、辛い時だって、顔だけは笑っておればよい。そうすればそのうち良くなるさ。いいな、若いお二人さん?ありのままの自分を大事に生きるんだぞ」

 楓さんはそういって、笑い顔を作って見せた。僕はなぜか、悲しい気持ちになった。

 楓さん、亡くなった後

 僕は、まだ続く冬の空を見ていた。一人、病院の屋上にいる。

 星は美しい。宇宙や星の寿命に比べて僕たち人間一人に与えられた人生は本当に短い。蝋燭は消えかかる瞬間、ぱっと強くなる。でも星たちに取ったら僕たちの寿命はその一瞬の煌めきだけかもしれない。

そんな儚い一生で自己実現を図るという思考を人類は獲得してしまった。それは自分は何のために生まれたのか問い続けなくてはならないという不幸を人間に与えた。

人間はそういう罰を負わされて生まれてきた。

その回答を自分なりに見つけ出し、救われた人もいる。僕ももうすぐ社会に出る。僕はその中で回答を見つけ出すことが出来るのか。それとも迷い続けるだけで終わるのか。

 考えるだけで恐くなった。

「さて……」

 僕は、手元のどっさりと原稿用紙の入った封筒に目をやった。

 僕にはまだやることがある。

この原稿用紙を三つ刷り、それぞれを指定された場所に運ぶことだ。

一つは、出版社。ここに書かれたものを持ち込んで、本に出来ないか交渉する。僕は、いきなり一社で決まることはありえないだろうと思っていた。地道に、本にしてくれるところを探すしかない。すべて断られたら、新人賞に応募しよう。もっとも、もう続編が出ることは二度と無い作品なんだけれど。僕が見た限りでは、きっとどこかが採用してくれるように思う。それくらいに、この作品には力があった。

 もう一部は、娘さんのところへ。楓さんの娘は現在社会人だが、まだ奥さんの実家で暮らしているという。僕が直に行くことは気が引けるけど、やるしかないだろう。楓さんがこの作品を一番読んでほしいのは、娘さんたちなんだから。

 そしてもう一部は、楓さんの棺に入れる。楓さんの身体と一緒に灰になって、天に昇っていく。それがこの作品に贈られるのに、もっともふさわしい勲章のような気がするのだった。

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