第3話 霧の街と彼女の居場所(8)
次の日、僕と山村さんは休憩所で向う岸が来るのを待つようにした。しばらくすると、向う岸がやってきた。いつものように雑誌を開いて、読み始めた。
「よし、いけ」
山村さんが僕に指令を下した。僕は躊躇なく向う岸の方へずんずん歩いて行く。山村さんは廊下の陰に隠れていた。
「やあ、向う岸! 」
僕は威勢よく彼女に声を掛けた。彼女は黙ってこちらをじろじろと見てくる。そして、
「こんにちは」
と短く小さく返事をした。明らかに、僕と距離を置きたがっている風な態度だった。
くそう、心が痛い。
「何、読んでいるんだい? 」
僕は彼女にそう言った。顔には、己を欺くためのスマイルを貼りつけている。気持ちは全く愉快にならないから、前日から唇の両端と目じりを寄せる練習を繰り返して臨んだのだった。
彼女は雑誌を開いたままちょっと僕の方にやって見せた。彼女がこの前批評していたヒーロー漫画だ。
「おもしろいのか? 」
「ふつう」
向う岸の感情を殺したような声が返ってきた。
「そうか……」
僕は冷たくされ慣れていないから、どうも調子が悪くなってきて恐れ入ってしまった。第一、彼女からくる言葉をどうつなげていけば、会話が続くのかが分からない。
「そういやお前、昨日はここに来なかったよな? 」
「うん」
「どうかしたのか? 」
「うん、ちょっと用事があったんだ」
「へえ。どんな用事だ? 」
「ひみつ」
「へえ。なあ、もったいぶらずに教えてくれよ」
「ひみつ」
「へえ、そうかい……」
僕は閉口してしまった。だめだ、会話がまるで続けられない。僕の会話の技術が低いことは知っていたが、彼女にこうも突き放されては取りつく島も無い。
「ねえ、む」
「ひみつ」
彼女の言葉が殺気立ってきた。これ以上私にかかわるな、ということだろう。彼女はまるで餌を奪われた子猫のように威嚇してくる。下手に手を出せば、どんな痛い目に遭わされるか分からない。僕はどうしようもなくなって、大人しくとぼとぼと休憩所を後にした。
「お前、あの娘っこに嫌われとるな。なにか、悪いことでもしたのか? 」
僕が真剣に落ち込んでいるのに、山村老人はにやにやしていた。そうして、右手で生えかけたあごひげを撫でてじょりじょりという音を立てている。
「やっちまったのか? 」
「何をですか? 」
「言わんでもわかるだろう」
「いい加減にしてくださいよ」
僕は、自分のベッドに座りながら、目線は向うの床のタイルに向けていた。
山村さんは僕のベッドのそばに突っ立って、さっきからにやにやじょりじょりしている。僕は山村さんに、今までの彼女に対する僕の運動について説明した。そうして、その結果として現在彼女に嫌われていることも伝えた。
「それはだめだ。お前が嫌われては、説得のしようもない。相手の敏感なところに触れてしまうのは、相手に余計そこの価値観を信じ込ませることになる」
「じゃあ、僕はどうすれば……」
僕は、今日彼女に話し掛けてうまく心を開いてもらおうと考えていた。一回や二回でだめなものは、何度でも挑戦すれば良いと思っていたのだ。だから今日彼女にあしらわれる心の準備は、当然できていた。しかし、凹むものは凹む。これは説得に限ったことではないだろう。
山村さんは、僕に言った。
「よく言うじゃろ? 嫌いは好きの裏返しじゃ。もっとも危惧すべきは、無関心だ。
あの娘っこがお前を嫌っているのなら、それを逆転さえすれば、向うからこちらへ引きずり戻すことも出来る。そのためにはなにが必要か、」
「何が必要なんですか? 」
「相手を誠実に受け入れること。相手に、自分の愛情を知ってもらうこと、そのための行動を起こすこと」
「もうちょっと、具体的にお願いします」
「まあ、これからもあいつに運動し続けよということじゃ」
山村さんはそういうと、今度は右の人差し指と親指であごひげの伸びかかったやつを、指でつねり出した。そうして、ちょっとひねったと思うとそのまま抜いたりしている。
「ぜ、絶望だ……」
僕は、一瞬希望が見えたと思った分余計気分が悪くなった。またやるせない気分になった。山村老人はさらに言った。
「本当はな、娘っこを向こう側の人間と一切接触させない状況を作るのが一番良いのじゃが、まあいかんせん彼女の状況とこの病院を考えればそうもいくまい。あいつがお前に寄せる信頼だけが、頼みの綱なんじゃ」
「くう、絶望的だ……」
僕は頭を手で支えていた。暗澹たる気持ちだった。彼女を救い出した先に希望があるかすら分からないのに、その可能性に賭けて懸命に運動していくしかない。報われるか分からないのに、救いがあるかもわからないのに、働きかけ続けなければいけない。なんてむなしさだろう。
しかも葉菜と藪川には、むやみに彼女に障るなと言われた。その理由は、彼女の考え方の自由だったり、むやみに触れては両者とも危ないという考えからだった。
しかし二人とも、僕ほど彼女に近しいわけじゃない。「霧の街」の人を除けば、向う岸に病院内で一番近いのは、おそらく僕だ。僕の目から彼女を観察してみると、彼女は自分の考え方を上塗りされているように見えるし、別に腫物扱いする必要も無いように見える。むやみに心配してあれこれ自分たちだけで考えることこそ、杞憂と言うものだろう。
その点に関して、目の前の老人はいかにもしたたかだ。自分に対しても他人に対してもこだわりが少ないことが、彼の思考と活動の範囲を広げている。無駄に賢いところが無い。人間はこれくらいしたたかな方が良いと思う。下手な論理や知識は健全な気持ちを抑圧してしまう。
山村老人は言った。
「今のうちから、藪川先生のところに行っておこう」
どうして藪川のところに行くのだろうか。彼はむしろ、僕たちの運動に反対している。
「でも藪川さんには、向う岸の考え方とか、デリケートなところにはあまり触れるな、と……」
「ふうむ。向う岸が自分で志願して行った、という形を作れればよい」
「行ってどうするんですか? 」
「いやな、ある程度あの娘っこの説得が成功したら、の話じゃがな。強烈に刷り込まれた強迫観念をもう一度きれいに取り払った方が良い。先生にお願いして、その道具を揃えてもらう」
「病院に、そんな道具があるんですか? 」
「向うだって、市販の薬品やアロマで洗脳しておる。病院なら、演出の道具程度あるんじゃないかの」
「きっとあるんですかね? 」
「まあ、あるかもしれないな」
「僕は、ますます先行きが不安になってきました……」
どうやら山村老人の知識も、かなりお粗末なものらしい。待てよ、これで僕らは向う岸を助けられるのか?
「まあ、とにかく、先生にはわしがそれとなく、話を聞きに行く。孫がカルト集団に引き込まれたとでもいえばよい。精神科の先生も、つてで紹介してくれよう」
山村はそういうと、もう一度僕に言った。
「とにもかくにも、お前が娘っこに心を開いてもらうんじゃ。そこからしか、話ははじまらん」
それから、僕の向う岸への説得の日々が再度始まった。
ほぼ毎日、休憩所や彼女の病室(!)に行って、彼女の説得を試みた。もちろん、彼女はそんなものを到底聞き入れてくれない。僕を突っぱねる。しかし僕は彼女に接近するほかないから、次の日も懲りずに接近する。突っぱねられる。そうこうするうちに彼女は僕を見た途端に逃げ出すようになる。
僕は、その後姿を見て、なんだか胸が痛んで、病室に戻る。山村老人と話す。また説得するしかない、と決意を新たにする。でも次の日行くのは少し気が引けて、二日後にまた行く。今度は僕が話をすると、彼女は顔面に思いっきり嫌そうな表情を張り付けてくる。僕は当然ひるむが、徐々に打たれ強くなってきたと見えて、少しのことでは引き下がらなくなる。すると向う岸の方がうろたえる。その隙に説得しようと一気に踏み込むと、彼女は僕の脇を潜って逃げ去ってゆく。僕はその日はうなじをさすりながら病室に戻って、山村さんと話す。
山村さんがどうにかこうにかして、藪川を説得できたと自慢してくる。どんな手段を使ったのか、と僕が尋ねると、事情を大なり小なり盛って話したのだ、という。そして精神科の先生にカルトについて詳しい人がいるから、その人に知恵を貸してもらえると言う。話を聞いていると、どうやら山村さんの説得が効いたと言うより、向う岸の親族から医師へ運動があったらしい。そこに偶然、山村さんが加勢する形で加わったわけだ。
山村さんは僕に、
「これで外堀はある程度固まった。お前を邪魔立てするものはおらん。向うの連中にはかまうな。お前が娘っこを、こっちに引っ張ってこればよい」
と言って、自分の任務遂行を誇っている。
それでも僕は、彼からいくらかの勇気を得て、次の日もいく。すると彼女は僕を見て、すぐ病室に逃げ込む。(そろそろ僕自身が辛くなってきた。徐々に神経をすり減らしていく感じがする。これでも毎回、結構勇気が要るのだ)
今度は改めて考え直して、三日間空白を空けた。そしてもう一度、彼女の病室の入口近くに設置された椅子に座っていた。しばらくして、彼女がやってくる。
「や、やあ、向う岸」
毎日やってきたように、僕は向う岸に声を掛けた。向う岸は視線を僕の方に合わせないで、斜め下を見ている。
「う、うん」
そう言って、だぼだぼのピンクの病院着から出た腕をぶらぶらさせた。
「これからどこに行くんだ? 」
「お手洗い……」
僕は、しまったと思った。今の質問は年ごろの女の子に対するものとして、プライバシーにかかわるものだった。
「そ、そっか……」
ごめん、と言って、反省しながら帰ろうと思った。今日はまた一つ、彼女に失礼なことをしてしまった。最近、毎日のように彼女に失礼なことをしていることは自覚している。もっとうまい説得の方法があれば、そっちを取りたいと思う。しかし今の僕が彼女に出来る唯一にして最高の方法は、こんな飛び込み営業みたいな行為でしかないのだ。それも、最近では嫌がる彼女を見続けたせいもあって、僕はもうそろそろ諦めようかと思っていた。別に今すぐこの問題を解決する必要は無い。時間が解決してくれる問題の方が多いと思う。僕の努力でどうにもならないことでも、時間が問題をあるべきところに落ちつけてくれる。それを僕は待っていればいい。実のところ、僕が彼女にしていることが正しいのか間違っているのか、僕には分からない。そもそも正しいも悪も無いのかもしれない。葉菜が言っていたように、僕は彼女にとって、ただのお節介なのかもしれない。勝手な正義を振りかざして、他人の領域に土足で侵入しているだけなのかもしれない。最近は、病院やら山村さんやら周りからの加勢があって、ちょっと気が高ぶっていただけなのだ。僕一人なら、一、二回の説得でダメなら、もうあきらめたろう。
僕が後ろを向いて、静かに立ち去ろうとしたとき、後ろから声がした。
「あのさ、今日、ちょっと、時間ある? 」
僕は振り返ると、向う岸がまだそこに立っていた。しかし彼女は僕の方を向いていない。目線を斜め下に向けて、僕を見ないようにしていた。
向うのロビーから、人の声ががやがや聞こえてくる。看護師のアナウンスの声が、誰かを呼び出している。医療機器を乗せた金属カートが廊下を滑っていく音がする。老人の世間話の声が聞こえてくる。今日の病院は、いつもよりも活気があった。
彼女の声はますます小さくなった。それでも、やかましい病院の中、その声ははっきり聞こえた。
「話したいことがあるの」
彼女の声は、どこか張りつめているようだった。声は小さいのに、病院の騒音の中でも、よく聞き取れた。よく聞こえる声というのは、単純に音が大きかったりよく響いたりするだけではないのかもしれない。そこに一種の、覚悟と言うか気持ちが籠もっていると、それは強く耳に響く音になるように思う。僕は彼女の声を聞きながら、そんなことを考えていた。
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