第2話 ゾンビと少女と預金通帳(9)

水曜日の夜一八時半ごろに、僕は楓さんを回収してB棟へ向かった。

手話講座は一九時から二〇時までの一時間のみ。今回が初回であり、この先毎週水曜日に行う予定らしい。

僕たちがC棟の会議室に行くと、主に年配の患者の方々が並べられた机の前の方を独占していた。そして何やら世間話をするもの、話にあぶれてぼうっとしている者、腕に点滴をつないだままの車いすで、机に横づけにしたまま目をつぶっている者がいた。

僕がよくいくB棟の休憩所でも、こういった光景はしょっちゅう見られた。

ここに居る人は大抵時間を持て余している。特に高齢の人々は、変な気遣いもないみたいで同世代の人とゆるい友好関係を築いている。もちろん例外もいるわけだが、一般的な傾向がこの教室でも再現されているということだ。

僕たちはその人たちを横目に、ちょっと離れた後ろの席に座った。楓さんの顔を見ると、ここに連れてこられたことがまだ不本意らしい。顔は不機嫌そうだった。ちなみに楓さんは、目の前のコミュニティに参加するには、ちょっと若すぎた。楓さんくらいの世代の人は、この病院ではあまり見かけないのだ。

病院の安っぽい昼白色の蛍光灯の会議室のドアがガラガラと開いた。先生が来たらしい。

僕は手話講師の顔を見て、顔をしかめた。楓さんと関わりだした頃、僕を叱った中年女性の看護師だった。

中年太り気味なのが、看護師服の上からでもはっきり分かるくらいにお腹周りが出ていた。背は僕くらいだから、一六五センチくらいか。頭には看護師用の帽子を被っている。そして躍動感のある、強めのパーのかかったセミロングの髪が後ろで纏められている。赤い四角のメガネフレーム越しの目は、見る者に威圧感を与える。少なくとも僕には威圧感を与えるに十分な眼力があった。

中年女性は全体を見回した。僕と楓さんがいることも目に入ったろうが、別に気にも留めるふうではなく、講義を始めた。

「みなさん、こんばんは」

こんにばんはー、とややバイタリティに難ありの聴衆の返事が返ってきた。中年女性は気にせず続ける。

「今回インストラクターを務めます、中根です。みなさん、暇つぶしでいらっしゃったんでしょうけど、よそ事のできないくらいに手抜かりの無い指導をするつもりですので、よろしくお願いします」

僕は中根さんという中年女性の話を聞いて、なんだか違和感を感じた。そしてその予感は、みごとに的中した。

それから一〇分後には、教室の様子は一変していた。

「はい、それじゃ気持ち伝わんない!もっと相手の目を見て!こら、瞬きしない!」

 僕は中根さんに怒鳴られて、仕方なく目の前の優しそうな年配の婦人を見つめた。僕は、人の目をまっすぐ見るのが苦手だ。なんだか照れくさいし、見つめようとすればするほど目がしょぼしょぼして疲れてしまう。目の前の婦人も、中根さんの体育会系の指導にしどろもどろしていた。

手話講座一回目は、まず基礎中の基礎の習得。手話をするとき大切なのは、手振りもさることながら目線と表情だった。相手の目をしっかり見た上で、感情を交えて表現する。手だけ動かせば良いように思い込んでいたが、実は大間違いだった。実際は全身を使ったコミュニケーションだった。

僕は目を見て話す習慣が十分ついていたとは言い難く、表情も悲しいくらいに固かった。笑顔を作ろうとしても、口の片端が引きつってしまって笑えない。そこを中根さんに容赦なく指摘されるものだから、余計に萎えてしまって表情が硬くなった。

僕は困り果てて、一つ向こうで例の車いすの人と向き合っている楓さんを見た。

彼は、にこやかな笑顔が作れていた。政治家がするような、知性と品位を醸し出すような笑顔だった。

「楓さん、すげー…」

僕の口から、思わずそんな声が漏れた。すると中根さんから声が飛んできた。

「ちょっと、荒巻さん?よそ見しないで!ほら、にー!にー!」

中根さんはそう言って、僕の両頬を摘まんで横に引っ張った。

「うー!うひー!」

僕の口から、悲鳴にならない声が漏れた。中根さんの指はがっしりと僕の両頬を掴んでいて、頬は全く動かせない。

「ほら、伊藤さん!あなたももっと、この人の目を見るのよ!」

中根さんはそう言うと、目の前の婦人へ目を向けた。それだけで伊藤さんと呼ばれた彼女は驚いて、「はっはい!」と言った。これでは老人いびりだ。

「ほら、荒巻さん!あなた、それでも今年五月の青少年手話全国大会に出場する気あるの?」

まてよ、いつから僕はそんな行事に出ることになったんだ。

「ほら、目は心の窓って言うでしょ!社会と心の窓は、いつだって開けておかなくちゃ!」

社会の窓って、ズボンのチャックのことだろう。このおばさん、何か勘違いしている。

「そう、スマイル!もっと!でなきゃ、競合校にはすぐ置いていかれるわ!」

手話大会などで、一体何を競合するというのだろうか。よく分からない。

「さあ、もう一回!」

「ひえー!」

 結局、この日中根さんからは今日の復習用と次回の予習用トレーニングが課された。周りを見渡せば、こんなしごき方をされたのは僕だけみたいだった。伊藤さんというご婦人も中根さんにはしごかれたが、宿題は課されなかったらしい。

中根さんは、何を考えているんだろう?

講座が終わると、みんなそれぞれに席を立って帰りだした。僕は徒労感と理不尽さを引きずってはいたが、今日の本番はこれからと気力を奮い立たせた。そして楓さんのところへ行った。

「楓さん、どうでしたか?手話は?」

楓さんは、なんということもなしに僕に言った。

「ふん、まあ暇つぶしくらいにはなったわい」

「気は紛れましたか?」

「さあな。また帰って、考えるだけじゃわい」

「あの、外の月も綺麗ですし、楓さん」

僕は、もう一度小さな勇気を誘って楓さんに言った。

「ちょっとで、いいんです。僕と外に散歩に行きませんか?」

楓さんは無表情で、僕の提案を受け入れた。

「うーん……」

 僕は腕組みして、また考え出した。自分の提案に対する僕の反応が微妙だったので、葉菜さんはふき

 今夜は月の光がひどく強い夜だった。煌々と輝く月のおかげで、病院の横の畦道は街灯なしでも歩けた。

 僕と楓さんは、病院着のまま二人で畦道を下っていく。空気は肌に張り付くような冷たさで僕の身体の表面を撫でつけた。風は無かった。月の光が澄み切った空気を透過している。

森からは何も音がしない。僕はなんだか不思議な気分に陥っていた。まるで自分が澄んだ水の中にいるみたいだった。

 僕たちは何の気なしにぼうっと歩きながら、たまに会話をした。それも大抵は盛り上がらず、すぐに途切れてしまう。そしてその後には必ず静寂が忍び寄ってきた。

「楓さん、」

「なんだ? 」

「なんだかお化けでもでそうな夜ですね」

 僕は冗談のつもりでそう言った。楓さんは前方の道を見ていて、僕を向いて言ってこない。

「そんなもん、出んわい。子供じゃあるまいしのう」

「そうかなあ。僕は子供の頃は、家でもよく怖がってたんだけどなあ」

「うちの娘もな、小さいころはよく怖がっておったな。毎晩トイレに行くときはわしがついていくことになっておった」

 楓さんはそういうと、寂しさを吐き出しように息を吐いた。

「あれも今となっては随分昔のことになったなあ。可愛かった娘ももう社会人や。

わしがまだ勤めておったら、大学のお金も負担してあげられた。わしはな、出来ることなら娘がちゃんと自立できるまでは面倒をみてやりたかったんや。まったく、悪いことをしたな」

 僕は楓さんが家族のことを口にしたのを初めて聞いた。

娘さん、もう社会人だったのか。ということは僕と葉菜さんより年上ということになる。

「わしは会社に勤めることにずっと虚しさを感じておった。

もちろん、今になって気づくことなんだがな。いつもレールの上を必死に走り続けていたような気がする。むしろ、わしら会社員にとってはそれが当たり前だったんだ。

だから会社の方針に異論を唱えることもなかったし、会社のためならモラルに反するようなことも、しなかったわけではない。

 だけどな、娘が生まれた時はうれしかったなあ。女房と一緒に喜び過ぎるくらいに喜んどった。見えない何かと闘う日常の中で、娘がいてくれることはわしの支えだった。だから反抗期になって、ろくに口を聞いてくれなんでも構わんかった。わしが誰かを守っていられる、わしが家族を支えていられる、それが誇りだったんや。

 だから会社をリストラされた時は、心底辛かったなあ。

会社に居場所がなくなるのが辛いんじゃない。家族を守っていけなくなる、無力な自分に成り下がることがとにかく嫌やった。いつも誰かを支えている、そう思えることがわしの誇りやったからな……」

 楓さんの目は遠いどこかに向けられていた。

 それは彼の歩んできたこれまでの道のりを思い出すのか、それとももうすぐこの場所で朽ちていく自分の未来に向けられているのか……。

 僕は楓さんの話を黙って聞いていた。

励ましの言葉も掛けてあげられなかった。僕みたいに誰かを支えたり養ったりした経験のない人間としては、何も言う言葉が見当たらない。どんな僕の言葉も楓さんに向けるにはあまりにも薄っぺらだった。

 僕もいつかは家族を持つのかな。愛する奥さんと、何人かは分からないけど娘や息子。幸せそうな家族は今までたくさん見てきた。どこにでもいる。

それなのに僕はそれに加わりたいと思ったことが無い。自分には幸せすぎるような気もする。そんな幸せが僕の人生に来るなんてこと、まるで想像できなかった。だから娘を持つ楓さんの気持ちも、理解できなかった。

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