第2話 ゾンビと少女と預金通帳(10)
それよりも、楓さんの言葉にやけに善人ぶったところがあるように思った。僕の考えでは、人間はそんなに強い存在ではない。誰かに必要とされなければ、すぐに自分を見失うほど弱い存在。それが人間なのだ。
僕は楓さんの言葉にだんだん不愉快を感じてきた。楓さんに、もっと本音を言って欲しい。社会や家族のためではない、楓さん自身のための幸せの話をしてほしい。
「ありていですね」
僕は気付いたら突拍子もない言葉を言っていた。
楓さんははっとしたようにこっちに首を向けた。
「娘さんを支える誇りは立派だと思います。でも僕にはあなたの気持ちが理解できないんです。それであなたはどうしたかったんですか? 」
楓さんの眉が怒りで一瞬顰められた。しかしもう一人の自分が顔を出したようで、すぐに元に戻った。
「わしがどうしたい?」
「あなたが娘さんを幸せにしたかったのは分かったんです! 十分理解できました! じゃあ、あなたがあなた自身の幸せのために、何をしてきたんですか! 」
僕は気付いたら立ち止まっていた。楓さんもつられて足を止めた。彼の目は僕の目をまっすぐ見据えていた。その顔には驚きが刻まれていた。
僕は我を忘れて、畳み掛けていた。
「まさかあなたは自分の人生を犠牲にしてきたつもりなんですか? 他人の幸せなんかを願って、自分を誤魔化したんですか? 現実の被害者のふりをしたんですか? 」
深く息を吸って、僕は楓さんに怒鳴った。
「じゃあ、当然の報いですよ! 自分のために何もできないなんて、それじゃあ会社にも家族にも食いつぶされて当然だ! そうやって人のために何かすればきっと良いことが自分にも起きるはずだ、なんて考えていたんじゃないですか? そんな甘えた考えで生きてきたんじゃないですか? 」
僕の頬にげんこつがぶつかった。
僕は不意を突かれてよろけて倒れかけたが、なんとかバランスを立て直した。
楓さんの顔は今までにないくらいに怒りに歪んでいた。
僕の中の冷静な部分が、「当然だ」と言っている。僕は楓さんの人生を否定したんだから。
「やかましい! お前に会社員の何が分かる! ろくに働いたこともない癖しやがって、青二才が抜かすな! 」
あまりの権幕の激しさに僕の体内に冷ややかな感触が駆け抜ける。しかし僕ももう引き下がれなかった。
「青二才じゃ、何か言っちゃだめなのか! 何度でも抜かしてやる! 会社ゾンビめ! 何が娘のためだ、会社のためだ! 誤魔化して逃げてきた奴が今更古臭い説教をするんじゃねえ! 」
「うがああああああああ! 」
楓さんが拳を振り上げて突っ込んできた。しかし僕は逃げずに正面からそれを迎え撃つ。
「うああああああああ! 」
最初に楓さんの拳が僕の頬を抉り、次に僕の拳は楓さんの鼻の頭を掠めた。
僕は今度こそよろけて地面に膝をついた。痛みが沸き起こると同時に口の中いっぱいに血の味が広がった。
気持ち悪い。吐きそうだ。
一方楓さんも身体を屈めてからまた起こす。鼻の頭が少し歪んで、血が流れて病院着を真っ黒に汚していた。
今度は僕の方から跳びかかった。
楓さんを押し倒すと、馬乗りになって拳を振り上げた。
もう僕の頭に冷静な部分は無かった。完全にハイな状態になっていた。
楓さんの頬に気持ち良く右ストレートがヒットした。楓さんの顔が左向きにはじき飛ぶ。僕は今度は左手で殴りながら言った。左の頬骨が拳にあたり、嫌な感触が腕に残った。
「なにが! 娘のためだ! 会社のためだ! 僕は!そんなあんたみたいには! 」
数回目の左の拳を振り上げた。楓さんの顔は腫れていた。目はとろんとしていた。しかし容赦は出来なかった。
「ぜったいなりたくない!」
そう言うとまた一撃喰らわせた。楓さんの顔には、もう変化が無かった。
僕はその腫れあがった顔を見ながらハアハアと肩で息をしていた。
僕が気を緩めたその時、急に楓さんの目がかっと開かれた。気づくと僕の横顔にすさまじい衝撃が襲ってきた。
「う……ぐう……」
僕は頭を抑えて地面を転がりまわった。今までで一番痛かった。
僕が顔を上げないうちに、襟元をぐいっと掴まれた。僕は楓さんの顔をぼんやりと見つめて思った。
ああ、殺されるかもしれない、と。
すさまじい衝撃が左の頬をぶった。何もないはずの口の中から何かが出てきた。歯がこぼれたのかな?
そしてまた何発も何発も、楓さんは僕の頬を殴った。何回も、何回も。何か叫んでいるけど聞き取れなかった。僕はもう途中から考えるのを止めていた。口の中に鉄の味がにじむ。痛みが噴出しかける時、また打撃が僕の顔を襲った。
途中から、痛みもなくなった。
しばらくして、僕をぶつ彼の腕の力が弱くなっているように思った。衝撃が弱まると、今までの痛みと口いっぱいの血の味が甦ってきた。
最悪の気分だ。
気づくと、楓さんは僕の襟を掴んだまま泣いていた。顔を歪ませながら、顔を皺くちゃにゆがめながら泣いていた。拳には力が入らなくなり、僕をぶつのも止めた。僕を掴む腕の力も弱くなり、僕は放されて尻餅をついた。
楓さんは、顔を涙と血と鼻水で歪めて泣いた。小学生のように、恥も外聞もなく顔を冷たい地面と腕の間にうずめて、ボロボロと泣いていた。
しわがれた、擦り切れるような大きな声が夜の森に響いた。
彼にはもう僕を殴る気力がないのだ。もうじき終わる自分の命を前にして、今までのように現実を突きつけられて絶望している。自分の誇りにしていた娘に対して、自分が心の底では無力感をかんじていたこと、本人が一番よく分かっているんじゃないだろうか。
自分が自分にとっても他人にとっても無力だったと、本人が分かっているんじゃないだろうか。楓さんがこんなにも泣く理由が、この時の僕には分からなかった。
でも僕はこの時悟った。僕はこの人の心の支えをへし折ったのだ。
僕と楓さんは、それから数日間、謹慎処分を食らった。
血まみれになって帰ってきた僕と楓さんを最初に見つけたのは若い女性の看護師で、いきなり悲鳴を上げられてしまった。
僕は、歩く気力も立つ気力も失くした楓さんの右腕を肩にかけて、彼を病院内へ運んで行った。
明るい場所に戻ると冷静な思考がいくらか戻った。病院着は血でべっとりだと思っていたが、ところどころに血が跳ねているだけだったので安心した。よく考えれば、僕も楓さんもろくに筋トレも運動もやっていないのだ。本気で殴り合ったって、互いに大けがなんて負わせられることもない。
若い看護師は僕たちに構う前にナースセンターにすっ飛んで行き、僕は楓さんを支えたまましばらく立ち尽くす羽目になった。さっき講習をしていた中根さんを含めて五名の看護師たちが駆けてきて、僕らを取り囲んだ。
僕は楓さんを看護師に預けると、身体の力が急に抜けた。ふらっとしたところを、看護師に支えられた。
僕はなんで、こんなふわっとした気分なんだろうか? よく分からない。
気力を失くした楓さんは看護師によって部屋へ運ばれていった。まだ意識のあった僕は、看護師たちから、何があった、と聞かれた。
僕は楓さんと口論になり、それがエスカレートしてなぐり合ったと正直に説明した。細かい事情は言わなかった。看護師には、つまらないことで喧嘩したのだと伝えておいた。
周りからは、呆れたため息が漏れてくる。僕は、本当のことを話したって理解されないだろうという見込みは正解だったと思った。ここにいる看護師の人々にはまだまだ時間がある。今から自分の生き方を真剣に、一切の妥協なく作っていこうという人は、きっといないだろう。
彼女たちは、それでいいのだ。そうやって、いつまでも来るような明日を待っていればいい。ただ楓さんには、いや楓さんと僕にはその明日がちょっと危ういものになりつつある。だから心底本気に今日を生きなくてはいけないだけなのだ。
目の前に中根さんが立っていた。僕は彼女が苦手なので、目線を彼女に向けないようにして通り過ぎようとした。
その時、中根さんが口を開いた。
「アンタ、楓さんに何したんだい? 」
中根さんの声はやけに平坦で、不気味な感じがした。
僕はぶっきらぼうに答えた。
「別に、ケンカしただけですよ。それで、口論がエスカレートして、ちょっと暴力沙汰になったんです」
僕は話の初めから終わりまで、中根さんを見なかった、否、看護師を誰も見ていなかった。
この人たちに楓さんの気持ちは分からない。楓さんの苦悩や苦しみになんの興味も無いはずだ。なら、相手にするだけ無駄だ。
僕だって楓さんの苦しみをこれっぽっちも分かっていない。どうしても、分かってあげられない。だから余計にやりきれないのだ。
僕は楓さんを、救えない。
「……」
中根さんが何か言いたげな様子でいる気がした。僕に向けて、罵声か、説教か、あるいはそれ以外か、何かを言おうとしている。
一瞬、不自然な間が開いた。そして中根さんから出た言葉は、意外なものだった。
「私から楓さんの先生には伝えておく。あんたはさっさと休んでけがを治しなさい。あと数日たったら、また楓さんに会いにいってあげて」
「え……? 」
今まで厳しかった中根さんから出た言葉に、僕は意表を突かれてしまった。
「楓さん、余命一週間だって、先生が今日おっしゃったわ。本人には、体調が回復次第すぐに伝える。
楓さん、あんたがいないとダメだからね。今日はケンカしたけど、また仲直りしてあげて」
僕はその時初めて中根さんの顔を見た。中根さんはいつもの強気な顔をしていなかった。どこか寂しそうな顔をしていた。
「あんたしか、楓さんのこと助けてあげられる人、いないのよ」
僕はこの時の言葉を、きっと一生忘れることはないと思った。
数日後、僕は楓さんのところに改めて伺った。楓さんにどやされたり、どなられたりする心配はあった。しかし楓さんの最期までの時間、中根さんの言葉を思い出すと、彼の病室に足を運ばずにはいられなかった。
楓さんは病室で、顔中に湿布を貼って窓の外の山の景色を見ていた。楓さんは僕に、初めて自分の人生を語ってくれた。
その日の昼下がりは、珍しく温かい日差しが部屋に差してきた。
楓さんは前方に目をやってぼんやりしている。その姿は、普段の彼を知っている僕にはあまりに無防備なように見えた。何も構えない、諦めきったような、無表情をしていた。
窓は閉め切ってある。同室の住人達は現在はどこかへ行ったらしい。入口も遠いせいだろう。壁に掛けてある時計が、カチカチと規則的に時間を刻む音だけが部屋に響いた。
楓さんは眉一つ動かさず、つぶやくように話し出した。
「……昔、本当に昔だ。もう四〇年以上前に、わしは恋をした。
……恋といっても、女にではない。ましてや男でもない。あるエッセイに激しく心を打たれたのだ。作家は、もう名前も思い出せない。とにかく、彼の書いた文章が自分の心の琴線とシンクロしたようだった。
「うれしかったな……。青春期の孤独と不安に苦しむわしに、彼は勇気を与えてくれた。わしはその日から、彼のような作家になりたいと思ったんじゃ。自分の行いがどんなに小さくても、どんなに醜くてもいい。誰かの心を癒すことがしたかったんじゃ。家族が寝静まる頃、わしは机に向かって作品を書き続けた。エッセイ、小説、文学、なんでもトライしてみた。
当時のわしには、なんにだってなれそうな気がしていた。
わしは、文筆に恋していたんじゃ。拙い筆で、未熟な思いを形にしようと必死だった。そしていつか、文筆の女神に微笑んでもらいたい。そう、強く願ったんじゃ。
「大学に入っても、わしは筆を止めなかった。アルバイトも学業もそれなりに大変だったが、未来の自分を信じておった。そうだ、あのころのわしは若い情熱に溢れとった。
大学も終わりに近づき、就職活動を始めたころじゃった。わしの大学は自分で言うのもなんだが、優秀な大学じゃった。だから引く手も数多じゃった。わしの心に、一つの変化が起きていた。
「きっかけは、大学のOBでメガバンク勤務の先輩から言われたことじゃった。
わしの大学ほどの知名度があれば、きっと出世コースを進み素晴らしい人生が歩める。そのためには、やるべきことがまだまだある。そう言って、わしにたくさんの資格について紹介してくれた。
出世することがどう素晴らしい人生に繋がるかは、今思えばよく分からなかった。きっとそれは、出世が個人の幸せにつながると言う世間の空気みたいなものだったのかもしれん。
わしは、悩んださ。このまま文筆家を目指していけば、確実に出世コースから外されるだろう。かといって、このまま当てもなく文筆を続けて行って自分は良いのだろうか。
わしはお金が欲しかった。大きい家にも住みたかった。外車も欲しかった。
いや、それらは全部表面的な気持ちで、わしは常識を逸した道を突き進むだけの勇気が無かった。
わしはその時、文筆を続ける煩わしさを放棄した。自分が大切にしてきたものを、金ともので誤魔化したんじゃ。しかし当時のわしは自分を誤魔化していることにも気づけなかった。自分はエゴなど追求せず、世のため人のために立派に役立てる人間になるのだと自分に言い聞かせた。
会社に入った後は、熾烈な出世競争に飛び込んだ。
出世のためなら面倒な取引先とも付き合ったし、少しは汚いことでもしたんじゃ。いつしかわしには、名誉と報酬以外、何ものも見えなくなっていた。日々苦しい競争に晒されていることが、名誉と金への執着心をどんどん強くしていった。
そのくせ『社会のためだ』と自分を誤魔化していたんじゃから、酔狂もいいところじゃ。確かまわりも、一流大学から選ばれネームバリューで会社を選んだ奴ばかりだったと思う。当時は、自分の不自然さに気づけなかった。
家庭にかまう時間がないと言って、家には夜にしか戻らなかった。娘たちと口を聞く時間をつくる努力もしなかった。妻の言うことはみんな愚痴だと切り捨てた。わしはそんなくだらない愚痴より、家族や社会を支えていくことが大切だと思い込んでいた。
それなのに、娘たちへの贈り物は一際豪勢なものだった。外国の一流メーカーから大きなクマのぬいぐるみを取り寄せたこともある。
しかし娘は一度だって、嬉しそうな顔をしてはくれなかった。何かを我慢するように、わしの顔をじっと見つめていた。それで何かを訴えているようだった。わしには娘の気持ちが理解できなかった。理解したくなかった。毎日、こんな立派な家に住んで、普通の人よりはるかに上等なものを食べ、世話係までいるのに何が不満なんだろう。
わしはそれ以上家族について考えるのを止めた。ビジネスの世界は今日も世界中変動しているのじゃ。わしにはまだまだ解決しなければならん問題も、考えなくてはならん経営戦略も、対処しなくてはいけないトラブルもあった。面倒を見てもらっているだけでも感謝しろと言ってやりたかった。
わしは四〇後半でいよいよ役員に上り詰め、あと一歩で社長の座を狙える位置についたところだった。わしの野望まで、あと一歩というところだった。
その時、アメリカの投資銀行が破綻した。不景気の波が世界中を覆いかぶさった。わが社もその波をもろに食らい、大量のリストラを迫られた。結果、わしは蹴落とされ、入社以来のライバルが社長の座に就いた。そいつは大層な額の退職金をわしの前に積んで見せた。そして、わしを『早期退職』においやったんじゃ。
わしは、これから暮らしていくだけなら困らなんだ。世話係を雇うほどの余裕はなくなったにせよ、わしの家には広い敷地と外車、外国製の家具が並べ置かれていた。
最初は妻は、わしがやっと家庭に気をまわしてくれるのだろうと思ったらしい。わしの前で、会社を辞めてよかったとしきりに言った。
しかし、わしには会社と同期が憎くて堪らなかった。
もう少しで権力の頂点に上り詰めることができた。そうすれば日本の経済界に名を残すことだってできたかもしれん。わしの今までの血のにじむ苦労が、やっと報われるんじゃ。家族はそんな父の偉業を見て、わしを心底尊敬するに違いない、いやそうするべきなんだ!
わしはそれから毎日、酒に身を委ねて嫌なことを忘れようとした。目障りなものには人でもモノでも当り散らしたこともある。そうすればわしの中のもやは晴れ、家族を愛する理想的な父親に戻れる予定だった。
それなのに、何かに当たればあたるほど空しさは募った。当り散らすほどわしの心は不愉快になり、酒を飲むほど心の感覚はマヒしていった。そんなわしを見て、成人した娘たちは昔と変わらない冷たい顔をしていた。何かを我慢して、何かを訴えたそうな顔を崩さなかった。その顔を見た瞬間、わしの心はいままでにないくらいに、恐怖と混乱で一杯になった。わしは慌てて娘たちから目をそむけた。
わしの心は冷たい恐怖と孤独に苛まれていった。このままでは家族にも受け入れられなくなってしまう予感がした。彼女や妻には必死に弁明したかった。謝りたかった。それなのに、どうすればそんなことが出来るのか分からなかった。具体的な方法をネットや本で調べてみても、こんな青臭いことが言えるか、ともう一人の自分が耳元で囁いた……。今までは、会社の部下たちから毎日、ぺこぺこと頭を下げられていたんじゃ。わしが妻や娘相手に頭を下げるなんて、わしの誇りに掛けてあってはならんことだ、ともう一人の自分がわしの内側で叫んでいた。
結局、ある朝、家族は消えていた。今のテーブルにボールペンで、二、三行のメッセージが書かれていただけだった。こんなわし相手に、「今までありがとう」と書いていた。
家族は家のモノも財産も、何一つ持っていかなかった。それなのにわしは、ここの財産全てを持って行ってくれたらどれだけよかったかと思った。わしだけ追い出してくれても良かった。それなのにすべてを残した家族の思いやりが、わしのこころを締め上げた。
わしはしばらく部屋でぼうっとしていた。みるみる体はやせ細り、体力もなくした。癌が進行していたと分かったのは、それから精神病患者として搬送されたこの病院でのことじゃった。
しかしわしの心はとうに死んでおったのかもしれん。金と名誉を無性に欲しがり、若き日の自分の大切なものを手放してしまった時、わしはもうしがらみにとらわれるだけの人間に成り下がっていた。だからたとえ自分がいつ死のうが、わしには関係なかったのかもしれん。荒巻、お前があの夜に言ったことは正しかったよ。わしは娘のためなんかじゃない、自分の保身のために生きてきた。
でもな、間違いもある。わしは本気で、娘たちのためなら自分の全てを捧げていいと思っていた。この気持ちだけは、嘘偽りのない本物なんじゃ」
楓さんはそう言うと、ふぅっと息を吐いた。彼の瞳から、痩せこけた頬に、涙の雫が一粒流れた。それは皺のせいで肌にしみて消えていった。
その顔にはもう以前のような逆鱗のある楓さんの面影はなかった。自分の存在の小ささ、そしてありのままの気持ちを受け入れた顔つきをしていた。心のしこりをすっきりそんまま吐き出せたような、どこかやり遂げた満足感も漂っていた。
僕はその顔が、なぜか彼の表情でもっとも美しいものと感じた。
その後の楓さんについて、僕は一部始終を語らなくてはいけないだろう。
楓さんはもう満足した顔をしていたが、僕はあえて彼に手紙を書くように勧めた。
楓さんが本当に娘さんのことを大切に思うのなら、自分の気持ちを素直に伝えたらどうかと思ったのだ。自分の娘さんへの思いやり、素直になれずにずっと苦しんでいたこと、楓さんも家族を守るために必死だったこと、すべてをありのままに伝えたらいいと思ったのだ。
そして、もし楓さんのような気持ちになっている人がいたら、その人を助け出すためにも、彼の思いを伝える必要があると思うのだ。そうして二度と同じ苦しみを味わう人がいないようにすればいい。
楓さんは、僕の提案を最初聞いた時は戸惑っていた。
「いや、もう文筆を止めてずいぶん時間が経っておるし……」というのが、楓さんの言い分だった。しかし僕が必死の説得を試みたところ、納得はしていないが一応承諾してくれた。そして彼は手紙を書き出した。
最初ぎこちない筆運びをしていたが、次第に昔のリズムを取り戻すと一気にのめり込んでいった。番号を振った便箋を前にして、楓さんは一瞬も目線を紙面から離さず筆を走らせていた。バイトをしたり手話教室に行った時も、彼はどこか世間のルールを気にしていたりふんぞり返っていることがあった。しかし今、この時の楓さんは今までとはまったく違っていた。必死に、百パーセント挑戦者として、文筆に集中していた。
僕はその姿に、若い頃の楓さんの姿を見るようだった。
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