第2話 ゾンビと少女と預金通帳(8)
僕は病室で一人、また考えた。
楓さんに直談判するとして、どうすれば彼の本音を聞き出せる環境を作り出せるのだろうか。
病院に押しかける?瑠璃川さんと違って楓さんは、同室の患者さんがいる。楓さんから本音を聞き出すには、あまりふさわしくない。
医者の監視下を離れ、楓さんにアルコールを飲ませる。ぐでんぐでんに酔わせて、本音を吐かせる。しかし楓さんは、飲酒できない状態だったはずだ。僕が彼の病気を悪化させるのに一役買うわけにもいかない。
病室は無理、アルコールは論外、気軽に行ける場所は院内の休憩所か中庭くらいだろう。僕は選択肢の少なさに、この環境を呪いたい気持ちになった。
そうだ、楓さんを散歩に誘うのはどうだろうか。この前に彼の病室を訪ねた時は、楓さんはとても真剣にやり残したことついて考えを巡らしていた。僕が散歩に誘い出せば、きっと答えてくれるのではないだろうか。
僕の脳裏に、葉菜の言葉がよみがえる。
―自分を殺した方が生きやすいことだって多いのよ。
僕は、「悲しいよな」と思った。
居酒屋の経験でも、僕は葉菜の言葉と似たものを感じていた。自分を押える、自分を殺す。そんなことをして生きて行かなくちゃいけないなんて、考えただけでも気だるくなった。自分を殺して生きていくことが人生の真理なら、若き日の情熱はなんのためにあるんだろうか。人はどうして、夢を追いかけようとなんて考えるんだろうか。僕らはどうして、感情なんて持って生まれたんだろうか…。
僕は、楓さんの働いく姿を思い浮かべてみた。スーツを着込み、上司や取引先にはぺこぺこと頭を下げ続ける日々。毎日満員電車に乗り込み、会社で仕事をし、帰りには付き合いたくもない人と出世のために飲みに行く。
その生活に、楽しみや喜びはあるのかな?大人たちはそんなことを平然とこなしていて、悲しくなったりしないんだろうか?本当は心の底から笑えるような毎日を過ごしたいんじゃないのか。少なくとも僕は、そうしたいと思う。でも夢で食べていけるのかな。夢を追い続ける生活って、もしかしたら流されて生きることより辛いんじゃないのかな。
だから現実とぶつかる。砕ける。ダメになる。
僕は、結局生きることは苦しむことでしかないと思った。この言葉を、昔どこかで教わった気がする。
あれ、どこだっけ?そうだ、お釈迦様の言葉だった。
僕はぼんやりと、部屋の電灯を見上げた。
「僕の夢って…なんだっけ?」
僕はその後、偶然病院内で手話講座が開かれるという知らせを聞いた。
僕は、最近またしかめ面ばかりしている楓さんを思い切って誘ってみた。アルバイトしていた時期は機嫌が良い時期が多かったのに、彼はまた関わりずらい部類の人に舞い戻ってしまった。
「行かん!」
楓さんは即答した。
「いいじゃないですか?如何して、嫌なんですか?」
「わしは手話なんかに興味は無い!それにそんなことに手を出す余裕があったら、やり残したことに考えを巡らすわい」
僕は、彼の言葉にむっとした。
「そんなこと言って、この前からもう三日目ですよ。考えに進展はありました?」
「いや、考えを巡らしてはどこかつかみどころが無くって、曖昧だ。しかしもっと考えれば、結論めいたものは出ると思う」
「三日考えて結論が出ないなら、やめましょうよ。これ以上考えても結論なんて出ませんよ?」
「いや、もうちょっと、こう…本でも読めば、出る気がする!」
「出ません」
「出る!」
「だから、出ませんって!」
僕は大分強い口調で言った。楓さんは多分気づいていないんだろう。自分が思考の迷路に入り込んでいることに。
「かー!だまれだまれ!」
楓さんの皺の多い顔が、怒りで充血し出した。
「黙りません!行きましょう!」
僕には楓さんを直談判で説き伏せる必要があった。こんなところで折れるわけにはいかなかった。
楓さんは激昂しかかっていたが、ふと正気な顔をした。
僕は、彼にそういう冷静さがあったことに内心驚いた。楓さんには冷静な自分と感情的な自分がいるみたいだ。激昂していても、ふと冷静な自分に戻ることがあるのだ。
楓さんは、あごに手を当てて、少し考えた。
「…まあ、気分転換にはいいかな。荒巻、いってやる。ただ、わしはそんなんで答えがでるとは、まったく思っておらんからな」
楓さんは、自分の考えについて折れる気はないらしい。しかしそういう相手に付き合っているとキリがない。僕は、誘い出せたことだけでも良しとして、妥協することにした。
楓さんに一枚のプリントを渡した。さっきB 棟の休憩所においてあったものを持ってきたのだ。
プリントには、看護師が描いたであろう女性が、笑顔で両手を広げたポーズを作っている。とても簡単なイラストで、おそらく情報だけ伝達できれば良いという目的だろう。女性のイラストの下に、日付と時間が書き込まれていた。
今週の水曜日、一九時からC棟の会議室を借りて行うらしい。
病院でこういった行事をやる場合、開催する側には何らかの目的か意図があるはずだ。病院の患者に向けて手話の口座をやったところで、手話の宣伝効果は薄いと思う。ならば何が目当てなのだろうか。チラシには何も書かれていなかった。
「それじゃ、水曜日の一八時過ぎにまた来ますね。ちゃんとここに、いてくださいね」
楓さんは不満ありげに、「おう」とだけ答えた。
僕は別に楓さんと手話を勉強したいわけではなかった。目的は講座の後、一対一でゆっくり話せるよう時間を作ることだった。
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